風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

「正義」と「暴力」

2008-06-27 | 風屋日記
「正義」という言葉は好きではない。
一見正しいことのようでいて、実は極めて主観的であり
これほどあやふやなものはないからだ。
例えば明治維新。
幕府方の人間にとって新撰組は正義の味方だったはず。
しかし尊王派にとっては薩摩、長州などが官軍だ。
どちらもかざしていたのはそれぞれにとっての正義の御旗。
どちらが正しかったのかはわからない。
わかっているのは尊皇派が勝ったという歴史的な事実だけだ。

第二次大戦も同様だ。
アメリカは日本の各都市への空襲によって一般人を多数殺傷し
あまつさえ原爆によって幾多の命を奪った。
中国で、南方で、沖縄で、大平洋上で、そして特攻隊として
命を落としていった兵士達も
それら鬼畜アメリカの攻撃から家族や大切な人や故郷を守るべく
自らの命を盾として逝ったに違いない。それも正義。
一方アメリカにしてみれば
勝手に中華民国領土内に満州国を独立させた日本に
世界の警察として経済制裁を加えた結果の真珠湾攻撃。
当然正義の御旗を掲げた戦争だったに違いない。
米軍兵士達も誇りを持ち、胸を張って従軍したと聞く。

アルカイダもそうだ。
かつてソ連がアフガニスタンに軍を侵攻させた時、
イスラム青年達はソ連軍を追い払うべく自衛のために銃を取った。
それを経済的物質的に支援したのはソ連と対抗していたアメリカ。
そしてソ連軍が引き上げた後、
今度はアメリカがアフガニスタンでの影響力を保持するべく
以前は支援したイスラム青年達を駆逐し始めた。
アメリカ側、イスラム青年達側ともに同じアメリカ製武器を使い
殺しあったという皮肉な状態。
駆逐され、バラバラになったイスラム青年達が
アメリカに対抗するために統一して作ったのがアルカイダだ。
当然彼らは「正義」の名の元にジハード(聖戦)を繰り広げる。
標的とされたアメリカは「テロとの正義の戦い」を始める。
「正義」同士の泥沼の殺し合いがイラクで、スーダンで、アフガンで、
そして最近ではインドネシアなどでも続くことになる。

もしかすると「悪意の暴力」ってのはほんの一握りなのかも知れない。
世の中の暴力のほとんどは「正義の暴力」なのかも。
そしてアキハバラの彼も四面楚歌の中で壁を破るために
彼と彼に賛同するほんの一握りの人間以外には通用しない
「彼なりの正義の暴力」をふるったのかも知れない。

十字軍にせよ、関ヶ原にせよ、第二次大戦にせよ
「正義」という概念が歴史上の暴力を正当化する理由になっているが
ここではっきり言おう。「正義の暴力」なんてのは欺瞞だ。
どんな理由があるにせよ暴力に「正義」は存在しない。
傷つくのは当事者ではなく、関係のない一般市民達なのだから。
そして現代の日本において、世論やマスコミに
中国、朝鮮半島に対する「正義」の論調が増えつつあることに
私は非常な危惧を覚えるのだ。
コメント (4)
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