6月抗争を歩きながらコロッケを咥える
旅行のように遊びながら休みながら訪ねる
1987年6月民主抗争記念地…
ソウル南営洞の対共分室から
イ・ハニョル記念館までの半日コース
かつて「南営洞対共分室」として使われた建物の警察庁人権保護センター。ソウル地下鉄1号線の南営駅プラットホームからすぐに見える=ビョン・ジミン記者//ハンギョレ新聞社
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ソウル地下鉄1号線の南営(ナミョン)駅プラットホーム。下り線のスクリーンドアの向こう側に灰色に光る建物がぱっくりと首を出している。龍山(ヨンサン)駅とソウル駅を前後から眺めるこの建物は、「南営洞(ナミョンドン)対共分室」と呼ばれた。故キム・グンテ議員など民主化運動家が連行され苦難に遭った悪名高い場所だ。「そんな建物がこんなところにあるとは…」。建物は威風堂々と大通りに面して立っている。南営駅1番出口から出て、ロッテリア社屋とホテルゾーンを過ぎて200歩も歩けば着く距離だ。 地図も必要ない。
パク・ジョンチョル拷問致死事件の秘密を明らかにした明洞聖堂
6月抗争30周年を迎え、熱かったその年の夏の韓国現代史も勉強し、ソウル市内の隠れた名所を訪ねてはどうだろうか。週刊ハンギョレ21は、その残酷で熱かった30年前の歴史の現場を半日で見て巡れるように「6月抗争記念地ガイド」を準備した。ツアーの中間中間で立ち寄る価値ある「美味しい店」紹介はおまけだ。
抗争の火種が始まったところを出発点としよう。現在は警察庁人権保護センターに変身した南営洞対共分室は、ソウル大学生パク・ジョンチョルが1987年1月14日に連行され、電気拷問・水拷問を受けて亡くなった場所だ。当時、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権は「ポンと叩いたらウッと言って倒れた」という創意性の貧困な弁解をして、寝ていた国民の鼻毛を抜いた。死を哀悼する追慕の波は6月抗争の導火線になった。
建物の5階には活動家を連行してきて拷問した調査室が、鳥小屋のように並んでいる。 ドアを1枚づつ開けるたびに恐怖にふるえた悲鳴が聞こえるようだ。部屋ごとに極めて平凡な便器と浴槽が設置されている。パク・ジョンチョルの遺影が飾られた調査室だけは唯一清潔だ。それがかえって背筋を寒くさせる。
この建物は、当代最高の建築家として賛辞を受けたキム・スグン(1931~86)が設計した。この建物の最大の特徴は内部構成にある。廊下を間に挟んで、両側に配置された16個の調査室は、向かい合う部屋の入口が交錯するように配置されている。同時にドアが開いても、向い側で調査されている人が誰なのか、またそこ何が行われているのかが分からない。調査室内で行われる“拷問”を念頭に置いたようなこの建物の内部構造は、建築家の「社会的責任」について重い質問を投げる。
次に訪ねる訪問地は“民主化の聖地”明洞聖堂(ミョンドンソンダン)だ。歩いて巡る前にどうしてもというならば、聖堂付近の「明洞餃子」に立ち寄って、韓国式うどん(カルグクス)に餃子一皿を追加してみることを薦める。明洞餃子のカルグクスは、やわらかい麺にコクのあるとろりとした肉のスープで有名だ。中が透けるような餃子は、肉汁がいっぱいで、行列ができていても味わう価値がある。
濃いカルグクスの汁のように、30年前の明洞聖堂での民主化熱気も熱くてあふれんばかりだった。1987年5月18日夕方、キム・スファン枢機卿の話を皮切りに、光州(クァンジュ)民主抗争7周忌追悼式が明洞聖堂で開かれた。キム・スンフン神父が、信者2千人あまりの前で震える声で「パク・ジョンチョル拷問致死事件の真相が歪曲された」として、その間隠されていた拷問警察官の氏名を一人ずつ呼び上げ世の中に知らせた。
明洞聖堂の尖塔は独裁政権を狙い、聖母マリアは闘士たちを保護した。抗争の決定的分岐点になった6月10日から15日まで、デモ隊は明洞聖堂を盾にして座り込みを行った。 キム・スファン枢機卿はデモ隊を逮捕しようとする警察に対し「私を踏み越え、神父を踏み越え、修道女も踏み越えてこそ学生たちに会えるだろう」と脅した。聖堂付近の啓星(ケソン)女子高生たちは、自分たちのご飯を弁当にしてデモ隊に渡した。
抗争指導部「国本」が誕生した香隣教会
1987年6月民主抗争記念地略図//ハンギョレ新聞社
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6月抗争の痕跡を訪ねた後の旅程は、明洞聖堂から100メートルほど離れた香隣(ヒャンニン)教会だ。道すがら明洞名物「明洞コロッケ」を味わって行こう。カリカリな衣とやわらかい中身があいまって口の中で民主主義を叫ぶ。野菜味、ジャガイモ味、辛子味、クリームチーズ味など、多様な食欲が尊重される統合の場だ。価格も庶民経済を考慮した。ただし、決まった量だけ売れば店を閉めるので、遅くに行けば徒労になることもある。
香隣教会は小さなろうそくが集まって松明になった場所だ。1987年5月27日、各分野で民主化運動をリードした代表者200人あまりがここに集まって「民主憲法争取国民運動本部」(国本)を結成した。国本の誕生により、制度圏で活動していた野党、統一民主党と在野勢力が一つの隊列を作ることができた。国本を通じて個別に闘争していた団体が一つになって、6月抗争と直選制改憲を引き出した。
国本の創立場所に香隣教会のような小さな教会が選ばれたのは偶然だった。当時、明洞聖堂や鍾路(チョンノ)5街のキリスト教会館のように活動家が頻繁に訪れていた大きな宗教施設の前には、戦闘警察と私服警察が群れ集まっていた。座り込みを主導する“要注意人物”が一堂に集まれないよう監視の目が光っていた。民主化運動団体は、5月27日午前8時という時間だけを決め、場所は決めずにあちこちに散らばっていて、明洞聖堂の向い側の路地にある香隣教会前が空いていることを見て、連絡を回してあっという間に集まった。24時間明洞聖堂前を見張っていた情報課の刑事たちは、完全に裏をかかれた。香隣教会の入口には、この日の“奇襲作戦”を賛える記念碑がある。
香隣教会と正反対の側に立っている「南道韓食堂チョンドゥンニム」も、知る人ぞ知る美味しい店だ。定食を注文すれば、やや酸っぱいカンジャミ(エイの稚魚)の和えものが一皿山盛りで出てきて食欲をかきたてる。メセンイ湯(カプサアオノリのスープ)と海草を味わい、南道料理らしいなと思った頃にコシの強い筏橋(ポルギョ)コマ(灰貝)が酒を呼ぶ。肉厚のハタの蒸し煮や、少し塩辛いカニの醤油漬け(カンジャンケジャン)から、カラシ菜キムチ(カッキムチ)まで南道の香りを感じることができる。
闘士が通った美味しい店のそばから抗争が始まる
1987年6月10日、抗争の開始を知らせた聖公会大聖堂=ビョン・ジミン記者//ハンギョレ新聞社
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6月抗争記念地を辿っていけば、あちこちでソウル都心の隠された美味しい店と出会える。長い歴史を抱いたソウル市内の中心街が、座り込みの現場だったおかげだ。実際、朴槿恵(パク・クネ)、チェ・スンシルの拘束を叫んだ光化門(クァンファムン)ろうそく集会の時も、口は楽しかった。大統領府に行く道が警察壁に遮られた時も、西村(ソチョン)の路地を歩き回って偶然に見つけたうどん屋、憲法裁判所に向けて行進した時も、中間で仁寺洞(インサドン)の入り口で立ち寄った海産物とねぎのチヂミ屋…。第13回集会ぐらいになると、まったくの常連になった店もあった。豚プルコギ定食がぐつぐつ煮える中で、「パク・クネは!」と叫ぶと、マッコリ一杯ぐっと飲みほして「テジン(退陣)しろ!」と応じた。
食べる楽しみが集会で、腫れた脚と枯れた喉を癒してくれた。チェ・スンシルのおかげで、10年ぶりに会えた大学の同期、地方から上がってきた親戚のおじさん、食堂の隣の席に座ったピケットを持ったおじさんなど、心の壁が崩れる瞬間があった。
「セシールレストラン」(現在のタルケビの場所)は、6月民主抗争当時に活動家のアジトであった。徳寿宮(トクスグン)そばの聖公会大聖堂の付属建物に1979年に開店したレストランで、時局宣言と記者会見が絶えなかった。政府がむやみに侵入できない宗教施設と連結しているため、1987年当時には国本の人々もこちらにしばしば集まった。ハンバーグステーキなどを食べさせる運動圏の思い出の場所として記憶されたセシールレストランは、2009年に店を閉めた。現在は韓定食の「タルケビ」が営業中だ。
旅程の4番目の目的地はセシールレストラン跡に隣接している聖公会大聖堂だ。ここから6月抗争が本格的に始まった。国本の指導部は、1987年6月10日聖堂に潜入して鐘を打ち鳴らし「パク・ジョンチョル君拷問致死歪曲・隠蔽糾弾、および護憲撤廃国民大会」の開催を宣言した。聖堂側がミサの奉仕者だと話したおかげで、警察を避けることができた。今でも聖公会大聖堂の後方には「6月民主抗争震源地」という碑石がある。
聖堂の向い側はソウル市庁前広場だ。延世大生イ・ハニョルの葬式が行われた7月9日、ここに100万人を超える人々が集まった。聖公会大学のハン・ホング教授は週刊ハンギョレ21に連載したコラム「歴史の話」で、当時の風景について「市庁前広場が満杯になったが、まだ葬列の後尾は新村(シンチョン)周辺にいた。官製の動員集会を除けば、檀君以来最大の人波が集まった」と書いた。ソウル特別市庁西小門(ソソムン)別館13階の展望台に上がって、その日の雰囲気を想像してみることをお勧めする。聖公会大聖堂と徳寿宮、市庁がひと目で見下ろせる。コーヒー一杯2千ウォンで楽しめるカフェもある。
イ・ハニョルの血染の服と靴がある記念館
最後に行って見たい所はイ・ハニョル記念館だ。イ・ハニョルは、1987年6月9日延世大の前でデモ中に戦闘警察が撃った催涙弾を後頭部に受けて1カ月後に亡くなった。イ・ハニョルの死は盧泰愚(ノ・テウ)民主正義党大統領候補が直選制改憲要求を受け入れる「6・29宣言」につながった。ソウル麻浦区(マポグ)老姑山洞(ノゴサンドン)54-38にあるイ・ハニョル記念館には、彼が最後のデモの時に着ていた服と靴、頭から血を流して倒れた時に彼を包んだ延世大化学工学科の旗が展示されている。イ・ハニョルが息をひきとった日、警察が押しかけて突き出した押収捜索検証令状も見ることができる。「押収する物:イ・ハニョルの遺体一体」という走り書きの字句が記されている。
ピョン・ジミン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )