カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

痛烈な正義批判と見てとった   十三人の刺客

2012-06-13 | 映画

十三人の刺客/三池崇史監督

 荒唐無稽な話なので、エンターティメントという枠で楽しむのが正しい映画だとは思うのだが、その背景になっている残酷物語については、それなりに考えさせられる事があるのではなかろうか。憎悪を募らせることによって、最終的にはカタルシスがあるということなのだけど、はたしてこれはまったくのフィクションなのだろうか。いや、全くのフィクションであることには間違いが無いのだけれど、江戸時代の暗黒面というのは、実際にこのような残酷な人間模様がありうるということが考えられた訳で、デフォルメはあるとはいえ、できればこのようなカタルシスを求めていた情念が、この映画の土台となっていることは無いのだろうか。
 武士の生き方の賛美であるような展開も見て取れるのだが、しかし実のところ、このような生き方が本当に美しいものなのだろうか。ほとんどの場合疑いを持たずに命を落とした可能性はあるのだけれど、これだけの殺戮の後に、本当にそのような感慨が残るものだろうか。アクションの派手さに、そしてその時間の長さが話題になったとはいえ、やはりそれなりに腹いっぱいになって、そして妙なむなしさが残ることも確かである。面白い映画であると同時に、これだけやり過ぎるだけやり過ぎてみると、稲垣演じる殿様の方が、この時代にむしろあっているようにさえ感じられる。奇しくも彼の欲望を満たす行為であった可能性もあり、いったい何のための復讐であったのか。復讐を遂げてなお悪の権化からお礼を言われるような事をしたに過ぎなかったのではあるまいか。それではこのおびただしい死体は何も浮かばれないのだけれど、実はそのようなむなしさこそが、痛快さの裏にあるということではないのか。大きな悪を討つという大義のために己の尊い命をなげうつほどの価値を見出しながら、実はすべて討ち死にであることに変わりはない。これほどの皮肉と悲劇があるものだろうか。
 確かにやることは下品だし、描写においてもやり過ぎるだけやりたい放題である。しかしながら時折命を掛けるやり取りに、妙な現実的なリアルな残酷さが見てとれる。悪は確かに先天的にものすごい悪だけれど、それをとがめる正義の精神にも、勝つための非常なまでの冷酷さがある。最終的な戦いにおいても、当然勝つべき正義の方が、戦い方においては汚い手を使わざるを得ないのである。勝つために仕方のないという大義で曇ってしまっているが、同じ穴のむじなに過ぎない。結局武士では無い野生児だけが、偉そうな武士に最後まで疑問を持ちながら飄々と生きのびて、去っていく。これだけのことが起こりながら、人間というものが作り上げた理想のようなものが、いかに陳腐なものであるかのような印象も受けるのである。
 娯楽作として感情が揺さぶられながら痛快さを楽しむという見方は否定しない。もちろんその王道として楽しんでみてもらった方がいい映画ではあるのだろう。しかしながら実はそのような皮肉のこもった人間否定のドラマとしても、実はそれなりに価値の見出せる作品なのではないだろうか。
コメント
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