すべての「いま」は過去に媒介されて、初めてその意味を獲得できるのである。 (P.105)
この世のあらゆるモノ・コトは相対的だと思う。「いま」と過去との相対性は、本来、理解しやすい筈だ。ところが、私たちは下手な「教育」を受けているので、「時間」を座標軸で考えてしまう。絶対的、直線的なものとして。
「いま」は、どこからかは知らぬが、われわれに一方的に与えられ、われわれはそれを受容するしかないのである。 (P.109)
「いま」が客観的世界を記述する言葉ではないと知って驚くには値しない。「いま」は善悪や美醜や快不快のみならず、あらあらゆる現実的なもの、あらゆる「心」に関するものが客観的世界から排斥されているように、それから排斥されているだけである。 (P.111)
世界には実在しない夥しいものが「あり」、時間もその一つに過ぎないのである。 (P.106)
一方的に与えられている「いま」と「時間」、そして「私」という自我とこの「世界」・・・ それらを、われわれは受容するしかない。悲しみとして、畏れとして受容するだけでなく、歓びとしても受容することが出来るのだろうか?
この世のあらゆるモノ・コトは相対的だと思う。「いま」と過去との相対性は、本来、理解しやすい筈だ。ところが、私たちは下手な「教育」を受けているので、「時間」を座標軸で考えてしまう。絶対的、直線的なものとして。
「いま」は、どこからかは知らぬが、われわれに一方的に与えられ、われわれはそれを受容するしかないのである。 (P.109)
「いま」が客観的世界を記述する言葉ではないと知って驚くには値しない。「いま」は善悪や美醜や快不快のみならず、あらあらゆる現実的なもの、あらゆる「心」に関するものが客観的世界から排斥されているように、それから排斥されているだけである。 (P.111)
世界には実在しない夥しいものが「あり」、時間もその一つに過ぎないのである。 (P.106)
一方的に与えられている「いま」と「時間」、そして「私」という自我とこの「世界」・・・ それらを、われわれは受容するしかない。悲しみとして、畏れとして受容するだけでなく、歓びとしても受容することが出来るのだろうか?
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