録画していたタイムスクープハンターの「鉄火つかみ裁判」というものを見た。
ちなみに、最初は子供が喜んで見るかもしれないと思って録画しているうちに、僕のほうが一人で見るようになってしまった番組である。疑似ドキュメンタリーのために形式はわざとらしいのだけれど、これが毎回妙に面白い。過去の事実をなかなか予測できない展開で脚本を練ってあるところが偉いと思う。すでにシーズン4がもうすぐ終わるのだそうだ。
さて、この鉄火裁判は江戸時代の初め、集落などの争いごとの正否を決めるのに、法ではなくて裁きを天に仰ぐという考えのもと、熱した鉄の棒を持って神棚に納めるということをさせて、それができるかできないかということと、出来たとしたらどの程度やけどするのかということで、神の裁きを仰ぐというものだった。現代人の目から見たらとてもじゃないけどむちゃくちゃだけれど、その当時の人にとっても恐怖の裁き(儀式)ということなのであろう。
お話はその展開にさまざまなドラマをからませてあり、なかなかの名采配の光る展開であったけれど、実際上このような祭礼で大怪我をしたり、亡くなったりしたものも歴史の上では居たことだろう。時代とはいえ不幸なことであったと想像される。
しかし、この疑似ドキュメンタリーを見て思い出したのだが、まだまだ神々の居た神話において人の裁きを行っていた時代にも、実は人間的な裁量が生かされていたという話は、学問の上ではたくさんの資料が残されているということなのである。
今ではナンセンスだからまともに考えようとはしないし、実行が不可能なのだけれど、例えば同じように、殺人などの罪においても、鉄火をつかんで火傷をしなければ無罪、火傷をすると火炙りに処せられる、というような裁きが行われる場合があるとしよう。繰り返すが、現代人の目から見ると、そういうことはあり得ないことなので、実行されること自体が死罪と同じであるように感じられるのだが、実際の裁きは微妙に違ったのではないかということなのである。
当時の人々には、神々が裁きを行うことにはそれなりの合理性が感じられるからこそ、ある程度納得の上そのような取り決めが行われていた可能性のほうが高いらしい。それは単に現代のような法体系でなく原始的だからという理由ではない。実際の神がそのような取り決めをする以上、本当に身に覚えのない潔白の人物ならば、たとえ真っ赤に焼けた鉄火を握ったとしても、火傷をしないという前提があるのである。神を信じ、身の潔白を自ら知っているものなら、(熱い鉄火に対して、迷いや恐怖があろうとも)堂々とその鉄火を手にするという行動をとるのではないか。また本当に罪人なら、手を焼かれる恐怖に耐えられず、手を差し出すことすらできないのではないか。実際にそのような行動において、犯罪を犯したか犯さなかったか判断の材料にしていたとしたらどうだろう。現在のような科学的捜査は事実を推察する材料にはなろうとも、嘘の証言自体を翻意させることは大変に難しい。しかし神の信じられている時代においては、神の前で嘘を通すことは不可能なのである。実際にはそのような合理的な道筋において、結果的に無謀に見える儀式を執り行っていたということらしいのである。
もちろんそうであっても無実の罪に死んだ者もいたことだろう。しかし本当に正直なものは、その裁きにおいて無罪を勝ち取り、放免されたということもあったはずなのである。この合理的な考えのほうが、今より冤罪が少なかったのかどうかは比較しようがないだけのことで、ひょっとするとそれなりの成果を出しえたのではないかという話も聞いたことがある。無茶なように見えるのは現代人の無知にすぎなくて、当時においては、やはりかなり合理的に考え抜かれた裁判法なのかもしれない。
もちろん、現代のヒューマニズムの観点から人の身分のあった時代の考察は大変に難しい。その上想像すらつかないことが多すぎる。限られた残された資料において、どこまで実情を理解できるのかは分からない。しかし、人間の叡智というのは、古代だから劣っていたと短絡に考えるのは、かなり無謀な偏見かもしれないのだ。
もっともだから当時の世界に住みたいとも思わないわけで、現代に生まれたしあわせを楽しんで生きていこうとは思うわけだが…。
ちなみに、最初は子供が喜んで見るかもしれないと思って録画しているうちに、僕のほうが一人で見るようになってしまった番組である。疑似ドキュメンタリーのために形式はわざとらしいのだけれど、これが毎回妙に面白い。過去の事実をなかなか予測できない展開で脚本を練ってあるところが偉いと思う。すでにシーズン4がもうすぐ終わるのだそうだ。
さて、この鉄火裁判は江戸時代の初め、集落などの争いごとの正否を決めるのに、法ではなくて裁きを天に仰ぐという考えのもと、熱した鉄の棒を持って神棚に納めるということをさせて、それができるかできないかということと、出来たとしたらどの程度やけどするのかということで、神の裁きを仰ぐというものだった。現代人の目から見たらとてもじゃないけどむちゃくちゃだけれど、その当時の人にとっても恐怖の裁き(儀式)ということなのであろう。
お話はその展開にさまざまなドラマをからませてあり、なかなかの名采配の光る展開であったけれど、実際上このような祭礼で大怪我をしたり、亡くなったりしたものも歴史の上では居たことだろう。時代とはいえ不幸なことであったと想像される。
しかし、この疑似ドキュメンタリーを見て思い出したのだが、まだまだ神々の居た神話において人の裁きを行っていた時代にも、実は人間的な裁量が生かされていたという話は、学問の上ではたくさんの資料が残されているということなのである。
今ではナンセンスだからまともに考えようとはしないし、実行が不可能なのだけれど、例えば同じように、殺人などの罪においても、鉄火をつかんで火傷をしなければ無罪、火傷をすると火炙りに処せられる、というような裁きが行われる場合があるとしよう。繰り返すが、現代人の目から見ると、そういうことはあり得ないことなので、実行されること自体が死罪と同じであるように感じられるのだが、実際の裁きは微妙に違ったのではないかということなのである。
当時の人々には、神々が裁きを行うことにはそれなりの合理性が感じられるからこそ、ある程度納得の上そのような取り決めが行われていた可能性のほうが高いらしい。それは単に現代のような法体系でなく原始的だからという理由ではない。実際の神がそのような取り決めをする以上、本当に身に覚えのない潔白の人物ならば、たとえ真っ赤に焼けた鉄火を握ったとしても、火傷をしないという前提があるのである。神を信じ、身の潔白を自ら知っているものなら、(熱い鉄火に対して、迷いや恐怖があろうとも)堂々とその鉄火を手にするという行動をとるのではないか。また本当に罪人なら、手を焼かれる恐怖に耐えられず、手を差し出すことすらできないのではないか。実際にそのような行動において、犯罪を犯したか犯さなかったか判断の材料にしていたとしたらどうだろう。現在のような科学的捜査は事実を推察する材料にはなろうとも、嘘の証言自体を翻意させることは大変に難しい。しかし神の信じられている時代においては、神の前で嘘を通すことは不可能なのである。実際にはそのような合理的な道筋において、結果的に無謀に見える儀式を執り行っていたということらしいのである。
もちろんそうであっても無実の罪に死んだ者もいたことだろう。しかし本当に正直なものは、その裁きにおいて無罪を勝ち取り、放免されたということもあったはずなのである。この合理的な考えのほうが、今より冤罪が少なかったのかどうかは比較しようがないだけのことで、ひょっとするとそれなりの成果を出しえたのではないかという話も聞いたことがある。無茶なように見えるのは現代人の無知にすぎなくて、当時においては、やはりかなり合理的に考え抜かれた裁判法なのかもしれない。
もちろん、現代のヒューマニズムの観点から人の身分のあった時代の考察は大変に難しい。その上想像すらつかないことが多すぎる。限られた残された資料において、どこまで実情を理解できるのかは分からない。しかし、人間の叡智というのは、古代だから劣っていたと短絡に考えるのは、かなり無謀な偏見かもしれないのだ。
もっともだから当時の世界に住みたいとも思わないわけで、現代に生まれたしあわせを楽しんで生きていこうとは思うわけだが…。