みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

真木悠介著「時間の比較社会学」 その4

2012-11-01 06:13:17 | 

第2章「古代日本の時間意識」は、次の3節で構成されています。
 1 神話の時間と歴史の時間
 2 氏族の時間と国家の時間
 3 世間の時間と実存の時間

万葉集や古今集から、柿本人麻呂、大伴家持、小野小町などの歌を引用し、作者の時間意識と古代国家の推移を説いています。最も楽しく興味深く読めた章です。

歌の解説の一例を以下に抜粋します。

   日並の皇子の命の馬並めて
       み狩立たしし時は来向ふ

周知のようにこの歌は、父である草壁皇子(日並の皇子)が生前大規模な狩を行った故地である安騎の野をある目的(皇位継承の儀礼)の為に訪れた軽皇子の立場に立って、柿本人麻呂がよんだ連作の最後のものであり、一首の大意は、父日並が駒を並べて狩に出で立ったその時が今、近づいて来ようとしているというものである。

この「時」は第1にまず、父の生前の故事の時として過去である。そして同時に、それは今まさに来ようとしている未来でもある。それは回帰の感動の歌であり、それはこの歌の、ローマ字にするとよく客観化されるけれども、くりかえされる音調の美学ともいうべきスタイルとも照応する。

著者の解説によって、古代の歌を実に魅力的に生き生きと感じることが出来ました。その代り、例の「死の恐怖」はもちろん、本書のメインテーマの筈の「生の虚無」についての思索も、置いてきぼりにした感があります。

Dscn2818岩波の「図書」11月号に、見田宗介と安田常雄の「同時代をどう叙述するか」と題する対談が掲載されています。「定本 見田宗介著作集」が8月で完結し、10月から「定本 真木悠介著作集」が始まったことを記念しての企画のようです。

この対談の記事で意外だったのは、見田宗介=真木悠介の語り口が平易だったことです。対談ですから話し言葉で、「時間の比較社会学」の書き言葉と異なるのは当然、というだけの理由ではなさそうです。「時間の~」の刊行は1981年。それから31年間が経っています。75歳・・是非はともかく、角が取れた、ということでしょうか。

見田はこんなことを言っています。 

歴史や社会の中で、一人の人間の孤独感や野望、幸福感や絶望感といったものがひしめいているダイナミズムを、どうしても捉えたい、と思ったんですね。

この思いは、見田宗介=真木悠介が人々を惹きつける源泉のようなものかも知れませんね。そして、これはまるで文学について語っているような・・と感じました。少なくとも、文学との親和性が高いのではないか、と。

古代の文学を取り上げた第3章は、私を楽しませてくれましたが、著者の方も、大いに楽しんで書いたのではないでしょうか。


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2 コメント

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第二章「古代日本の時間意識」が、本全体のテーマ... (守拙)
2012-11-06 13:53:20
第二章「古代日本の時間意識」が、本全体のテーマを離れても興味深く読めたということ、私も全く同感です。
若い頃、日本の古典に一向に興味が持てず、ただ黴臭いだけと思っていた時期に「時間の比較社会学」のこの章を読み、古事記や万葉集や古今集について、「こういう読み方ができるのか…」と驚き、目から鱗の思いがしたのを憶えています。また、他の章もそうですが、先行研究者(第二章ではもちろん日本の国文学研究者)の地道で労の多い業績や蓄積に非常に多くを負っており、「学問というのはやはりたいしたもんだ…」と殊勝な感想も持ちました。

しかし、それでも私の場合、万葉集を古典としてだけではなく、一読者としてごくごく普通に手にし、気にいったり気になったりする歌だけを読み、もちろん解説を傍らに置きながらですが、その魅力を心から実感するようになったのは、「時間の比較社会学」を初めて読んでからさらに時間がたち三十代も半ばになってからでした。
ほとんど近代詩人と言ってよいほど複雑で繊細なパーソナリティを持った大伴家持のメランコリックで洗練された抒情歌については、もっと若い頃に親しんでおくべきだったと悔やまれるばかり。さらに、拾い読みながら読み進めてゆくうちに引き込まれるようになったのは、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良らの長歌です。なかでも、まさに天才と言ってよい人麻呂の長歌には、月並みな言い方になりますが、詩人の魂にのりうつった古代の「神々の声」を聴くような気さえします。ただ、ここでも若いときの古文の不勉強がたたり、人麻呂の長歌の魔術のような多彩なイメージと調べの美しさは直接に伝わってきても、正確な意味は注釈がないととてもわかりませんが。

万葉が話題に出たのでもう一点。
万葉集では、もちろん数々の相聞歌の初々しさとみずみずしさが素晴らしいのは言うまでもありません。しかし、一読者として年輪を重ねそれなりに人生経験を経るにつれ、挽歌が最も心を打つと思うようになりました。今回、「時間の比較社会学」をあらためて読み直し、死の恐怖と生の虚無をメイン・テーマとするにもかからず、いや正確に言えば、そうであるからこそ、せっかくほぼ一章に近いページをさいて万葉を分析の対象としながら、万葉の挽歌について触れているところが少ないのに少し淋しく思いました。(まあ、これは望蜀の嘆。)
自己の死の恐怖とともに、他者の死の悲しみ、ことに愛する者の死の悲しみは、人間の実存的な感情として最も重要なものでしょう。そして、万葉の挽歌群ほど、他者の死の悲しみを歌って深く切々と魂に迫る詩を、私は他に知りません。それは明らかに、日本の古典という域を超えて、つまり、時代と地域と文化を超えて、人間の感情の根源的で普遍的な原型を言葉に表出・昇華しており、感動しないではいられません。

最後になりましたが、「見田宗介」と「真木悠介」の名前の使い分けについて、著者は、どこかで、次のような主旨のことを書いていたことが記憶にあります。(ただし、記憶なので正確かどうかは保証の限りではありませんが)
…社会的事実に関する客観的なデータの収集と分析を通じて、一人の社会学者の知見として、出来る限り多くの人々に知ってほしいことを書いた著作は、本名の見田宗介の名で、他者が関心を持つかどうかに関わりなく自分の生にとって最も切実な問題を思索した著作は筆名の真木悠介の名で出版している、と。

「図書」の11月号読んでみます。



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守拙様 (korei)
2012-11-09 07:54:40
守拙様
 本をあまり読まない私は、万葉集の歌も断片的に見聞きするだけでしたが、それでも、それらの豊かな世界には感銘を受けることがしばしばでした。しかし、「時間の比較社会学」との出会いによって、この齢で遅まきながら「目から鱗」の思いをしています。「時代と地域と文化を超えて、人間の感情の根源的で普遍的な原型を言葉に表出・昇華して」いる・・確かに、そんな印象がいたします。
 守拙さんは、お若い頃から古典にも親しまれて、その精神世界の深さ、豊かさに改めて敬意を覚えます。貴コメントを拝読して、残された私の人生の可能な範囲で、この偉大な古典とともに過ごす時間をもう少し持ちたいという気持を強くしました。おかげさまで!
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