カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

受難の日々を忘れない   チョコレートドーナツ

2018-01-26 | 映画

チョコレートドーナツ/トラヴィス・ファイン監督

 題名から類推してスイーツな話だと思うと裏切られる。この映画に出てくるダウン症の子供が好きな食べ物がそれである。そして映画の内容は、同性愛のカップルの生き方という事になろうか。
 ショーダンサーと弁護士のゲイカップルが、アパートの隣に住むジャンキーの育児放棄の子供を預かり一年間だけ育てていたが、ゲイであるという事で取り上げられてしまい、子供を取り返すために裁判を起こす。その裁判でゲイであることを散々非難されながらも闘いぬこうとするのだったが…。
 育児放棄の子供に知的障害があり、本人が自分のことを第三者に上手く伝えることが出来ない。母親との親子の関係もあるが、一次育てられたゲイの二人との相性が悪い訳では無い。映画では、できれば一緒に住み続けたいという気持ちはあったようにも演出されている。しかしながら、そのことを上手く表現する術もないし、確認するのが困難であるという設定なのだと思う。だからゲイの二人は、その偏見を跳ね返す為に、本人の援護が無いまま戦わなくてはならないのである。これは誰が考えても苦しい状況だ。客観的に育児能力がある証明と、あえて障害児を引き取る(専門施設に保護されているようだし)という事を、裁判所がどうやって認めるのかということも、当時は極めて難しいのであろう。
 今の時代の目線からいうと、とても考えられないくらいの偏見に晒され、ひどく傷つけられるだけの二人の姿が延々と続く。まるで宗教の受難のようだ。そういう社会で邪教の人がどのような立場になるか。精神的な拷問が、これでもかというような感じで続いていく。ゲイのカップルといっても今の目線からいうと非常に分かりやすく、片方は女性である。元男であるというのは分かるように表現されていたが、女性と男性のカップルと何の違いも無いのだから、一体何の問題があるのかさえ僕にはよく分からない気もした。今の時代はその境目すら第三者にはよく分からない方が普通になっているようなので、とても古い時代の映画のようにも感じられる。偏見と暴力の表現もあからさまで、こんな状況で生きて行くのはとても不自由である。そこは米国的な強さがあってこそ、というような感じもあって、強くなければ生きられないという気分にもなった。もっと弱くても、小さく頑張っても良いという話では無いのだろうけれど、攻撃には攻撃で対抗するしかないような、そういう印象も受けた。結果的にこのような結末にならなければ、彼らはどうなってしまったのだろうか。悲劇であるが、それでなければ映画にはならなかったのではなかろうか。
 もちろん啓蒙映画としては、現代的に優れている。今も苦しんでいる人の多いだろう国の人々には、観てもらわなければならない作品かもしれない。
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