風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

ON と OFF

2008-06-25 | 風屋日記
あれは長男が中学3年の秋のこと。
出張から帰ったばかりのところに電話が鳴った。
受話器の向こうには低く深刻な声の長男の担任。
「実はカンニング事件のことですが・・・」
「は?」
「あれ?奥様からお聞きになっていませんか(緊張した声)?
 ご長男がカンニングに関わったひとりになっているのですが」
「あぁそうですか(笑)」
「(拍子抜けの声で)まぁ『見せた方』なんですけど」
「(押さえ切れずに)ぶふ(笑)あ、失礼。
 ご迷惑をお掛けしました。申し訳ありません」
「いえ、本人達もいたく反省しておりまして
 ご家庭ではあまりキツくお叱りにならないように」
「そういうことですか。わかりました。けじめはつけます。
 ただまぁこう言っちゃ何ですが、ある意味いい思い出になるかと(^^;」
「そういうふうに捉えていただけると助かります。
 学校ではキツく注意しましたので、フォローお願いします」
「了解しましたー」
まぁ当時私がPTA副会長などしていて
先生方とは気心が通じていたということもあるけれど
私としてはそんなに問題にする積りはなかった。
関わったのは普段からのいい仲間。
どうせふざけ半分の思い出づくりだろう。
帰ってきた母ちゃんとも大笑いした。
もちろん『見た方』の親も同じようなノリ。
「でもさー、『見た方』ってのはカッコわりぃよな。
 どうせなら『見せる方』になって欲しかったな(笑)」

次男が高校1年の時の夏休み最終日。
自室に隠って必死に課題をこなしている。
「お前さー、初日から毎日少しずつやってれば良かったのに」
と冷やかす私に、次男は
「オレもそう思って少しずつはやってたんだけどサ。
 ちょっと少しずつ過ぎた(笑)」
その言葉にこっちも大爆笑。

我が家の子育てが良かったと言うつもりはない。
今思い出してみても反省と後悔ばかり。
でもね、これだけは言えると思うんだ。
子ども達だって我々の「モノ」ではなく
それぞれ1個の人格を持ち、これからは各々生きていく人間。
きっちりかっちり育ててもしょーがない。
ギターの弦と同じで、キメる時にはきっちり締めるし
その他の時はユルユルで丁度いいのだと思うのだ。
(母ちゃんからはワタシも含めて「ユル過ぎ」と言われるけど)
親にしてみれば全ての面できっちりと誰しも願うのだろうが
そこは考え方を転換させることにした。
「これから生きていくのは本人。
 しかもひとりでメシを食っていかなければならない。
 いつまでも何でも細かく指示や助言できるわけじゃない。
 どんなことでも自分で考えて何とかするんだな」
教えるべきはけじめ。ONとOFFの切り替えの仕方だけだ。

型にハマった価値観、単一のモノサシに子どもをはめ込み
「勝ち組」にするべく1から10までスルドく目を光らせていると
たぶん子どもの神経はどこかで金属疲労を起こし
いつかプッツンして全てを投げ出すような気がしてならない。
そうでなくとも親の指示や期待に、
どんな努力をしても結果として沿えなかった場合、
自分で自分の存在意義にギモンを持ってしまうのではなかろうか。
その価値観、モノサシからはみ出てしまった子ども達は
どう生きればいいのか途方に暮れてしまうだろうな。

・・・ということを、ふと考えた。
そしてこの話題は明日の話題に関連することになる。
コメント (2)
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