風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

2006-03-13 | 風屋日記
今日は14年前に死んだ親父の誕生日。
生きていれば83歳になっている。
以前も書いたが、私は親父が38歳の時に生まれているので、
私の歳の割には歳をくった親父ということになる。
ちなみに親父は祖父が40代後半の時の子なので、
祖父から私までの世代サイクルはやたらと間延びしている。

親父は大正12年、長州出身ながら奥州まで流れてきた弁説鮮やかな祖父と
代々南部家に仕えてきた士族の娘である祖母の間に生まれている。
言ってみれば、当時の地方都市の中では中の上、
まあまあの家に生まれた末っ子というわけだ。
おまけに男5人兄弟ながら、
県下でも秀才の誉れ高かったといわれる上3人とは10歳以上も歳が離れ、
(すぐ上の、唯一健在の4番目の伯父とも8歳離れている)
物心ついた頃にはほとんど一人っ子状態。
家族や使用人たちから可愛がられて育った「こっちゃん」は
当然4人の兄たち同様、旧制中学から旧制高校や大学を目指すことになる。
あとから親父から聞いた話では、
旧制四高(現名古屋大学)を受験して失敗し、東京の予備校に入ったとか。
もうそれだけで当時としてはボンボンの進路だわな(笑)

さて、可愛がられたボンボンの「こっちゃん」の人生も一気に暗転。
戦況が厳しくなってのんびり浪人生活などしてはいられず帰郷。
アルバイトをしているうちに召集されたものの、
入営直後の健康診断で結核と診断されて即日帰郷。
その後終戦までは飛行機工場で勤労動員の日々だったとか。

戦後は親戚の娘の婿にと乞われ、
その前に・・・と学費、生活費を出してもらって私立大学に入学。
途中で親戚と大げんかして将来の構想は灰燼と化し、
卒業までは学費も生活費も自分で稼いだものの、ここで体を壊す。
地元に帰って新制高校の教員になったものの3年で退職、入院。
ストマイ漬けの生活から手術を経、数年がかりで退院したものの、
結核上がりの30男に就職口などあるはずもなく
塾講師をしながら次兄から小遣いをもらう生活だったらしい。
今でいうところのフリーター状態ね。

あとはお袋と出会い、一念発起してまた教員に戻り、私と妹を育て、
ようやく人並みに安定した生活を手に入れた途端の結核再発。
それから10年の闘病を経て波瀾の人生を閉じた。

親父が残した詩に「橋」というものがある。
新聞に投稿したもので、これが絶筆ということになっている。
彼岸まで届くことのない、建設途中の橋に自分の気持ちを込め、
思い半ばで人生を終える寂しさをうたっている。
亡くなる、ちょうど1年前の日付けが原稿用紙に記してあった。
コメント (13)
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