カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ラーメンと愛国

2012-03-21 | 読書
ラーメンと愛国/速水健朗著(講談社現代新書)

 タイトルは何となく変な印象を受けるかもしれないが、結論から言うと、確かにラーメンでこの国の愛国を語ることに成功している。日本に根付いたラーメン文化というものの歴史的考察と必然性からひも解いて、最終的には現代日本人論にまで展開していく。強引なこじつけや無理な結びつけをすること無く、ラーメンと愛国心が見事に絡んでいく展開に、十分納得したうえで目から鱗も落ちることだろう。
 ご多分にもれず僕もそれなりにラーメンを食べてきたということもあるけれど、ある時期から何となくつきあえなくなってしまったような個人的な歴史がある。ラーメンの味がどうだというよりも、ラーメンにまつわる環境が変わっていくのに疲れてしまったということなのかもしれない。単にダイエットのことだったり、自分自身ラーメンを食べた後に胃があれるという体質のこともあるのかもしれない。何となく自分で整理できずにもやもやしたものがあったのだが、そのような気持ちもこの本を読んで見事氷解できたようだ。
 そういう意味では普通にラーメン好きだし、ラーメンに何の恨みも無いのだが、ラーメンによる自国文化論については、少々鼻につくというか、何となく嫌な感じがしないではなかった。されどラーメンというのは分かるが、やはり、たかがラーメンの方が根本的なラーメンの姿としてふさわしく思えるのだろう。
 また、時々繰り返して言ってきたことではあるが、出張や旅行などで現地の人(特に若者)に地元の特産やお勧め料理屋店などを尋ねると、近年はかなり高い頻度でラーメン屋を紹介されることが多くなった。それは確かに純粋なご当地自慢であるのは分かるのだが、少なくとも僕らより上の世代においては、何となく寂しいというか、貧しいお国自慢の響きを受け止めざるを得ないのであった。この感覚は純粋に紹介してくださる方には悟られてはならないもので、誠にめんどくさいのである。ラーメンを自慢しなくてはならない程度に、画一的な近代化、若しくはもともと何にも無いところでは無いはずなので、ラーメン文化が確実に、ある種のご当地の魅力を変化させてしまっているのだろう。そこのあたりの事情も詳しく書いてあるので、仕方のないことながら納得するより無いのだろう。
 ラーメンに対する作り手の情熱のようなものは、日本的な文化と本当に関係があるのだろうか。実際は貧しい日本だったからこそラーメンという食べ物が普及したのだが、ラーメンの持つ日本的なものが、広く世界中に広がりを見せるということから、偉大な食べ物へ変貌してしまった。将来的には結局は日本のものという側面は薄まって、細分化されていくものとは考えられるものの、最終的には発祥の国として、顕彰されることもありそうな気がしないではない。それを単純に日本の誇りと思うのか、悲しい現実と思うのか、少なくともそのような複雑な思いを理解するというのが、まともな国際理解なのではないだろうか。そういう意味での日本の先進性は、恐らく他国の将来を占うことにもなるのかもしれない。
 経済的には先進国の日本化が(衰退の象徴として)語られることの多くなった昨今、ラーメン文化のようなものも、他国においても日本と同じようなことが起こりうるような気が少しだけする。もともと日本独自であったというより、日本が先に体験してしまった歴史ということなのではあるまいか。もちろん僕は預言者じゃないので、外れた方が平和だという気もしないではないが…。愛国心に満ちた国なんて、やはりどこか衰退したノスタルジーのようなもののような気がするのである。
コメント
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