カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

雑誌の楽しみ

2007-02-13 | 雑記

 連休の朝を楽しむ。こういう時間が永遠に続いてほしいと思う。散歩もできて気分がいい。あんまりいい気分なので、悪いことが起こるのではないかと逆に不安になるぐらいである。もちろん、そんなことは望んでいるわけではない。考えなければいいのに、しあわせは不幸を欲するのだろうか。

 本を読んだり雑誌をパラパラ。雑誌だけでもこの二日で7、8誌は目を通している。付録なんかもあって楽しい。CDや、別冊なんかがついてくる。子供雑誌に限らず、付録は雑誌の大きな魅力である。もちろんなくてもいいのだが、やはりお得感がある。雑誌によっては、付録の有無で値段が違う場合(当然であろうが)もあるが、定価が変わらず付録がついたりつかなかったりする雑誌もあるようだ。年間を通して還元するという考え方だろうか。
 定期購読している雑誌も多いのだが、だいたいは送料がかからない上に、割り引いてある場合が多い。時々付録やプレゼントがつく場合もある。雑誌の利幅というのはどれくらいのものなのだろう。定価が100円程度の雑誌でも、定期購読すれば送料はタダになる。じゃあいったい原価はいくらなのだとこちらは悩んでしまう。返本などのことを考えると、確実に売れるほうが利益になるということなのだろうか。
 雑誌の中には後半がほとんど広告というようなものがある。あれはもちろん定価と関係があるはずである。出版社は両方(購買者と広告主)から収入を得ているわけで、本を出すより雑誌のほうが有利であるようにも思える。定価の差は、そういうところに反映されるということか。それでも多くの雑誌は長生きしない。競争というのはむつかしいものだ。
 ほとんど広告なのに定価が2,000円ぐらいするような雑誌もある。翻訳の版権であったり、原稿料の差もあるのかもしれない。もちろん発行部数も関係あろうが、必要だから生き残るのである。販売量は、そこで設定して利益を計算しているはずだ。つぶれる雑誌は不特定多数を相手にしすぎているか、目標を高く掲げすぎているのではないだろうか。
 改めていろんな出版社のいろんな雑誌を比べてみると、いろんな性格の違いがあって、記事の書き方が随分と違うものだ。上手い下手はもちろん、考え方が随分と違う。コンセプトの違いで、人間の考え方は(文章として現れる考え方)大きな違いを表すようだ。もちろんいいとか悪いとかという意味ではない。
 性格が違うからこちらも面白いのだが、時々一方的過ぎる内容もある。読者に意見を言いたい記事もけっこうあって、煩わしい。お前になんか意見を言われたくない。その上にお前は間違ったことを言っていることに気づいていない。そうやって雑誌に向かって毒づいてみたりする。低脳な記者にそういう輩が多い(当たり前のことではあるが)ようだが、それとは別に外国の日本向けの記事には特にこれが多い。日本人が意見を言われて喜んでいるからではないか。
 まあ、実際にはそうではなくて、外国人というのは、自分の意見を人に向かって言い過ぎる所為もあるのだろうと思う。自分の無知は棚に上げて、すぐに正当性を主張したがる。そのときだけ勝てばいいので、責任があまりない。まあ、責任の概念も違うようではあるが…。
 しかしながら、日本の雑誌が優秀であるかはまた別の話で、記事の上手さはあちらの方が断然上である。特に週刊誌の記事は低俗そのもので、読者も悪いのかもしれないが、あまりにひどくて頭痛がする。記者というのはものをあんまり調べないらしくて、偏見で材料を集めすぎだと思う。僕が怒っても仕方がないけれど、これで「あるある大辞典」を笑えるのだろうかと思う。
 まあ、それでも総じて雑誌というものは面白いと思う。雑誌を読んだら、いろんなメモを書き出して、外出したり買物に行ったりするときに役立てる。一度でもそういう利用ができたというだけで、大変に得したものである。記事に書いてあるものだとか現象などを実際に目にすることが、本当に楽しい。いろんなことと自分がつながっているということの確認なのかもしれない。
 新聞や雑誌がなくとも人は生きていけるだろう。しかし、雑誌がなくなると、人生はつまらないものかもしれない。少なくとも、かなり退屈するかもしれないな、と思う。
コメント
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