カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

システムが変わると日本人気質も変化するのだろうか   安心社会から信頼社会へ

2012-06-16 | 読書

安心社会から信頼社会へ/山岸俊男著(中公新書)

 一般的な認識からは承認しにくい事実に、西洋人と比べると日本人は個人主義的なわがままな傾向があるということはよく知られていることである。もともとそういう気質なのかどうかは分からないが、他人のことより自分のことを大切にする利己的な精神の持ち主が多いらしい。そうではあるのだけれど、社会のシステムにおいて、そのような傾向はどこか打ち消されているように見えるというか、実際の当事者たちはまったく逆の認識を持っているということが知られている。最初にそのことを聞かされた時は、僕もそれなりに驚いて信じ難く感じたものだけれど、少ない諸外国の人間とつきあってみると、実際にそのことを体感することは多々あることだ。もちろんその逆もあるのだけれど、多くの場合、それは日本社会の中での事に過ぎなくて、個人個人の感覚としては、彼等は仲間を大切にするし、他人の事を慮る精神に高い価値を見出している事が分かる。日本人一人一人は、他人がするからそのようにふるまっているに過ぎなくて、実際には他人の事なんてどうでもいいと考えている人の方が多いようなのだ。仕方なくそのようにふるまうような態度を作っているだけのことで、本心はあんがいクールに人付き合いをしているのかもしれない。
 そのような日本人の振る舞いは、どのようにしたら明らかにされていくのだろうか。アンケートや実験を行ってどこまでその謎を解き明かすことができるのだろうか。確かに多くの実験を通して、驚きの姿が開示されていく訳だが、つまるところそれは、日本人の気質そのものというよりも、社会の成り立ちの中で、どのような人間であってもそのようにふるまうという人間本来の性質のようなものがあるということが明らかにされていく。アメリカ人はアメリカ人のように、ドイツ人はドイツ人のようにふるまっているのではない。単なる社会的な風習であるとかシステムであるとかで、人はそのようなふるまいをしているだけのことなのではあるまいか。
 何となくぴんとこない人の方が多いことは当然だろうと思う。それは実際には偏見ではあるのだけれど、偏見を持つような社会の中だから、ある程度は仕方のないことなのだ。そのようにして間違った考えを持つというのも、ある意味で人間性の表れとも言えるだろう。そうしてそのような偏見を持つことで、実際にそのような偏見を証明するような出来事が積み上がって行くものなのである。差別をされる側の人間というのは、差別を受ける理由となっている、偏見を受ける理由となっている行動を取らざるを得なくなっているとしたらどうだろうか。例えば日本においての就職においての女性差別は、社会の中に内在している事実である。しかしながら女性は差別を受けるだけの理由に添って行動をせざるを得ない状況にあるから、さらに差別的なふるまいを受けざるを得ない理由通りの行動を実際にしてしまうのだ。それは社会のシステムがそのようにふるまわざるを得ないものであるとしたらどうだろう。実は日本の終身雇用のシステムが、その元凶である可能性が高いのである。
 多くの人には受け入れ難い、不都合な真実の詰まっている話が多いのかもしれない。しかしながら、好むと好まざるにかかわらず、日本の社会システムは大きな変換期を迎えていることは確かそうである。そのことで、いわゆる日本的な美徳というものも同時に失われていくのだろうか。もしかしたらそうかもしれないし、そうでないかもしれない。しかしながら日本の社会が自然に培ってきた、安心社会というものが、実際に成り立たない状態に既になってしまっているようにも感じられることである。日本人は著者が提示しているような信頼社会へ向けて、社会を構築することができるのだろうか。問題は、そのような変化への対応力の無さのような気がしないでは無いことだ。実を言うとこの本を読んでその通りと思うのもの、ますます日本人の行方が絶望的に思えることだ。僕の思い違いであって欲しいと本当に願っているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする