カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

早く出会えば早く幸福になれる    私の外国語学習法

2012-06-19 | 読書

私の外国語学習法/ロンブ・カトー著(ちくま学芸文庫)

 著者はハンガリー人。しかしハンガリー人だから他の言葉を学ぶのに有利だったのだろうか。彼女は学生時代にドイツ語を勉強していたことはあるが、あまりに向かない事を悟って、進学は理系の学部へ進んだのだという。結局就職先が無くて、仕方なく外国語で生計を立てるという賭けに出ざるを得なくなる。つまりもともとバイリンガルのような環境にいた人でなく、それもそれなりの年齢になって初めて一念発起し、最終的には16ヶ国語をマスターするという人生を歩むことになる。そういう人の話が面白くないはずはなくて、言葉と格闘した逸話が満載の楽しい読み物になっている。厳密に言うと言葉をマスターするための実践的なハウツーものでは無いのだけれど、言葉を学ぶ上で最も大切な熱意と言うものを駆り立てる最上の本ということはできるだろう。もちろん言葉だけでなく、何かをやりたいという若い精神の持ち主には、この本を取ることで、将来の道がさらに広がることだろう。彼女自身90を過ぎても新しい言語に挑戦していたらしいから、そういう精神性の醸成に間違いなく効く本なのは当然だろう。
 正直に告白すると、僕自身はことばの習得には苦い思いの方が多い。それなりに格闘した中国語だって、現在はかなり残念な状況に置かれている。情けないといえばそうなのだが、それがぜんぜん無駄だったのかというと、そうとも言い切れないものがあるのも確かだと断言できる。それは何故かということになるとお話は長くなってしまうが、曲がりなりにも母語(母国語)以外の言葉と格闘したおかげで、間違いなく自分の考え方や生き方に影響が大きかったと思うからだ。日本語を扱う理解においても、ものすごく勉強にもなる。当たり前だが人というのは言葉を使って物事を考える。数学だって考えようによっては言語のようなものだ。そうやって言葉を使って考えるという元になっていることに、その道具を磨くことが役立たない訳が無いのである。ひいては考え方そのものの幅が格段に広がるような気がする。
 残念ながら使わないものはどんどん忘れてはいくものだけれど、時々取り出して多少磨いてみると、あんがいまた輝いてみたりすることがある。そういうものを一度見てしまったものにとって、この輝きの魅力は本当に素晴らしいものなのだ。そういうことを繰り返しながら生きていくことは、困難であるが、やはり楽しいものなのだろう。
 言葉で苦労した人の話で酒を飲むのも本当に楽しい。誰だってカッコよく流暢に話をしてみたいとは思うものではあるだろう。しかしながら当たり前だが、その道は結構険しい。そうして険しいからこそ何度も何度も挫折を味わう。つまりその挫折の道そのもののネタは尽きないのである。考えてみると母語で議論しても相手はなかなか理解しなかったりする。言葉を変えて物事を伝えたり考えたりすることは、そういう物事をさらに難しくして当たり前なのだ。
 しかしながら時には他の言語の表現を聞きながら、母語には無い合理性だとか、美しさに感激することがある。そのような表現ができることが羨ましい。こんなように言うことができれば、自国の付き合いもまた変わるのではないか。そういう思いが分かるというのは、別の言語を知らない土台の人には理解できないことだろう。そういう経験の決定的な機会の差が、言葉とつきあうか付き合わないかで変わってしまう。それは人間に生まれてきた者として、ちょっと損していることになるのではあるまいか。
 まあ、いろいろ考えずとも、ぱらぱらめくって楽しく読んで何の差支えも無いだろう。まずは日本語を楽しむ。その楽しみの理解にもなることだろう。そうしてなんだかやる気になったら、また悩まずチャレンジしてしまえばいいのである。そのような世界が目の前に広がっていることに、あんがい人は無頓着だ。そのような気づきのための最初の段階で、この本に出会える人は幸福であろう。
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