(“江戸の混浴”で訪問者数が予想以上に伸びたことにお応えして続編記事を投稿します)
当時、混浴湯屋は「入込(いりごみ)風呂」と呼ばれていて、江戸中期の約600軒の湯屋のうち
男専用27%、女専用3%を除いた70%の比率を占めていました。
また、遊女を置いていたのは200軒もあったそうです。
当然のことながら、幕府による禁止令も出されているのですが
結局、開国後の明治初期に外国の目を意識して完全に廃止されるまで続くことになります。
(右手前が女湯、左奥が男湯)
一応、男女別とされていた洗い場には
申し訳程度の仕切り板がありますがお互いが丸見えです。
なぜすぐになくせなかったのか
これには女性たちの暮らし方にも触れておく必要がありそうです。
それは当時、上半身裸の姿で過ごすことが日常的だったため
半裸での羞恥心が希薄だったと言われている点です。
当時の様子を知るうえで欠かせない浮世絵などにも
湯屋に行かず庭先でタライで行水する半裸姿や
湯上がりで帯も結ばず胸をはだけてゆったり過ごす様子が描かれていたりして
屋外での半裸姿が珍しいことではなく、ましてや屋内ではなおさらだったようです。
こうしたことが背景にあって、すでに人々の生活に混浴が定着していたため
その習慣をすぐになくすことはできなかったのでしょう。
単に混浴の話だけでしたらこれで話は終わるのですが
男性の中には“その先”を企てる輩がいることが、風紀上の大きな問題でした。
大いに賑わった混浴(入込)風呂をうたった川柳です。
「入込は抜き身、ハマグリごったなり」
また
「手長足長、いりごみの風呂のうち」
これは、女性がざくろ口をくぐって薄暗い湯船に浸かるとすぐに
男性の手や足が伸びて来た様子を伝えています。
さらには
「聞き及ぶに、ひそかに姦淫のこと、ありしぞ」
この文献からは、江戸後期の湯屋の淫乱な様子も分かります。
対策として、男女の入浴時間をずらす等されたといいます。
(左の男性の手、右真ん中の男女に注目)
こうして見ると、私のような爺は「羨ましい」などと無責任なことを言っていますが
若い方にとっては自分の恋人や奥さんもこうした環境下で暮らすことになるのですから
これはちょっと単純に良いと言うにはタメライがあるでしょう。
もっとも、今の子供達の中には、各家庭に風呂があるため
同性同士でさえ人前で裸になれない人種がすでに育っているというのですから
こと習慣に関しては、慣れ以外の何物でもないことは確かで、少なくても私より30年若い方は
ネットを含めた情報でこの程度の氾濫する画像を見慣れているはずですから
姦淫は別にしても、自分の彼女や奥さんの上半身裸の姿を他人に見られたところで
もうすでに、なんとも思わない時代になっている可能性もあります。
だって、そうしたマル秘プライベート写真でさえ投稿されているのを見かけることがありますから。
(あ、これは男性エ〇雑誌に限ったことですか !?)