銚子・角巳之・三代目

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煩悩

2006年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

000_1041 昨日の続き。本日は作品背面の写真です。流木に絡まった赤い枝が“煩悩”を表しているのだそうです。私は芸術とは縁遠い生活で、なかなか理解する事は出来ませんが、作品に少々関わって(搬出入程度ですが)、何回も見ていると、不思議なもので何か心に響くものが徐々に出て参ります。目ではなく心で見る。などという領域には全く到達しておりませんが、これら芸術作品は、単なる物体ではなく、自らの(現在の)心を投影する鏡のように思えてきました。東京にいる時、恩師から双葉山と木鶏(もっけい)の話を良く聞きました。双葉山はご存知・昭和の大横綱、木鶏とは読んで字の如く木の鶏です。スランプに陥った双葉山がお寺にこもる。師匠は僧侶に双葉山の様子を聞く。ある日、“われ未だ木鶏たりえず”との返事。これで師匠は双葉山の復活を確信したそうです。木鶏には表情が無い。慢心も恐れも何も無い。ただ見る者の心でいかようにも見える。剣禅一如の柳生も、武蔵も、そしてこの逸話も、戦いに勝利する事を人生の目標にしていたわけですが、道を究めた方々はすべて、相手を傷付けず戦わずして勝つ。この領域に到達しているようです。田植えの記事なんかも掲載しましたが、自然征服型の欧米ではなく、自然共生型の東洋においてこういう考え方が強い。すごーく飛躍してしまいますが、基本はコメを食べる事からだろう。最近そんな事を考えています。