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提婆達多(ダイバダッタ)はお釈迦様に背いた極悪人だとされているが、法華経は「提婆達多品」で、この極悪人さえ成仏した、と説いている。
また、女人は成仏できないと言われていたが、龍宮で法華経を説いた文殊菩薩によれば、8歳の童女も速やかに成仏したという。
悪人成仏説と女人成仏説は、多くの人々が仏教を受け入れていく機縁となった。さもありなんと思うし、この「提婆達多品」は、法華経の中でも特に親しまれ有難がられてきたのではないかと思う。
この有難い筈の提婆達多品について、良寛さんは「法華讃」で何と言っているのか。
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火宅においてすでに大白牛車に乗っているというのと同じで、地獄の中にも、娑婆世界の中にも、自性清浄の涅槃の世界がある、ということになろう。(牧村竹村牧男氏の解説より) 龍宮での文殊菩薩の説法など不要、というわけだ。
仏の相好(=身体的特徴)を具えていない者は、誰一人いない。とも書かれている。誰もがこの娑婆世界にいながらにして仏になりうる、ということを、良寛さんは力説している。
大千界の人 帰去来(かえりなんいざ) ともおっしゃっている。陶淵明の「帰去来の辞」を想起するけれど、良寛さんが言っているのは 自己そのものに帰るべき(竹村牧男氏の解説より) ということだ。
当記事の「その8」で、良寛さんは他力のようにも見えるけれども、実は「自力の極致」と書いたが、それはいわゆる「苦行」ではない。
しかし、自己そのものに帰るということは、簡単なようでいて如何に難しいことか!
そして、仏の本願にお任せするという他力本願(=自己を無くすということ)も、簡単なようでいてどんなに難しいことか!
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