カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

友達ならあんな感じにはならないだろうけど

2014-06-15 | 雑記

 芸能人を知らない僕でも、スマップぐらいは知っている。実は嵐も知っている。この人たちがジャニーズという事務所に所属しているくらいも知っている。なんだか、それだけでも通のような気分がするが、まあ、たぶんそんなことは無いのだろう。
 でもまあ、そろっているところはあんまり見ないかもしれない。揃っていてもそろっているのかどうかは分からないかもしれないが…。彼らは国民的なスターだなというのは、そんなに異論はない。それが何か、ということはあるが、それで何にも問題ない。でもまあ、このグループというか、集団というか、彼らの関係を時々思うのだけど、仕事だから仕方ないのだろうけど、男同士の付き合いをやっているように見えないな、という感じは抱いていた。なんとなくだけど、そういう距離感というか、仲が悪いとまでは思わないまでも、そんなではないかな、という空気のようなものを感じてしまうわけだ。
 そういう話をしていると、そんなの当り前じゃないか、と、多くの場合女の人が言う。普段は仲が悪いらしいよ、ということまで言う人がいる。ふーん、でもそうなのか。
 知らないのだけど、僕が言いたいのは、なんとなく不自然な感じということかもしれない。男同士のにおいがしない。でも仲が良さそうだということが感じられて、気になるのだろう。
 でもまあ、これもあんまり知らないけど、AKBなんかでもそれはそうなのである。彼女らはたぶん仲は悪いのじゃないか。でもスマップほど不自然には感じない。でもそういうことを言うと、これもやはり女性からは反発される。それはそうかな、とは思ってたけど、偶像(アイドル)なんだから当然なんだろう。僕なんかは中年なので、AKBが画面に出ているだけで恥ずかしくて逃げ出したくなるが、男の欲望をよくもまあ受け止めていて偉いなとは思うのである。要するに男視点の偶像集団を演じるということがあるんだろう。
 要するにスマップや嵐は、女視点の男の仲の良さの偶像なんだろうな、と思うわけだ。実は見え透いていても、でもこういう感じの付き合いをするような男たちだったら、女の人たちはいいな、と思うのではないか。あんまり興味のない僕のような人間が、違和感を持とうとそれが実際に自然だということだ。批判しているのではぜんぜん無いが、だからAKBは女たちの実情では当然違う。それでいいのである。実際の姿を見たいのではなくて、お互いに女目線、男目線の世界を見たいだけの事なんだろう。だから、素晴らしいということがエンタテインメントという世界というものだ。
 でもまあ、気が付いてみると、なんかいつもつるんでいる友達なんてものはいつの間にかいない。嵐がうらやましいのかもしれないとも思うわけだ。本当に仲良かったらいいのにな、と本心から思うのであります。
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本当に勝ちたいところは勇気もあるという話

2014-06-14 | 境界線

 事実として明白なものでもあんまり理解されなかったり変化しないものは多い。まあ、世の中はそういうものの総体を指すわけだが…。
 そういうものの代表的なものにバントがあると思う。
 統計的にみて明らかな差異が認められる事象として、バントをしなければ得点力は格段に上がる。考えてみると当然のことで、一応野球は9回まで各チーム27回までアウトをしていい。区切りはあるものの、ひとつのアウトを減らすことが出来ればそれだけチャンスが多くなる。27個アウトを奪われなければ、試合に負けないばかりか終了もしない。バントは相手がエラーする場合もあるけれど、基本的にひとつアウトを相手に献上する戦法だ。結果的に攻撃がそれだけ不利になったという見方ができるし、相手を助けているという見方も出来るわけだ。
 しかしながら当然だけれど、バントが戦術的に有利に思われる要素は多い。四つのベースを一周したら一点加点できるというルールだから、順番に塁を進めなければならない。そういうこともあって、セカンドベース以上に進塁することで、いわゆる得点圏に入るという感覚がある。一塁だと、長打や連打が生まれない限り得点につながらない。だからセカンドベース以上にランナーを進塁させていることで、得点力が上がっている状態という感覚が定着しているものと考えられる。
 そういうわけでランナーを2塁以上に進める状態になって初めて得点のチャンスが到来している状態、と事実上定義しているものと考えられる。それはそれで確かに納得できるようにも思えはするが、しかしながら、やはりよく考えると少しおかしい。何故ならば、野球にはやはり長打というものがあるからだろうと思われる。つまりランナーが無くても、長打力のあるバッターが打席に立てば、これは既に得点のチャンスである。ランナーの無い気楽な状態ということもあって、十分に長打を狙っても良さそうだ。それでかえって大振りになってチャンスを失うというようなことはあろうが、要するにランナー2塁が得点チャンスであるという定義自体が、なんとなく怪しいのではないか。
 イチローがマリナーズ時代に記録的に大勝したシーズンがあった。イチローの出塁が高いことと、ランナーが一塁にいる状態が多かったので、ピッチャーが打者に集中できないで大量失点につながったのだというデータが残った。要するにイチローが一塁にいるときに長打が生まれる確率があがったのだ。2塁や3塁でもランナーは気になるものだろうけれど、1塁ランナーの存在というのは、それなりにピッチャーには嫌なものなのではなかろうか。ましてや足の速いランナーがいつも2塁を狙っている。落ち着いて打者に投球するなんて至難の業だ。
 さらにこれは野球好きなら誰でも知っていることだが、野球は2アウトから、ということわざめいた言葉がある。スリーアウトを取られなければ、まだ終わりではない、という解釈が一般的だが、よく考えると、絶対にバントをしない状態であることも分かるだろう。打つしかない状態に置かれているのが、結局は有利に働いて得点につながるケースが多くなっているとも考えられる。もちろん心理的にも開き直るということもあるし、守備側も後ひとつアウトをとりさえすれば良いという油断というか安堵というか、そういうことも絡むのであろうが。
 野球は間合いの多いスポーツだし、ほぼ投手の力量でゲームの組み立てが決まるということもあるので、そのような心理的な影響を受けやすいとも言われている。そのために得点圏にランナーを置いてプレッシャーをかけることが有効だということは散々言われていることだ。それは確かに野球でプレーしている人間にも指導者にも実感の伴うことなのであろう。しかしだからこそバント重視の間違った選択を繰り返しているとも考えられる。さらにやはり打力の弱いチームにおいては、犠打を有効に使ってチャンスを生かす以外に活路を見出せない、という考えもあるのだろう。チームプレイや連携を重視するという考え方とも、バント戦法は相性がいいということもある。プロならともかく、野球という教育の場として指導している場合もあるので、バントをなくす戦略を捨てづらいということもありそうである。
 まあ実際には複雑な要素があり、単純には得点は取れないという考えに落ち着く場合が多いのかもしれない。しかしそれでもバントの数が減ると得点力があがる相関関係には、揺るぎは無いという。実際に現場は反対するがデータを重視してバントを捨てるチームもそれなりにいる。多くの場合実力以上に上位進出を果たす結果になっているという。まさにそれこそ戦略的な実力が高いといえよう。メジャーのようにあんまりバントをしなくなったら比較しようがないが、小中高校くらいの力量であれば、バントをしないチームの方がデータ的に明らかに得点力に差が見られるらしい。要は知っている人間が実行に移すか否かの問題なのであろう。
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ピザはシェアしたい

2014-06-13 | culture

 ピザを食べる楽しさのひとつは、仲間とシェアしあうことかもしれない。少なくとも僕はそうだ。数人いれば出来るだけ違うピザを注文し、いろいろ分けて食べる。いろいろトッピングを増やして食うという方法もありだけど、基本的に一番の好みを多く食べたいというのはあるけれど、だいたいそういう感じで食べている人は多いのではないか。
 ところでテレビを見ていたらイタリア人がピザのことを話していて、本場のイタリアでピザをシェアすることはありえないと紹介していた。何故かは無い、イタリアのピザとはそういうものだ、ということだった。そういう彼も日本だとシェアしあうのだそうで、これはこれでいいとも思うようだが、しかしイタリアに帰るとピザはシェアできないのだろう。
 ちなみにイタリア人はピザをナイフとフォークで食うらしい。美味しいビザの伝来は歓迎するけれど、そういう風習や文化は根付きにくいものなのかもしれない。
 日本が食べ物をシェアして食べるのは、鍋文化や大皿文化の転用だと思うが、居酒屋のようなところで小皿を取り合っても、いろいろ箸をつけていいというのは独特なようである。皆好きなものを注文して、しかし支払いは割り勘。こういうことに不公平を感じるのも諸外国人にはあるらしい。アジア系は共感があるだろうけど。
 前にも書いたが、以前居酒屋に入って、さあ何を注文しようか、といったら、若い人がいきなりカツ丼を頼んでびっくりしたことがあるが、今やこれは普通らしい。もう僕もびっくりしないかもしれない。そうするとシェア文化というのは老人性のものがあるということも言えそうで、あるいは廃れる可能性があるかもしれない。日本の伝統といえば大げさだが、核家族問題が背景にあるのだろうし、こういうことでも習慣というのは簡単に変化するものなのだろう。
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特別にというニュアンスではあるが

2014-06-12 | ことば

 時節柄さまざまな挨拶を聞く。自分の挨拶の参考にもなるので、預かった文章を読む人以外の挨拶は、あんがい真剣に聞いている。面白い挨拶をしてくれる人がいれば、それなりに感心するし憧れる。しかしながら狙いすぎてもパーソナリティが違うものはどうしようもない。なるほどと思えば心にメモする程度かもしれない。
 ところで日本語で厄介なのは、やはり敬語の使い方というのはある。特にこれが挨拶のときに失敗してしまうと、ちょっと恥ずかしい感じが残るかもしれない。失敗くらいは寛容になる必要があるけれど、本人が気付かないだろう残念さにおいては、ちょっと深刻さを覚えることがあるかもしれない。翻って自分を鑑みても、なんとも恐ろしいという気がしないではない。
 先日もそういうことがあった。話している人の事業所の役員が変わったという近況を伝えていた。新たな役員として「わざわざ弟に帰ってきていただいて」自分の事業を支えてもらうことにしたらしい。うーん。恐らく家族経営で、そういう気持ちにはうそは無いのだろうけど、これは誰も注意しにくいかもしれない。50代くらいの人なので、ぎりぎり誰か言うかもしれないが、むしろこれは晒される人間になりそうにも思えた。
 次に少し若い人、といっても30代後半にさしかかるところだろうか。いろんな人が長時間話した後のことで、「わざわざ聞いていたけれど、面白くもあった」というようなことを言ってしまった。一瞬場が静まったが、これは結構ウケていた。あれ、なんか俺言ったかな、という感じで屈託の無い感じの人だったので、災い転じて、という場面になったかもしれない。これはひょっとすると注意する人がいるかもしれないが、あえて使えるネタとして持っておくのも悪くないかもしれない。とはいえお笑い芸人ではない。難しい芸であることは間違いあるまい。
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倫理的に正しいことは感情的にはつらかったりする   功利主義入門・はじめての倫理学

2014-06-11 | 読書

功利主義入門・はじめての倫理学/児玉聡著(ちくま新書)

 いろいろと考えさせられて面白く読んだわけだが、最初から批判の気分が無いわけではない。思考実験は、いわば遊びなので目くじら立てて言っているわけではないが、やはり実際には本質から遠いという気もするからだろう。たとえば暴走列車が来ている状況下で、そのままだと5人の命が失われると考えられるが、路線を変更させると、一人が亡くなるだけで済む場合、この路線変更をさせるべきなのか問題というのがある。一人でも多くの人間の命が助かるのならば変更させるべきということになるし、さらに突っ込んで考えると、一人の方が身内であるとか知人である場合はどうなんだとか、設定を変えていろいろ悩んで遊べるわけだ。人が死ぬという究極の設定で倫理を問われているのだが、どのように考えた方がより合理的なことになるのか、ということになるのかもしれない。実際に暴走列車が走ってきたら逃げろと皆に伝えるくらいで、路線変更をさせようなどと言うテクニカルなことに考えが及ぶとは思えないわけだが、つまりそういうことはとりあえず無視して考えて、そうして実際の話この考え方がどんな場合にあたるのか、演繹して思考をめぐらせてみると良いのかもしれない。
 そうすると、タイムリーでなおかつ難しい問題というか、テーマとして選ぶならば、原発問題ならばどうだろう。震災と津波の被害で福島原発事故が起こった今、日本の原発は超法規的処置ですべてが停まってしまった。政治的な判断とはいえ、マスコミや世論がそうさせていると考えて、まず間違いなかろう。また第二の福島が生まれる恐怖感も根底にあるだろうし、事故を防ぐことに100%安全だということが出来ない科学に対する不信もあるように思われる(だからこそ科学的に正しいといえるのだけれど)。都市の生活を支える電力を地方が担わなければならない不条理などの問題もあろう。幸い日本は財政的に大変に豊かということもあって、赤字を出しても他の天然資源を輸入して、その場をしのぐ選択が出来ているという現実もある。しかしながら、資源の無い国にありながら、現在のエネルギー需要を維持するだけでも恒久的な方法としてこの選択であり続けられることは無理がありそうなことは明らかである。さらに日本だけの問題ではなく、資源産出国においても炭鉱などの事故は多発しており、さらに天然資源を燃やすことによる環境問題、ことに地球温暖化問題などの将来にわたる問題の先送りと深刻化は増していると思われる。日本が原発を止めることによる直接的と間接的な被害は、合理的に考えるならば、明らかに原発を再稼動させることで大方は解決されるはずである。しかしながら、そうであっても、今の日本の現実が倫理的に明らかに間違った選択だということが言えるのだろうか。
 答えは当然イエスのはずだが、これが理解できる人がどれくらいいるのだろうか。つまり功利主義は、現実の政治の世界では、あまり役に立っていないかもしれない。
 そうではあるのだが、倫理的に正しいこととは一体なんだというのか。倫理的に正しすぎることは、ひょっとすると個人の自由さえ奪いかねない問題もはらんでいる。そういうバランス感覚も含めて、倫理問題を哲学的に考えるというのはどういうことなのか。面白く読んで悩んで楽しむには、まずはお手軽でいい本なのではなかろうか。
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上から目線で腹が立つ人

2014-06-10 | ことば

 「上から目線」というのは比較的に新しい言葉のようにも思う。少なくとも僕の子供の頃には無かったようだ。そうして大人になってからも、比較的近年になって改めて頻繁に聞かれるようになったのではなかろうか。つまり気にする人が増えて使う人も増えている感じがする。
 意味は分かるし、そういう「上から目線」の人が嫌だというのは僕も一緒である。しかし、気になるというのは、上から目線の人に対するまなざしと言うか、発言している人の無頓着ということかもしれない。
 あの人は上から目線で人を馬鹿にしている、という話を聞く「あの人」は、実はあんがい偉そうだったりする場合だけとは限らなかったりするわけだ。むしろ、なんというか、発話者にとっては相手を見下しているようなことが発露しているようなことが結構ある気がする。これは逆に下のものからそういう態度を取られて憤慨してしまうヤンキーっぽい人ということも多い。おいおい、お前はどんだけ偉いんだ、ということか。
 人に上下は無いとは建前上思う。しかしながら実際には偉い人もいるわけで、そういう偉い人が偉そうで何が悪いのか、ということも時々思う。それというのも、偉い社長さんとか会長さんとか先生などが壇上から偉そうにものを言う、などと怒っている人がたまにいる。僕なんかのように比較的身分の低い人間からすると、それだけで結構驚くというのがある。彼らは偉そうじゃなくて偉いのだから、まさに上から目線でちょうどいいんじゃないか。偉い人が腰が低く頼りなさそうでどうするんだろう。ま、それがキャラクターなら仕方ないけど。
 確かに消費者として、自分とは直接関係の無い有名どころの社長とか先生などが偉そうなのが気に食わないというのはあるだろう。自分が偉いというより、単にそれは嫌な人というだけのことで、特に上から目線を気にするようなことでもなさそうである。
 さらに僕はみのもんた系の人が偉そうで嫌だけど、正直に言って彼らを見下しているというのがあるのかもしれない。何であんなに馬鹿そうな人間の話を、テレビとはいえ見せられなければならないのか、という怒りがあるのだろう。どんだけ僕が上から目線で彼らを見ているのかということになるが、それでいったい何の問題があるのか、とも思う。
 結局は相対的な儒教的な社会にあって、しかし妙な平等主義教育を受けた弊害が生み出した言葉ということが言えるのかもしれない。僕のような下の人間から指摘してしまうと、怒られる可能性が高い言葉なのであろう。
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ふてぶてしくも可愛そうな犯人   刑事コロンボ・魔術師の幻想

2014-06-09 | コロンボ

刑事コロンボ・魔術師の幻想/ハーヴェイ・ハート監督

 カードマジックのトリックのネタばらしの場面があって、やっと観たことがある記憶が蘇った。そういえばこのコロンボのおかげでマジジャンは少し困ったのではなかろうか。実際に魔法を使える人間はいないので、何かトリックはある。いや、あるはずで、基本的に殺人事件を解く刑事と、マジシャンとは相性が良い様にも思う(いや、悪いというべきか)。今はどうだか知らないけれど、以前はこのようなマジックショーの謎解きのようなバラエティは結構あって、謎解きに参加するメンバーには、必ず推理小説家が入っていた。コロンボの場合は脚本家ということになるが、ミステリを考え付いたりする才能というのは、マジックのトリックを考えることと似ていることもあるのではなかろうか。
 そういうわけで、マジシャンといえども逃げ場はない。しかし、このふてぶてしい犯人ではあるが、なんとなく僕は同情してしまう心情もないではない。殺人は確かに身勝手なところがあるから駄目というのは分かるが、被害者から恐喝されていたわけで、それでも殺されて当然の人間だったかどうかということもあるが、しかしやはりマジックやトリックの覚えがある人間であるから分からないように殺したくなるのも無理はないではないか。過去を抱えたまま生きていく人間は本当につらいものである。
 さて、それでもこのトリックにも、さらに謎解きにも、いくつかの偶然によって成り立っているものが結構ある。いくら厨房が忙しいといえども、やはり分かるものは分かるだろうし、タイプライターのリボンにしても、見つけたのは偉いことかもしれないが、やはりかなり偶然という感じもする。しかしながら生きているのがそういうことなんだということになると、何にもいえないわけではあるが…。
 それにしても犯人は、脱出を得意とするわけで、さらに手錠もはずせるのだから逃げるのも簡単なのではないか問題、というのもありそうだ。そういうチャレンジのための続編があればいいのだが、恐らくなさそうなところをみると、やはり仕掛けというのが必要そうだということになる。刑務所にある材料で足りるといいけどね。
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自分自身を支配する方法   使える行動分析学―自分実験のすすめ

2014-06-08 | 読書

使える行動分析学―自分実験のすすめ/島宗理著(ちくま新書)

 悪癖が抜けない、というのはひとつの悩みではある。意思が弱いとか、自分の性格を呪うことにもなりかねない。またやってしまったと自己嫌悪に陥る。自分の愚かさに呆れてしまう。やりたい勉強をする時間がないし、仕事に追われるし、よく見落としのミスがあるし、集中力は続かないし、朝起きるのがつらいし、食べ過ぎて太ってしまう。わかっちゃいるはずなんだけど、どうにもそのようなことを繰り返してばかりいる。ハウツー本や自己啓発の本なんかを読んでその気になっても、やっぱり長くは続かない。セミナーを受けてもその場限り、空回りばかりが続いてしまって、ついにはそういう自分を受け入れてあきらめてしまう。
 中には上手くいった経験もないではない。あの時は調子よかったよな。でもその原因を本当には分かっていない。だから成功体験が続かない。ひょっとするとやり方でどうにかなるのではないか。そういう思いのある人には、まずはうってつけの本かもしれない。
 論理的なことも書いてはあるが、要は自分で変えたい自分の問題を実験してみようというマニュアルである。やり方はそんなに難しいわけではない。自分の行動を客観的に観察して、原因と思われる行動をやらないとか逆に好ましいことをやれるように導くことをやればいい。それをやはり記録につけて客観視する。非常に当たり前に当たり前のことをするだけで、自分の意思とは関係なしに、おおかたは自分の好ましい習慣が出来上がっていくという仕組みである。
 それだけで上手くいくはずがないと普通の人は思うだろうと思う。いろいろ例を挙げてやり方を紹介しているが、たとえばダイエットにしてみても、必ずしもこのようなやり方が一番正しいというようなことをいっているわけではない。要は自分で考えて、自分が納得の上で実験を試行錯誤して、やり遂げられれば結果がついてくるというだけのことだ。しかしそれだけが何より貴重な記録になり、そうして最終的には、やる気とか性格とは関係なしに、自分のなりたい自分であるとか、目標を達成する手助けになるという算段だ。
 何かをやり遂げることに長けている人や、自制の効いた生活の出来ている人は何が違うというのだろう。それは恐らくなのだが、知らず知らずに自分なりにこの自分実験の方法を実践している人なのではなかろうか。このやり方は実に合理的に誰にでも出来るように工夫してあるわけだが、そのような方法論は、何も目新しいものではない。そういうものが自然に身についている人は、このやり方の亜流を掴んでいるに違いないという気がする。そういう意味ではまさに王道の方法論だが、悲しいかな、多くの人はこの方法さえ実験を断念してしまう。どの程度やったらいいのかということもあるけれど、実験はやり続ける必要がありそうに思える。自分は変えられるけれど、それはよい方向だけとは限らないからだ。もちろん、誰もあなたを騙しているわけではない。自分自身という思い通りにならない他人を効率的に支配する。そのためには、やはりこのようなやり方で実験を繰り返していくよりないのであろう。
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みんなが読んで世の中が変わってほしい   自分では気付かない、ココロの盲点

2014-06-07 | 読書

自分では気付かない、ココロの盲点/池谷裕二著(朝日出版社)

 人間は本能が壊れた動物だ、と言ったのは岸田秀だが、意味としては分かるけれど、あんがい本能は残っているようだ。しかしながら、一般的に多くの人が自分の本能は何かと問われたら、食欲やら睡眠欲やら性欲などを思い浮かべることだろうと思う。それはその通りなのだけど、もっと人間は本能的に生きていることを知らないだけのことだ。自分の好みや選択においても、実は人間としての本能に左右させられている。それもそのことに微塵も疑いを持っていないし、気付くそぶりさえない。指摘されてもおそらく実感がないだろうし、さらにそれは間違いだとも感じるだろう。確かに選択というのは自分のはっきりした意識化において自分の好みでなされたものだからだ。しかしながらたとえそれが自分の意思であっても、自分の本能から逃れて選択することの方が不可能なのだ。人間というのは自分自身であっても信用のならない動物で、結局は本能的な能力や誤解を回避することは出来ない。それでこそ人間という動物であるともいえるわけで、これは大変にショッキングな事実なのである。
 そういう事実というのは信じがたい謎でもあるが、かなりの部分はやはりこのように解明されてきている。今まで気付かなかっただけではなく、知りもしなかったのだ。そうしていつの間にか自分自身に自分が騙されて生活している。それでも満足ならそれでいいけれど、そういう癖というものを知って生活すると、何かが変わるのではないか。可能性としてそういう期待が持てる。世の中のほとんどの人たちはそのことさえ知らないのである。そうして人間たちは堂々と物事を誤った誤解や偏見で選択し続けているのである。まさに世界を変える本。それがこの本である可能性を持っている。
 薄くてすぐにでも読んでしまえる本だけれど、内容は実に侮れない。書いてある文字数以上に、非常に濃密な情報が含まれている。実際にこの本は大変な労力と時間をかけて作られたらしい。さらに値段もものすごく安い。こんな本がうっかりみんなに知れ渡ったら、自分だけが知っていて得することも、あまりうまみがなくなってしまうかもしれない。しかしながら、それでもこの本は多くの人に読まれるべきだろう。自分のことさえ何も知らない人間ばかりで社会が形成されているとしたら、それは人類にとって幸福なこととはいえないだろう。願わくば、本当に理解している人が増えて、まともな政治が行われていくことを切に祈るのみである。
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傑作でなおかつ価値の高い面白本  ピープス氏の秘められた日記

2014-06-06 | 読書

ピープス氏の秘められた日記/臼田昭著(岩波新書)

 日記は誰のためにつけるのか。そういう問い自体は少し変ではある。何故なら本当は日記は自分のためにつけているはずだからである。自分が書くために書いたり、後で読み返すことも含めて記録をつける。日記本来は、そのようなことで存在している。そのはずなんだが、日記文学のようなものがある。実は他人が読んでも、というか、他人が読むからこそ、日記は面白いという事実がある。
 永井荷風などは、最初は本当に自分のために日記をつけていたはずなんだが、これは後に他人が読んでも面白いだろうことに気付き、意識を変えて残したのではないかといわれている。アンネの日記は、自分の性器を克明に記録している描写などもあることから、確かに他人に見せる意識があって書かれたものではないだろうことは見て取れるが、父親がある程度手を加えていることも公然の秘密であるようだ。出版物としての日記ならば、そのような多少の手直しということは仕方が無いことであろうが、その日記本来のまっさらな目的で書かれたものには、他人の興味をひきつける麻薬のような魅力があることは間違いが無い。ピープス氏の日記も、読む他人のことはまったく意識されていないからこそ、その内容が素晴らしく面白くなっていることは間違いない。もちろん紹介している側が拾い出して紹介していることはあるわけだが、内容についての魅力のほとんどは、秘密だからこそ深い味わいがあったり、驚きがあったり、おかしかったりするわけだ。日記文学とはほど遠い日記だけれど、まさに傑作といっていい記録なのではなかろうか。
 日記が面白い最大の理由は、読む側ののぞき趣味を満足させるというのを除けば、やはり内容がどうしても面白くなっているということがある。なぜ面白いのかというのは、他人の目を気にしていないからである。他人の目を気にしない人間がどうなるかというと、そこには本音が書かれることになる。嘘も排除される。わざわざ自分に嘘や遠慮をしても仕方が無いから、真実で本当のことが書かれていると考えられる。事実は小説より奇なり、とも言われるが、別に奇なことでなくても、事実こそが面白いのだ。本音こそが面白いのだ。
 ピープスさんは後に偉くなるので必ずしも市井の人というわけではないのかもしれないが、人のねたみはもちろん、いつも金のことは気にしているし、奥さんにばれなければ、いつも綺麗な婦人に心を惹かれている。時には具体的に口説いてみたり、どこかに誘い込んで悪さをしている。教会で説教を聞いている時であっても、気に入った婦人のそばに座って悪さをしてしまう始末である。悪癖はなかなか治らないし、金を貸せばいつまでも気になっている。出世欲もあるし、嫌な人間もいる。神には都合よく感謝し、上手くいかなければ罵りたくもなる。実に人間くさい俗物なのだが、どこか憎めない。時折なかなか活躍して、自分で自分を大いに褒め称えている。まさに正直な心情だから、出来事そのものが実に生き生きとしているように見える。
 後に紹介者である著者も書いているが、ピープス氏が出世するのは、日記に書いてあるような正直な面を、公の場ではむしろ控えめにする術を心得ていたからではないか、ということなのである。心の中では実際には誰それが悪く自分の所為ではないといいながら、公の場では役人として自分の推量をバランスよく図る能力に長けていたようだ。むしろ日記で自分の心情を十分に吐露し、日常の精神衛生の均衡を図ることに成功していた可能性が高いということだ。人に絶対に見せない日記があったからこそ、ピープス氏は俗世界で大成功を収め、出世を上り詰めたのである。そういう意味では(日記としては中断しているが)見事なサクセス・ストーリーの舞台裏ということも言えるのだろう。
 人間の正直な面が出せる場というのは、本当に限られている。お国が変わってもまったく違ったことではない。人間というのはそういう生き物なのだ。悲しくも可笑しい正直な人間の内面を読むことは、本当の人間の姿を知ることにもなるだろう。ピープスさんは死後まで日記を隠しとおせることが出来なかったことで、後世の人間に希望を与えている。妙な本だが、名著だろう。
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恋愛にはドラマが必要   恋人たちの食卓

2014-06-05 | 映画

恋人たちの食卓/アン・リー監督

 観たことがあるはずなんだが再度。もちろん見事に忘れていて、ちゃんと楽しめた。最初から料理の素晴らしい場面が多くて引き込まれるが、そういうのは客の興味を引くための演出で、つまるところ女たちを中心とする恋愛エピソード・ドラマである。妻に先立たれた料理人の父一人に三人姉妹の子供のそれぞれの恋愛が、群像劇として描かれる。いろいろ仕掛けがあって重層的に楽しめるのみならず、不思議なことに大どんでん返しもあったりしてそれなりに驚く。恋愛にはドラマがつきものだが、まさに人の数だけドラマがある。それも意外な人が意外な恋愛をすることになるから面白いわけで、そういうあるある感も楽しみの一つかもしれない。
 三人姉妹だから年齢が違うので、そういう恋愛をする背景が違う。また高校教師、キャリアウーマン、女子大生という立場だから、周りにいる男達が当然違う。それぞれに苦しんだりいい思いをしたりするのだが、恋愛感情だけでなく、人間関係の複雑な絡みようもなかなかの見所になる。それにしてもこれに性格的なことが絡むのだから、恋愛後に結婚ということになったりすると、また家族のありようも変わっていく。最初に父の作った料理を囲んであれこれ悩んでいた娘たちの境遇が、ラストになるとまったく違ったものへと変貌を遂げる。このコントラストが見事であって、父親が偉大な料理人だという特殊性はあるにせよ、家族のあり方そのものについても考えさせられる内容なのではなかろうか。
 どのお話も面白いのだが、いろいろ心配しなくてもとりあえず皆片付いてしまうのだから、ハッピーである。映画とは関係ないことだが、これがこれですまないというか、恋愛自体が成就しない人もいるだろうこともあるわけで、それではお話が面白くなくなるかもしれないけれど、そういう問題のことも考えてしまうのだった。それは悲劇として最悪かもしれないが、実際に三人姉妹プラス男一人だと、そういうケースくらいあっても当然という気がする。実際にところ長女がそういう境遇に陥ってしまっている感じはあったが、強引にとんでもない方法で解決してしまう。女の力は凄いということになるが、やはり事件があってのことだったことも確かである。振られるのは恐ろしいことだが、しかしその傷を負う恐怖のために行動を起こせない女性は数多いのではないか(男だってそうだけど)。その一歩が踏み出せるきっかけのためには、やはりそれなりのドラマが必要だということなのかもしれない。
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よく出来すぎていつまでも不快だ   クローサー

2014-06-04 | 映画

クローサー/マイク・ニコルズ監督

 元は舞台作品だという。なるほど、それでそういう動きの少ない心理劇になったのかと納得。基本的に良くできた復讐の物語だが、これは考えてみると極めて即物的に女という存在がモノである。そういうことを無視できて自然にそういう考え方をする生き物だという納得がいくと、なるほどの逆転復讐を楽しむことが出来るということなんだろう。
 見ていていろいろ考えさせられるのだが、習慣の違いもあってか、いちいち引っかかるというか、ちょっと不思議に思うことは多かった。男女の恋愛だから個人の感情をどうこういっても仕方が無い。付き合っている人がいても、他に好きになる場合は当然あろう。倫理問題ならそれでは済まないが、そういうことをつきつめる話ではない。しかしこの場合は二つのカップルのうち一方の女と一方の男がそういう具合に脱線する。お互いに不倫や浮気である。男の場合は不倫の恋愛を楽しんでいるという程度が少しありそう。美男で自信もあるし、振る舞いとしてそうありたい、があるかもしれない。しかし女の方は、夫と別れてこの恋自体を成就させようと思い悩んでいるようだ。そのために、夫の最後の要求にこたえようという気になったということらしい。
 結果的にこれでいろいろと最後になって展開が激しくなる。という仕掛けが待っている。夫の罠は、実はかなり計算づくの行動だったということだ。浮気相手の彼女にも仕掛けをしている。そういう歯車の狂いにまんまと載るように、浮気相手は自分に面談にまで来るという展開になる。そうして最後まで仕留められるというわけだ。要は見たほうが早いが、そういう脚本の見事な作品であって、この逆転劇を楽しめば問題は無い。しかしやはり、僕にはぜんぜんこれはありえない物語のようにも感じたわけだ。このように皆が同意をするという計算が、偶然そうでないところがまずどうしようもないという感じである。ショッキングを狙うためにこうなったのだろうけど、かなりレアな偶然が重なる必要がある。よく出来ているが、結局は良く出来すぎてしまったということなのであろう。
 しかしながら、嫉妬心の厄介さということであれば、確かにそういう側面には、多くの人は悩まされているわけだ。本質的に浮気問題が決定的にこじれるのは、この愛情に絡む嫉妬心だろう。浮気で遊びならそれでいいという割り切りが本当に可能であるなら、いくらどのように人間が絡んだところで、つまるところ何の問題でもない。そういうものが本当に信頼関係であるかのようなお話も過去には散々作られているけれど、本当にそれでいいという納得が出来るほど人間というのは合理的では無さそうだ。だからこそ苦しんで恋愛をしているということでもある。皆が別れてしまって皆ハッピーではなく、結局誰か悪者を探して精神を落ち着けるより無い。結果的に時間が気持ちを癒すのだろうが、傷が深ければその前に致命傷だろう。
 極めて暴力的な作品で、なおかつ女が即物的だと思うのは、そのような僕の受けた印象の所為だろう。いっそのことホラーな殺人事件でも起こった方が、後味はすっきりとさわやかなものになったかもしれない。もっとも嫌な感情が残るための作品なんではあろうけれど…。
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基本がぶれないスリラー・コメディ   バーン・アフター・リーディング

2014-06-03 | 映画

バーン・アフター・リーディング/コーエン兄弟

 なんだか軽く評判の芳しくない感じだったので、特に急いでみることもないと思っていた。映画監督が巨匠化していくと、自分本位の作品を撮ってしまう。そういうことは、実によくあることで、まあ、その類であるかもしれない。そのように勝手に考えて敬遠していたわけである。世の中には観なければならない映画がたくさん埋もれている。いくらコーエン作品といえども、そんなに焦ってみることもあるまい。
 ところがこれがやはり誤算だった。世の中の評判というのは本当に信用ならない。確かに大傑作とは言えないけれど、これって結構面白いじゃないですか! 非常にひねくれているし、不思議なテイストも仕掛けも満載。俳優たちもふざけにふざけている。ジョージ・クルーニーとブラット・ビットの師弟関係(というか義兄弟みたいな)は有名だけれど、彼らかやりたかったこともよく分かる。馬鹿だけれど愛すべき人物を、気取らずに楽しく演じている。二枚目って、案外疲れるのかもしれないですね。
 基本的にはどんどんこじれていくコントである。いろんな人の事情が複雑に絡まって自分らの思っている流れが、意外な方向へ傾いたり、逆に妙に符号したりする。観ている方は客観視しているので、出来事に翻弄される登場人物を俯瞰しながら面白がるわけだ。しかしながら、やはりそこにコーエン兄弟の毒が含まれている。これは普通にスパイスが効いている程度ではない。皆がガクっと来てしまうような、おいおい、それは無いだろう、的なことにもなってしまう。そういう裏切られ方が激しいから、僕のようなファンにはたまらない面白さに感じられるわけであるが、期待が外れてしまった人は、これに乗れなかったということなのだろう。残念で不幸なことであろうけれど、それはまったく仕方のないことなんである。もともとコーエン兄弟映画というのは、結局人を選んで変なテイストが感動的なのだから、それなりに何にも変わらないスリラーをコメディとして展開しているだけの事なのである。メジャーになりすぎるとコケるのは、実に当然の事だから、気にせずに身をゆだねて楽しめばいいだけなのであろう。
 しかしながら、みんないつの間にかそれなりに年をとってしまった。出ているメンツは昔からなじみのある人々が多いのだけど、そうなるとだんだんと普通にそうなる。この映画はそういうところも逆手にとって題材として使っている。この世界で生きていくしたたかささえ感じさせられるわけで、もともと多様な演技力を持っている面々が、どのような使われ方でも活きているという見本でもあるわけだ。常識を破って、殻を破って次のステップを踏む。そういう意味でも、やはり意欲作だということも言えるのではなかろうか。
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日本語だから可笑しかったり良かったり

2014-06-02 | 音楽

 外国人ミュージシャンが日本語の歌詞を歌うというのは昔からある。あるが、成功している例はそんなに多くは無いと思う。日本に来日して人気を博すバンドも多いし、日本人の彼女の出来た人も多いだろうから、これはごく自然なことだし、ファンサービスとして日本語で歌うのはごく自然な行為だとは思う。映画や演劇界なんかでは日本語表現にすると作品の質が落ちる、という偏見を持った人が結構いるが、音楽の世界は柔軟なのだろうとは思う。
 そういう中で普段英語で歌っている人々がいきなり日本語で歌うというのは、かなりドッキリする。有名なのはポリスの「DODODO」だったと思うが、しばらく何が起こったかよくわからなかった。スティングの高い声が日本語になると、本当に奇妙だなと思った。クイーンもそういうのがあったが、これも妙な感じではあった。誰か指摘した人がいるのかどうか、いつの間にかなかったことになったような感じもあったかもしれない。
 ちゃんとヒットして日本語だ、というのもある。ちょっとだけだから日本語の歌というより、アクセントがある、という感じかもしれない。それがスティックスのミスターロボットだったかもしれない。ドモアリガット、ミスターロボット、というのは、外国人の歌というか、まさにコンピュータがうめいているようでもあった。
 同じようにヒットしたものはクインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」があるが、これは「愛の」コリーダと歌っているとはしばらく知らなかった。知ってしまうと妙に恥ずかしい思いがした。
 その後チープトリックなんかも日本語があった。これは結構うまく歌っていて、日本の彼女から訓練受けたんだろうなと思った。
 比較的古いのは、皆恥ずかしいという感じが消えなかったのだが、僕はひとつだけちょっと例外に思ったのは、スコーピオンズの「荒城の月」である。これは高校生くらいのとき、夜にラジオ番組を聴いていたら流れてきた。ライブ演奏で、会場の客とともに情緒的に歌う。とにかく大仰なのだけど、この古臭い山田耕作の曲が、とても斬新な曲であるように思えた。
 これを書こうと思ってネットを見たら、タモリ倶楽部でも紹介されたらしい。その番組でマーティ・フリードマンもこの曲で日本の歌が好きになった旨を告白している。外国人にもこの感覚は伝わったものらしい。
 ちなみにこの番組で取り上げられていたジャイガンターの蕾が一番いいという評価になったようだ。まあ、なるほどね。

Gigantor - Studio 2009 (Music: "Tsubomi" by Kobukuro)


 その後時代は下って今となっては日本語の歌をうまく歌う人々は増えた。アンドリューWKには笑わせられるし、ふざけているが日本人のことを良く知っているものだと感心する。いろんなパンクバンドがリンダリンダをカバーしているし、日本語の歌でもカバーしやすい定番の曲なんてものもあるようである。
 そんな中、なんと言ってもウィーザーのリバース・クオーモさんは日本人の奥さんがいるということで、飛びぬけて日本語の語感がいい。日本語だけのアルバムも、自作の詩で歌ったりしている。もともとウィーザーは好きなんだが、こうなるとまさに好感度が違う。西洋人から認められて喜ぶ日本人には複雑な思いがするのが常だけど、これは本当に気分がいい。
 日本語だから素晴らしいということはぜんぜん違うのだけど、日本語はずっとロックのりの悪い言語だといわれてきたことに、なんとなく引っかかっていたものがあったのかもしれない。まだまだ稀だからこそ感傷的になっているのは分かるけれど、日本語で歌われるからこそ音楽というものがなんとなく普遍的なものであるような感覚を呼び覚まされるというのはあるのではないか。もっとも、やっぱり曲が良くなければ駄目なんではあるけれど…。
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ほんとに他国語をマスターしたいなら、これを読んだほうが確実に早い   7ヵ国語をモノにした人の勉強法

2014-06-01 | 読書

7ヵ国語をモノにした人の勉強法/橋本陽介著(祥伝社新書)

 高校生のときに修学旅行先が中国だった。そこであちらの高校生(相手は中学生だったけど、年齢は同じくらいという説明だったようにも思う)と討論会をやるというイベントがあった。日本側は少数精鋭で、かなり英語の勉強を(というか原稿を準備)した代表が、紙を見ながら言葉をなぞって質問などをした。ところがあちらの生徒さんは、代表はもちろん流暢な英語を扱うばかりでなく、会場のフロアからも活発に手を上げて、すべて英語で質疑をするのだった。通訳の言葉を聞くと、内容もまったく違う。日本からはどんな食べ物が好きですか? とか、日本のどんな歌を知っていますか? などだけど、あちらからは、日本の将来をどうしたい? みたいなこととか、そのときの世界情勢についてなど、多岐にわたったように思う。僕ら日本の高校生は大惨敗の上に、一緒に来ていた英語の先生でさえ、まったく英語で太刀打ちできなかった。もう30年近く前のことだけど、僕はかなりショックを受けた。もともとの学力の差のある人間同士の対決だったとは思うし、いろいろ事情は違うだろう。しかしながらこの歴然としすぎる違いというのはいったい何なのだろう。
 それから時を経ていろいろ知ることも増えたが、日本人が外国語(基本的に英語ということになるが)が出来ないというのは国民的な病気のように考えている人が多いようにも思う。事実でもありそうだが、しかし歴史的には明治の人間が英語が下手だった訳ではなかったようだ。戦前の日本人にも言葉に精通している人間は多い。問題は一般の生徒や学生が皆英語を学ぶようになっている戦後になって、日本人の英語は駄目になっているようでもある。他人の所為にばかりしてもいけないが、日本の英語教育の敗北だろう。
 言葉を使うために勉強するなら、日本の学校で教わる方式でやっても、あまり効果がなさそうなことは、多くの自分自身が証明している。そのことを理解するためにも、この本は読まれるべきかもしれない。結構目からうろこが落ちるだろうし、これがきっかけになって、本当に勉強して他国語をマスターできるかもしれない。ほとんどの人は10年近くくらいは連続して英語を勉強した事実があるだろうけど、できるようになった人はあんまりいないだろう。さらにできるようになった人は、たぶん自分の独学のウェイトが大きい事を告白するだろう。だからこの本に書かれていることの実感のある人は、独学で頑張った人たちだろう。著者は中国語の先生のようだけど、おそらくこの先生の授業なら少しくらいは効果的だろうけど、やはりそれでも日本の教室の授業は否定している可能性がある。そこのところが大変に面白いところなのだが、実際にそのことが理解できた人は、たとえば英語だけの問題でなく、マルチに言葉を覚えることが苦にならなくなるかもしれない。
 言葉は世界とつながる方法だという。確かにその通りなのだが、僕はそこのところが実感としてよく分かっていなかったのだと思う。言葉を使うということは、その世界そのものを理解することと等しい。普段僕らはそれを日本語をもってやっているわけだ。だからそれは、たとえそれが違う言語であっても基本的には同じことのはずだ。日本語を翻訳して置き換えて世界を見ているのでは、それはやはり日本語の世界なのであって、他の言語の世界なのではない。そのことが分かるだけでも、一気に言葉の理解が変わるのではないか。いきなりマルチはどうかとも思うが、そのハードルは確実に下がるに違いない。少なくともこの著者の方法を真似て、言葉が達者になる人は確実に増えるのではなかろうか。
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