新型コロナによる緊急事態宣言延期は、何かもういいか、という感じではある。何しろ90%を超える世論が、「延長すべき」か「致し方ない」という調査結果があるそうだ。そのような圧力に抗するだけの力が、菅政権には無いということだ。根拠にすべき科学的なものを一切無視して、何の根拠もない感情に流されるわけだ。それが政治だし、日本の社会だというのなら、まあそうだったんですか、と思うよりない。そういうことである。
ただし、これらの行動については、ちゃんと反対を表明して懸念を示している人々は一定以上存在はする。声は届くことは無いが、声はあげられるようにはなっている。別段反政府的な運動をやっている人たちではないし、比較的に根拠をもって話をしようと考えているに過ぎないので、声をあげざるを得ない人々である。弾圧されるようなことが無ければいいが、そのことも含めて、やっていることなんだろうと思う。今の状況は、恐らく日本が太平洋戦争に突入する頃と極めて似た世論形勢になっていると多くの人が指摘しているけれど、世論の動きや政治は同じように動いてはいるものの、弾圧については、幸いながら、具体的な暴力にまでは発展していないものと期待しよう。空気としては同じでも、生きていけるスペースは、現代社会にはあるということかもしれない。そういう意味では、まあ、まだましなのだ。
間違った判断にしても、当然後には検証はできる。春の場合も検証できたはずだが(はっきりと失敗だったが)、それは必ずしも上手く行ってない。そうして秋になり冬になり、繰り返された。それは人間の持つ感情の強さかもしれないし、学習ができない愚かさかもしれない。そうしてその両方があるのだろう。間違っていても、何度もその間違った予想を繰り返され、結果が伴わなくても、過大評価は続く。結論が間違っていても、その数値がたとえ小さくても、比較をする材料との相違は見ずに、積算した数値の大きさに感嘆の声をあげるのだ。
もちろん、先送りにされた問題も積みあがっている。先送りにして丸めて巨大化させているので、直視する段になると、またまたどんな驚きになるのだろうか。しかしそれも、結局は誰かが直視しなければならない。問題点の解決はないまま、そのような積み上げられた荷物は、いづれ解かれなければならないだろう。それらが運ばれていく先はどこか。それは誰にも分からない。もう分かりえなくもなってしまうのかもしれない。