カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

それにしても少女は大人だ   サイドカーに犬

2012-06-04 | 映画

サイドカーに犬/根岸吉太郎監督

 普通の感覚だと、母親が出て行ったあとやってくる若い女に愛着がわくことに何らかの疑問がある。さてしかし、そこらあたりは普通に乗り切ることができるので、母親が出ていったことについては、それなりに納得のいくところがあるのかもしれない。お話の上では出ていったことより帰ってきたことで意識したと語っている訳だけれど、そこらあたりの感覚は、何となく引っかかるものがある。
 実を言うと、我が家にもそのようなことがあったような気がするのである。いや、母が出ていくということではなく、弟か妹を妊娠中に、子供の食事を作りに来てくれた女性がいたのだった。それは父のどのような知り合いだったのかは実は良く知らないのだけど、姉は不機嫌になりろくに箸をつけなかったような気がする。僕はというと、普通に喜んで食べたのではなかろうか。何より父の作る料理よりはましである。
 僕はいわゆるお父さんっ子ではあったとは思うのだけど、父の作る料理には辟易していた。確かちゃんぽんを作ってくれた時、上に乗っている野菜を食べても食べても麺が出てこない。しかしその野菜を食べずに麺を引き出すことは禁止されていた。そのうち腹がいっぱいになって、苦しくなっても、残すと怒られるのだった。あれは食事では無く拷問である。
 何を作ってもらったのか、料理については忘れてしまった。今考えると父の通っている飲み屋関係の女だったのだろうとは思う。妙に化粧くさいというのはあったように思うけれど、特に美しいというような感じではなく、子供の目からは普通のおばちゃんという感じなのでは無かったか。そのうち父は火宅の人のような事になって本当に帰ってこなかったから、やはり怪しいというのはそうだったんだろうけど。
 さてしかし、映画では父の愛人らしいヨウコさんとの小旅行というのがひとつの山である。同意ではあるものの、勝手に子供を連れだして、ある意味で男の気を引こうというのは間違いなさそうで、ほとんど誘拐まがいである。そこらあたりは自由な女というか、少し思慮の欠けた若さのある設定ということのようではあるのだが、そこまでして男の愛を勝ち取ろうというのにしても、やはりどこか投げやりで、本気度が良く分からないのだった。最初から一人でいたくないだけのことではあるのだろうけど。
 主人公の少女というは、結局母でもなく姉でもない、同性としての憧れの対象としての、ある意味で自分のなりたい女性像としてヨウコを見ていたようだ。自分に無いものばかりだけど、まったく手の届かない存在でも無い。自分に無いものばかりだから、興味が続くということでもあったのかもしれないが。自分で殻を破ることができないもどかしさを、最初から問題無く飛び越えているように見えるヨウコという存在に励まされるようなところもあるようなのだ。大人になった今でもつまるところそのようにふるまえてはいないのだけれど、いつもあこがれの中にヨウコを忘れることはないようなのだ。
 性格的なもので、なかなか自分の殻を破れないながらも、日常的には、そのような自分を変えるという意思は持ち続けている。おそらく、少しづつであれ、奔放さというものは獲得していくことに成功してはいるのだろう。おそらく今でも自由にふるまっているだろうヨウコの影を追いながらも、自分らしい理想像は獲得し続けているはずなのだ。何気ない話ではあるが、そのことが、何らかの自分の救いでもあるのかもしれない。この映画の妙なさわやかさのようなものは、大人でもなく子供でもない少女性のなせる技のような気がしたのであった。
コメント
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