カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

宇宙飛行士と癌の告知

2012-06-11 | 境界線

 宇宙飛行士のドキュメンタリーを見ていたら考えさせられるエピソードがあった。宇宙船にアクシデントがあった時、地球の管制から指示が出されるのだが、非常にまずい状況(宇宙飛行士にとって生死にかかわるような)アクシデントの場合、かえって真実を伝えることにためらいが生じてしまう。結果的に次善の策を講じるために対策の手順のみを伝えることになるのだが、パイロットの方も当然何故か問うことになる。しかしその核心には答えないで、そのようにしてくれと管制官は繰り返すのみだ。人間の心情としては、そのような状況に置かれているパイロットを慮って、かえってパニックを防ぐなどの考慮があるということなのだろう。
 しかしながらそのやり取りを管制にいる別の宇宙飛行士が割り込んで、どのようなトラブルが生じているか真実を伝えるという行動に出ていた。自分が操縦しているかもしれない仲間としては、真実を知りたいということの方が重要だと考えたからだ。技術者には分からない当事者の感覚がそうであるはずだ、ということらしい。
 お互いに相手を思いやることで生じた違いではあるが、結果的にパイロットはその言葉に納得がいった様子だった。思うに不安を抱える度合いにおいて、真実を知るか知らないかといのは、信頼と関係があるのではなかろうか。分からない状況では余分に不安や不信が生まれてしまう。たとえ自分の命が危ないというようなことであっても、できる限りのことをして、地上からも最大限のサポートをしていることには変わりは無い。そのような時には、本当のことを伝えあって状況を共有した方が、かえってお互いの信頼を確かめ合うことになるのではなかろうか。不安というものの性質が、信頼し合うことによって変わるのではあるまいか。
 近年では、癌の告知については、患者本人に伝えるというのが主流化している。一昔前では告知しないというのが一般的で、医者と家族が協力して、いわば嘘を通していた。もちろん以前は癌の告知は死の宣告に等しく、そのようなことは残酷なこととして忌避されていたという背景があったのだろう。近年の生存率の高まりとともに、インフォームド・コンセントという説明と同意という考え方や、患者の自己判断の権利への関心が高まったという時代背景もある。それでも告知派の医師の、自分が癌におかされた事を知ったショックの大きさに、告知を疑問視するという手記なども発表されるなど、いまだに考え方には賛否のある問題でもあるとは思われる。
 僕なども大変に臆病だから、実際に自分がそのような状態に立たされることを思うと、知りたいのか知りたくないのかよく分からなくなる。突然死するような方が、死ぬにはかえっていいのかもしれないと思うこともあるくらいだ。しかしながら宇宙飛行士のやり取りを見ていると、自分が癌になったとしたら、やはり告知してもらった方が良いのかもしれないと思った訳だ。闘病を行うということを考えると、知らないまま処置をされるよりも、お互いに信頼し合いながら任せることの方が、やはり自然ということも言えるのではないか。末期の場合ならば、いまだに死の宣告と変わりはないのかもしれないが、そうであっても、それからどのようなことをやるべきなのか、考え方を決めることもできる。そういうことを考える以前に、物事を正確に伝えられるのかどうかというのは、想像以上に大切なことなのではないか。
 もちろん危険な任務であるという前提を理解している宇宙飛行士と、予期や準備の無い癌の患者は厳密には違う立場である。どちらが正しいという問題では無いのだが、僕はこのことで告知への理解が高まった気がした。本当の事を伝えるリスクを取る態度に、信頼を勝ち取る側面を見たからだ。これは情報開示というような問題とも共通のものがあるのではないか。閉鎖的なことの可能な事だからこそ、開示して行動を行う。そこにもやもやしたものを排除するシステムが醸成される。
 そもそも日本の社会は、そのようなよく分からないながら信頼できていたという時代が長かっただけなのかもしれない。それでも何とかなっていたという幸福な時代は既に過ぎ去ってしまったのではなかろうか。そういう漠然とした不安の中あるよりも、積極的に信頼を得るような考え方が生まれてきたのだとも考えられる。そのような信頼関係をどのようにとらえるのかということが、他の社会全体としても大切なこととして認識されるようになったからこそ、今のような告知への流れに自然に変化したと考えることもできそうである。まだまだというところに、社会問題化したものが潜んでいるという感じもある。本当のことというのは、生では重たいというのはあるのだが、やはり向き合わないことにはどうにもならないということの方が、大きくなっているのであろう。
コメント
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