私の父は大正13年1月生まれです。真珠湾攻撃をアメリカに仕掛けて、日本が太平洋戦争に突入した昭和16年の時点では、父は17歳だったことになります。まだ大学には進んでいない年齢です。
しかし戦争が長期化して戦局が悪化していく中で、昭和18年には、大学生であった父は自ら志願して海軍に入隊します。その後同年の10月、所謂“学徒出陣”によって、20歳以上の主に文系の学生が徴兵されこととなります。
太平洋戦争開始とともに既に兵力の不足は深刻化していたようで、しだいに兵力の動員は学生にも迫っていました。従来の20歳以上の大学や高専の学生の徴兵延期制度を撤廃して、多くの学生を軍に入隊させたのが学徒出陣です。
父が志願した先は、正式には“第13期海軍飛行専修予備学生”です。これは、昭和6年の満州事変の勃発後、昭和9年から始まったもので、飛行機搭乗士官の不足に備え、本来は大学や高専の卒業生を対象に志願によって採用する制度でした。
昭和9年1期生は僅か6名、年を追って増加し昭和17年の9~12期は計300名を超え、いよいよ航空決戦が熾烈となった昭和18年の13期は5000名を超えました。13期5千人は7万人の志願者から選抜されたとのことですが、この志願者の多さは、国の危機存亡に若者が自らの命を賭け行動を起こした証です。そして同年12月には学徒出陣によって、約3000名が14期生として加わりました。
父がまだ40歳代、私が中学生か高校生の頃です。夕食になってお酒が回ってくると、私や弟に戦争体験の話しを父はよくしてくれました。
土浦の航空隊に配属されスパルタ教育を受けていた時、棒倒し競技では足に大傷を負ったこと。中国上海に軍艦で遠征に行って、甲板士官だった時には随分兵卒を殴って手が痛くなったこと。偵察機に乗っていて、偵察はに冷静な判断と綿密な計算が必要だったこと。
それなりに私にとっては面白い話でした。しかしある時期を境に、父は戦争の体験談を全くしなくなりました。私もその話しをそれ以上に受け止める能力もなかったのでしょうが、父の戦争に対する心境もある時から変化したのかもしれません。 ~次回に続く~
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