萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

東京の富士と江戸の富士

2008年02月17日 | 散歩

<東京タワーから見た富士山。平成20年(2008年)2月>

「空気が澄んでる2月の快晴の日に、東京タワーに登ってみよう」

という考えは何年も前からあった。実現しなかったのは、毎年2月はスキーに行くとか、野球の練習開始などで休みがつぶれたり、暇な日があっても天気が良くなかったりとタイミングがあわず、ついつい、先送りにしてしまっていたからだ。

ま、そういう物理的条件もあっただろうが、なんと言っても「絶対行くんだ!」という強い気持ちがなかったのが一番だ。億劫がっていた背中を押してくれたのは、やはり、「ブログ」の力だと思う。

さて、何故東京タワーに登りたかったか、である。江戸散歩と称して、都内をあちこち見て回ったことがあるのだが、およそ、今の“東京”と昔の“江戸”ではかけ離れすぎていて、小生の乏しい想像力では江戸情緒を味わうことができない。一度、上空から観て見たら、何かつかめるかもしれない、と思ったのである。

特に、広重などの絵によく出てくる「富士山」。江戸の町が“大東京”に変貌しようとも「富士山」の形ばかりは変えられまい。東京の真ん中から見える「富士」とはどんなものか。ということに最大の興味があった。もちろん、小学生や高校生の時にも東京タワーから、富士山を見たことはあった。

しかしながら、「あっ、富士山だ」かなんか言って、次の日には、いやその日の内に忘れていたと思う。目的を持って見ようとすると、その対象物はいろいろなことを教えてくれる。

で、昨日見たのが、上の写真。大小さまざまなビル群から、その威容は抜きん出ている。圧倒的な存在感だ。11時頃だった為、少々ガスっているのが残念だが、それでもよく見えた。

下の絵は広重の「名所江戸百景」の「する賀てふ(駿河町)」である。日本橋駿河町からみた富士である。東京タワーのある芝と日本橋では多少、見る角度に違いはあるが、広重はかなりリアルに描いている。江戸人の見た富士と現代人は同じものを見ていると思っていいだろう。但し、この「する賀てふ」の解説を読んで愕然とした。



<広重作「する賀てふ」安政3年(1856年)9月>

『江戸の中心地日本橋の南北の町屋は、できるだけ江戸城と、霊峰富士山が望めるようにと都市計画がなされていた。駿河町では通りに立って南西の方向を望むと真正面に駿河の富士山を見ることができるように計画されており、町の名前もこの眺めから付けられた。』

というのだ。日々の暮らしの中で富士山を見られるように、都市計画をしていたというのですよ。なんという配慮だ。江戸幕府というのは粋でしたな。というより、自然というものの偉大さや美しさを理解していたのだと思う。

無秩序に大小様々、形も色もバラバラのビルを勝手に建てる現代の“大東京”と大違いである。かような見苦しい街にしてしまったのは誰の所為なのかはわからないが、江戸人の粋の何分の一かでも継承していたら、と考えさせられてしまった。

コメント
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