魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

現金な神 1

2018年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム

占いの観点で東洋と西洋を比較すると、いずれも、太古は素朴な神秘主義だが、観察から法則を求める文明以後、方向性は文明の性格によって、異なる性質を帯び始めた。
初めは、神や天の意思を知るために、星の動きや天変地異を観測していたが、やがて、より細微に観察を極めようとした西洋に対し、東洋は、早く答えを出そうと、より単純化を求めた。

中華文明は陰陽五行説など森羅万象の成り立ちを「決めつけ」、すべてをそれに当てはめ関連付けて判断の指針にする。これは古代ギリシャの4元素とも同類の発想といえる。
中東の占星術が伝わると、直ちに干支術に取り入れ、陰陽五行説に組み込んだ。
しかし、西洋占星術や錬金術はその後も観察や実験を続け、やがて科学を産んだ。さらに近代になると、欧州では、占星術も緻密な分析と分類に進んでいったが、東洋では陰陽五行の中にすべて閉じ込めたまま、千年以上、事実から学ぶことは無かった。

事実に対する姿勢の違い
西洋占星術は、疑似科学として蔑視されているが、それでも、未知の発見には謙虚に従う。(それが、科学からパクリと嫌われる理由なのだが)
一方、東洋占いは、事実に対して全く無頓着だ。どのような発見事実も、陰陽五行の概念から出るものではないからだ。何が起こっても、すでに結論は出ている。
新発見で哲学まで変わる西欧科学に対し、新事実は固定の哲学にどう組み込むかかの問題であり、それをどう利用するかの方が重要なのだ。

この実利において、中華文明の方が、西欧より合理的に見えるのだが、それはあくまで「現金」なのであって、物の成り立ちの整合性まで追求するものではない。
常に利益目的であり、新事実が告げる意味には関心がなく「決めつけ」で理解し、いかに実益を得るかに専念する。易経も兵法も、太極を説きながらも、どう行動すべきかどう生きるべきかを説いている。
東洋の太極や天は、一神教の神のように向かい合ってお願いしたり罰せられたりするものではなく、揺るがない真理として存在している。この「決めつけ」こそが、東洋の精神性、神秘性と見られるものの正体だろう。

中国の素晴らしいほどのパクリは、物の意味・精神性を全く無視する「物は物」としか見ない価値観から生まれている。
西欧のように、神の創造物ではなく、日本のように、物に神が宿ることもない。物は物として活用すれば良いのだ。要は、食えるか食えないか、役に立つか立たないかだ。
物より観念が先行する東洋の「決めつけ」による、揺るがない精神的「真理」があるから、より物理的になれるのかも知れない。

中国のしたたかな外交とよく言われるが、特に中国人が頭が良いとか、伝統的に老獪と言うわけではない。日本人や欧米人のように、物や論理に特別な意味づけをして、こだわることがないからだ。徹底的に「利害」に忠実に物を利用することが、こだわり人間には理解できない。
つまり、欧米人や日本人は、道理や正義に囚われて、自ら中国人に処世上の後れをとってしまうのだ。


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