カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

自由を妨げるものとは

2012-03-08 | culture
 当たり前の話だが、フランスには餡パンは無い。しかしながら日本では比較的ポピュラーなパンの種類と言えるだろう。パンはもともとどういうものかということに興味は無いが、フランスではいまだに優れたフランスパンを焼くということについては、伝統的かつ基本に忠実で美しいことを重視しているということだった。まっとうなパンの原型があって、それを追い求めるという感じかもしれない。
 フランス人に限らずだが、西欧の人たちが日本のパンを見ただけで奇怪に感じるらしいのは、パンのあり方そのものを覆すような多様性にあるらしい。日本のパン(のほとんど)は、パンでは無くてお菓子というか、まるで別のものだ、という。まあ、そういう観点からパンを見ると、そういうことになるのだろう。
 よその国から入ってきて、多様化する食べ物はたくさんある。その代表的なものはおそらくラーメンだろう。中国人が日本のラーメンを見て、自分の国の発祥の食べ物とは気づかない可能性すらある。確かに既に別物文化と言っていいとも思うが。
 問題はその食べ方で、ラーメンは音を立ててすすって食べたほうが、当たり前だが風味も増して、味も格段によくなる。これは日本の蕎麦文化とも通じる常識的な食べ方だが、食事の時に食べる音を立てるのが失礼だとする文化圏の人々には、なかなかこれが理解できないという。理解できた時の感動も大きいらしいが、そういうリベラルな考えに到達するハードルは高いらしい。小さいころから厳しく躾けられた食習慣だから、食べ物をすすって食べるということ自体が能力的に退化した人もいると聞く。保守的な考えといのは、このように根深いものがあるようだ。
 日本人というのは、能力的に創意工夫をする民族なのだ、という話もよく聞くところなのだけど、本当にそうなのだろうか。
 例えばこれが寿司なんかだと、海外に普及している寿司文化を見て眉をひそめる日本人は多いように思える。カルフォルニア・ロール程度なら面白がって逆輸入も出来たかもしれないが、よその国で日本人以外の作った寿司を食べて、おいしいと感じる人は少数だろう。
 日本の伝統とは別の文化にふれた時、そういう伝統的な背景を理解できず知らなかったからこそ、発想を自由にすることが出来たとは考えられないだろうか。島国だったからとか、いろいろと原因はあると思うが、日本の独自性は、逆に考えると他の文化に対する無知による自由さなのではあるまいか。最初から解放されているから、自由な発想で物事を考える自由さを手にできたのではないか。
 伝統的文化にとらわれない自由な個人の発想とは、もともと大変に難しいことのように思える。日本人が自由でいられるのは、他の文化に接して取り入れるという行為を実行する、というポイントがあるように思えて仕方がないのである。もちろん価値観としてそのことがいいことかどうかは、また別の議論である。
コメント
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