最近なんだか嫌だったのは、堰を切ったように瓦礫受け入れ決議をする自治体のニュースだった。
もちろん瓦礫受け入れは賛成だし、ある意味で当然すぎる判断だと思う。受け入れない状態が続いたことで、被災地は本当に苦しんでいることだろう。一日も早い復興を願う連帯感なんて、結局偽善に過ぎなかったという日本国民の情けなさもあって、悲しさを通り越して呆れてしまっていた。
今更という気持ちもあるが、しかし、今の受け入れ連帯感は、単に今までの恥に対する隠れ蓑のようなものだろう。偽善的にやっているだけのことで、相手のことなど微塵も慮ってなどいない。地元住民の良心に対して説明がつかなくなり、自分らの保身のためだけに決議を急いでいるだけのことだ。しかし臆病なチキン・ハートだけは動いており、独自の安全基準などと嘯いている。リスクがあるから英断なのであって、むしろそのような考え方が被災地をさらに苦しめているだけのことだ。
日本はどうしてここまで落ちぶれてしまったんだろう。今となってはそういうことを検証すべきところに来ていると思う。日本に限らずそういうものだという議論もあると思うが、早い段階で英断を下そうとしていたところだってかなりあったはずなのだ。そうしたものをあくまで空気で弾圧してしまう民族性は、先の大戦の頃と何ら変わっていないという証左でもあろう。日本がまた暴走して戦争など起こさないものだとばかり思っていたけれど、その可能性は極めて低いというべきなのかもしれない。
こんな国に生まれてしまった醜さに、いたたまれなくなるような醜態をさらす自治体の多さに、暗澹たる気分にさせられたのであった。子供たちには早い段階でこの国に見切りをつけるよう、忠告すべきなのだろう。それがせめてもの良心というべきかもしれない。
とまあ、以前怒りにまかせて書いて、文章をあげることはしなかった。基本的に怒りの気持ちは変わらないが、それでもやはり、少しは前進だということも、感じられはすることだ。そういう可能性には期待したいし、自らもそういう気持ちをもつことは大切だと改めて感じる。今自分自身に出来ることは少ないが、あきらめちゃいかんなと思っているところです。怒りの記録は残しておくが、失望から諦めの気持は変えていこうと思う。何故なら僕自身もここに生きている当事者だということだ。他人のせいにばかりしていては、やはり卑怯なんだろう。冷静に気持ちを改めたいと思います。すんません。やれることを少しずつでも実行していく。本当に今からも、それしかないのだから。