魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

頭の切り換え 1

2008年07月01日 | 日記・エッセイ・コラム

コンビニ深夜営業規制に反発が広がっている。
業界が抵抗するのは解るが、消費者の「深夜営業が無くなったら生活できない」は、自覚がないからだ。

「コンビニの深夜エネルギーは微々たるもの」という業界の言い分はその通りでも、それが問題ではない。

どちらが先かは別にして、深夜型の生活文化にはコンビニが欠かせない。規制には、深夜型の社会を転換させる大きな波及効果がある。

深夜テレビ、24時間営業、車社会は、喫煙や飲酒と同じだ。
ゆとりがある時は止める必要はない。しかし、元々、必需品ではないのだから、害があるとわかれば、止めればいい。

ところが、たばこも酒も、止めるのは容易ではない。
たばこを止められないのはニコチン中毒とされているが、ほとんどが心理的な問題で、自分の生活の一部として、当たり前の存在だと思いこんでいるからだ。

親が死ぬ。恋人と別れる。新築のために古い家を壊す・・・
こういうことがつらいのは、無くても仕方がないものを、当たり前の存在だと思いこんでいたからだが、酒やたばこも同じだ。

よく、
それまで贅沢をしていた人が、仕事が行き詰まって対策を考える時、お金の使い方を変える話しには、必ず、「いまさら元の生活には戻せない」と言いだしたり、そういう気持ちで反論を始める。
そうして、自分は改めず、うまくいかなくなると、人のせいにしてグチり出す。典型的な例はタレントの岸部四郎だが、多くは自制の効かない末っ子型だ。
末っ子は良くも悪くも、環境対応での方向転換はうまいが、自制自律で行動を決定しない。例えば、たばこを止めるのも結局、「仕方なく」止める。

庶民感覚は、この末っ子型だ。
為政者に文句を言いながらも、現実対応で生きている。
環境に悪いから車に乗らないのではなく、ガソリン代が上がったら車に乗らない。タバコが2000円なら止める。
コンビニが深夜営業しなければ、昼間に買っておく。深夜娯楽が無ければ昼型になる。

だから、為政者は、どんなに文句を言われようと、環境づくりには英断を下さなければならない。
そして市民の側も、できるなら、自ら頭を切り換え、現状に逆らってでも、湯水のような消費生活を変える時が来ている。

「いまさら終戦直後のような暮らしはできない」と言っていると、向こうからやってくる。

日本で初めて配給制度が始まった1938年から70年。歴史は繰り返す。
早寝早起き、手作り、自転車、畑作り・・・ああ、何と健全な社会か