風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

愛する(自)

2006-03-24 | 風屋日記
「愛する」という言葉は、いわば自動詞。
それもかなり強く意志が込められた主体的な言葉だ。
こんなオヤジは恥ずかしくて口にできない程、
熱い感情がそこには込められている。
だからこそ「愛される」という受け身構文として使われても
「愛させる」という使役構文で使われることはない。
まして「愛せ」という命令形に至っては何をか況んやだ。
だいたい「愛させる」「愛せ」なんてチョー欺瞞な言い方は
どんなにツラの皮が厚い人間でも言えねーだろう。

ところが近頃、この国の為政者達はヘーキでそういうことを言う。
「愛国心を持たせる教育」「国を愛する気持ちを持て」ナドナド・・・。
基本的に愛すべき「国」って何だ?

私は日本の山や川などの風景や文化が大好きだ。
文化っつーても「ニッポン人としての美徳」や「道徳」じゃないよ。
もっとささやかに普通の人々の生活の中にある文化。
ご飯を食べ、祭を楽しみ、四季を感じる文化だ。
そういうものなら愛していると言ってもいい。
けっしてこの国のシステムや為政者や国家の価値観をじゃない。
まして明治維新から終戦までの、実は高々100年に満たない間だけ
声高に強制された、一部の方々が言う「伝統的なニッポン」も
私から見れは愛する対象ではない。
そういう人って本当は多いんじゃないかな?
いろんな表現にダマされて、誤解している人もいると思うけど。

にもかかわらず彼の方々は「国を愛せ」という。
愛されるためには、愛してもらえる努力をしなければならないのは
男女の間でも、親子の間でも、友人関係でも同じこと。
相手のことを真摯に考えてあげなければ愛されることはない。
「国」はどうなの?
一般の国民も為政者達も行政も一緒になって
「愛される国」を作ることに真剣に取り組むことが
真の議会制民主主義の神髄だと思うんだけど、
今は国民の代表たる代議士が、
自分のことや自分の属する政党のことしか考えていない。
それでいて「国民なんだから国を愛せ」
あるいは「国のために尽くせ」と言われてもねぇ・・・。

愛されようと努力もせずに「愛せ」と言うのは
まるで、
家の中で何もせず好きなことばかりしているぐーたらオヤジが
「夫婦なんだからオレを愛せ」「オレに尽くせ」
と言っているのと全く構図は同じだよね。

え!? それはお前じゃないのかって?








そうかも・・・(反省
コメント (5)
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