カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

猫を償うに猫をもってせよ

2012-03-24 | 読書
猫を償うに猫をもってせよ/小谷野敦著

 正直に生きるというのはあんがいつらいことではないかと思う。正直に生きていきたいという欲求は美しいことのように思われるだろうが、実際に正直に生きていくは大変なのである。
 著者の文章や行いは、多少のユーモアもあるのは分かるが、時々なんだか少しつらそうな気がしないではない。歯に衣着せぬ物言い、という言葉があるが、まさにそういうことを素直に表していて、痛快さもあることながら、しかし敵も作ってしまう。結果的になんだか意固地になってしまうようで、痛いというか、つらくなる。読んでいる分にはそういうことも含めて面白い訳だが、ご本人は楽しいばかりでは無かろうと、何となく同情してしまうのかもしれない。
 実を言うと僕自身もつまらないことに拘泥して意見を言ってしまう性質で、たまに衝突を起こしてしまう方である。飲みに行く前には、つれあいからくれぐれも喧嘩をしないようにたしなめられる。僕が時々人の意見をまったく聞かないのは、実はその場の平和のためなのである。遮断しなきゃやってられないこともあるのだ。
 ある意味でそれは僕が嘘つきだということでもあると思う。僕は自分に嘘がつける程度には大人になっている。そういう部分は大変に汚いものだと正直に思うが、平和の手段のために人間は汚さに染まらなければならないこともあるということだ。そういう使い分けが社会生活ということもできるのではなかろうか。
 最後の方のエッセイで、著者の母親のことが書かれてあった。著者の性格に母親の考えが影響しない訳が無い。まさに彼の正義感というか潔白さというのは、母親譲りの合理的な公平感からきているのかもしれない。世の中の偽善に対して、たとえ生きるのがつらくなろうとも、我慢がならないこともあるということだろう。
 それにしても、返信はがきの「行」を消して「様」と書く慣行を、偽善的だと思う感覚には思わず笑ってしまったが…。まあ時々「行」のままかえってくる葉書を発見すると、僕などは本人に連絡すべきが考えてしまう方だが、偽善に染まってしまうと疑問にさえ思わない社会慣行に染まってしまうということかもしれない。
 正直者は何となく滑稽だけれど、笑われるほどに真剣になれるというのは尊いことだとも、同時に思うのであった。
コメント
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