世界が t に開始したのだとすれば、その前は「空虚な時間」であるが、それは実は時間なのではなく、「その前」という言葉によって導かれた概念に過ぎない。そして、単なる概念は時間的実在へと移行しうる力を自らの内に持っていないから、世界はある時に開始したのではないのである。 (P.120)
上記の論法で言えば・・・宇宙に果てが有るのだとすれば、その外は「空虚な空間」であるが、それは実は空間なのではなく、「その外」という言葉によって導かれた概念に過ぎない。従って、宇宙には果ては無い・・・ のだろうか?
カントによれば、「人間は、言葉を直ちに実体化しようとする」。「私」という言葉が単数であって、いつも主語であることから、その独特の実体的存在が誤って推理されてしまう、という。 私=自我意識とは、意識の「過ち」であり、「自我」は「仮象」ということか?
しかし中島義道は、 私にとって他者とは私の表象の束に過ぎず、その存在は単なる概念である。だが、私にとって私の存在だけは単なる概念ではない。それこそ、超越論的観念論を語り出す主体として、超越論的観念論を根底で支えている実在である。 (P.127)という。 そうだろうか?
上記の論法で言えば・・・宇宙に果てが有るのだとすれば、その外は「空虚な空間」であるが、それは実は空間なのではなく、「その外」という言葉によって導かれた概念に過ぎない。従って、宇宙には果ては無い・・・ のだろうか?
カントによれば、「人間は、言葉を直ちに実体化しようとする」。「私」という言葉が単数であって、いつも主語であることから、その独特の実体的存在が誤って推理されてしまう、という。 私=自我意識とは、意識の「過ち」であり、「自我」は「仮象」ということか?
しかし中島義道は、 私にとって他者とは私の表象の束に過ぎず、その存在は単なる概念である。だが、私にとって私の存在だけは単なる概念ではない。それこそ、超越論的観念論を語り出す主体として、超越論的観念論を根底で支えている実在である。 (P.127)という。 そうだろうか?
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