魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

かおさす

2018年03月12日 | 京都&ケンミン文化

言葉は学校で覚えるものではない。状況から体得していくものだ。
近代以降は学校で言葉を整理され、国全体で、共通の認識をするようになったものの、文明以前の言葉の原点は、親子や家族の、身近な仲間でコミュニケーションが取れれば良かった。始めに事柄の共通認識があり、言葉はそれを補足するものだったのだろう。
大きな集団社会で生きる現代人も、基本は同じだ。学校を離れれば、言葉を覚え始めた子供と同じで、初めて聞く言葉は、状況から理解し体得している。一々、辞書を引く人は少ない。
NHKなどで言葉の調査をすると、本来の意味と違う認識で使われてる例がどんどん増えている。言葉はそうして変わっていく。

京都弁では、恥ずかしいことを「顔がさす」と言う。これは初めて聞いた時、その場の状況から、そのまま意味が解った。
その時は、多分、光が差して顔が明るみにさらされるように、人目に立って恥ずかしい意味だろうと思い、その後、深く考えないまま過ごし、普通に「お顔がさしますなあ」と聞き流していた。「お顔のささないホテル」の広告に、なおさらそう思った。

ある時、突然、ハタと気がついた。「違うがな!自分がさすんだ!」と、膝を打った。
「さす」と言う言葉自体、「刺す」や「指す」、「射す」だと思っていたが、「点す」に類似するニュアンスだ。
「紅をさす」と言えば、指や筆で、唇や頬に差し込むように塗ることだと思い、「陽がさす」とは、一条の光が差し込むように、方向性を持った光が入り込んでくることだとイメージしていた。
そうではない。光や紅が「さす」とは、一様に広がることだ。
「あかねさすむらさきのゆきしめのゆき・・・」の「あかねさす」も「紫」の枕詞であり、茜で染めたような紫をイメージさせる言葉なのだろう。「さす」は染めるだ。

古来の言葉が残る京都弁ならではの「顔さす」が、「顔射す」ではなく「顔点す」であり、顔が染まる=紅くなる・・・であることに、40年経って、初めて気がついた。
本当に、「おかおがさします」
でも、長生きはするものだ。死ぬ前に間に合った。


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