●郷愁の詩人 与謝蕪村/萩原朔太郎/岩波文庫
昭和8年から11年頃に書かれたものである。
蕪村の俳句にあるものが何であるかが、萩原朔太郎の感性でとらえられている。感性と言ったが、もっと心の奥の深いところからと言ってもいいかと思う。少なくとも、わたしは、概ね共鳴した。ただ、「郷愁」のひとつとして、慈母への思慕がよく出て来たが、そこが気にかかった。自分には、母への思慕が果たしてあるのだろうかと。と言うことは、蕪村の俳句から、そのようには余り感じないということでもあるかも知れない。
いずれにしろ、萩原朔太郎が、己の心底にあるものが何であるかをさらけ出すようにして書かれていて、凄いなと感じた。それは、萩原朔太郎の魂の投影でもあるように感じた。
正岡子規の蕪村の理解について書かれている。子規は、蕪村の価値を再評価した人ではあるが、蕪村の詩心をまるで分かっていなかったと評している。おそらく、そうなのだろう。俳句の背後にある情感、想念、音楽を感じとれない人であったと。
萩原朔太郎が言うように、蕪村がどのような思いのもとに句をつくったかが、まるで分からなかったら、その句は味気ないものとなろう。萩原朔太郎とまるで同じに感じることはなくていいだろうが。
人それぞれに、それぞれの道を歩いている。ひとつの言葉から思い浮かぶものもさまざまである。しかし、まるでばらばらというわけではない。共通するものがあるからこそ、わたしたちは、人と言葉をかわしながら生きている。
昭和8年から11年頃に書かれたものである。
蕪村の俳句にあるものが何であるかが、萩原朔太郎の感性でとらえられている。感性と言ったが、もっと心の奥の深いところからと言ってもいいかと思う。少なくとも、わたしは、概ね共鳴した。ただ、「郷愁」のひとつとして、慈母への思慕がよく出て来たが、そこが気にかかった。自分には、母への思慕が果たしてあるのだろうかと。と言うことは、蕪村の俳句から、そのようには余り感じないということでもあるかも知れない。
いずれにしろ、萩原朔太郎が、己の心底にあるものが何であるかをさらけ出すようにして書かれていて、凄いなと感じた。それは、萩原朔太郎の魂の投影でもあるように感じた。
正岡子規の蕪村の理解について書かれている。子規は、蕪村の価値を再評価した人ではあるが、蕪村の詩心をまるで分かっていなかったと評している。おそらく、そうなのだろう。俳句の背後にある情感、想念、音楽を感じとれない人であったと。
萩原朔太郎が言うように、蕪村がどのような思いのもとに句をつくったかが、まるで分からなかったら、その句は味気ないものとなろう。萩原朔太郎とまるで同じに感じることはなくていいだろうが。
人それぞれに、それぞれの道を歩いている。ひとつの言葉から思い浮かぶものもさまざまである。しかし、まるでばらばらというわけではない。共通するものがあるからこそ、わたしたちは、人と言葉をかわしながら生きている。