カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

今と未来が大切だから(選挙に行こうよ)

2019-03-29 | 時事

 以前は選挙に行かないと公言する大人が結構いた。僕よりちょっと上の世代の人はノンポリの人がそれなりにいて(どの世代にもいるのは当たり前だけど)、選挙に行かないボク、というのを気取っているところがあった。暑苦しくない人格がクールとでもいうように。その代表格が村上春樹で、公然と僕一人が選挙に行かなくても世の中は変わらない、と言っていた(書いていた)。当時そんな言葉はなかったが、いわゆる炎上狙いで、自分より上の世代を精神的に攻撃していっているものと思う。または学生紛争なんかの時代を揶揄しているのかもしれない。僕は村上ファンだが、このような幼稚な精神性には、なんとなくついていけなかった。でもまあ、そういう精神性が、彼の文学の魅力になっていることも確かだと思うけれど。要するに、大衆的な一面を代表しているわけだ。
 時代が下って現代になると、選挙に行かないと公言するのは、逆にカッコ悪いと素直に伝わるような気がする。例えば男であれば、少なくとも女にもてないような雰囲気というか。責任の放棄であるばかりか、自分本位すぎる気分が表に出るからかもしれない。しかしながら、やっぱり興味のない人は一定以上いるはずで、彼らはひっそりと否定する気持ちを持ちながら、静かに選挙を無視する生活を送っているのではないか。
 確かに紙切れに人の名前などを書いてジュラルミンのボックスに投じることで世の中が変わるというのは、なんとなく神社で賽銭を投げるがごとく、儀式としては頼りない。いや、行為自体は同じではないが、そのような気分は無いではない。ましてや、その名前の人と何のかかわりも持たない人が、そのような行為に及んだ場合、むなしさを覚えるものかもしれない。
 選挙というのはそういうことで、最終的な行動そのものを切り取ると、確かに少し滑稽な面はあるのかもしれない。民主的な手続きとしては、だから実際には別のやり方を模索する必要もあるかもしれない。ただし、現状としては、その具体的な改変策は支持を得るほどには持ち上がっていない(ネット選挙など)ので、変えようがない。いっそのこと選挙に行かない人は、選挙権を無くすとか、課税するとか、刑務所に入れるとかいうことになれば変わるだろうが、そこまでしなくても、という意見のほうが多勢であろう。
 では本当に選挙に個人が行かないこと、もしくは今の選挙のやり方には、意味がない面があるのだろうか。
 実は、選挙の結果は、私たちの暮らしに大変な影響のある事である。政治というのは、今の生活の背景のほとんどすべてを含んでいる。今の世の中というのは、選挙の結果を通じて成立したものである可能性が非常に高いのである。ただし、もちろん選挙に行かなかった人の影響も含めてなのだが(投票しない人の影響があって当選した人もいるから)。
 今回の統一地方選挙では、無投票の公算のあるところが少なからずある。それでも政治家は生まれるということであれば、事実上選挙にはそんなに意味はなさそうに思われる。事前に調整してそうなったのであれば、それはすでに政治的な配慮であるから、そのこと自体は政治そのものであるが、結果的に偶然そうなったのであれば、それはすでに民主主義ではない。
 何を言いたいのかというと、選挙というのは投票の結果があって具体性があるように見えるが、実際のところは、投票前の選挙戦に大きな意味がありそうだということだ。選挙があることで、有権者も政治家も、政治のことを真面目に考えるからである。人々のどういう世の中にしたいという思いが、投票前に飛び交うことになり、その具体性や可能性が、託されていくのである。現在の僕らの行動は、すなわち未来の世の中を預言するものである。そうしてそれなしに、次の世界は成立しない。
 大げさに言うと、人として生きているかどうか。好むと好まざるにかかわらず(僕にも政治には大いに不満があるが)、そういうものとかかわることが、現在の自分を決めていることなのであろう。
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