風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

懐の広さ、狭さ

2006-03-14 | 風屋日記
今朝の新聞でインドネシアの新たな立法の動きを知った。
イスラム系政党が「ポルノ封じ」のため
かなり厳しい法律を議会に提案する予定なのだとか。
解釈によってはバリの伝統舞踊も、ヒンドゥーの性器神を崇めるお祭りも
ペニスケースをつけただけで生活しているネイティブたちも
今のまま伝統的な文化を維持できなくなるほど厳しい内容なのだとか。

もともとインドネシアをはじめとする東南アジア、南アジアは
インドの文化を引き継ぐヒンドゥー、倫理形成の元となった仏教、
植民地時代に宗主国から入ってきたキリスト教、
そして現代において拡がりつつあるイスラム教が混在している地域。
それにネイティブの土着原始宗教も存在しながら
一部は混ざりあい、あるいは認めあいながら独特の文化を作ってきた。
仏教のお寺にヒンドゥーの神々が鎮座し、
ラーマーヤナの物語が各国仕様に変化しているのもその結果。
先日のNHK特集にて、スマトラ沖地震津波から1年の追悼式を、
4宗教合同で行ったスリランカの町が取り上げられていたけれど、
あの姿こそこの地域の良さだと私は思うのだ。

ここのところ世界的に、
寛容の懐が狭くなってきているような気がしてならない。
自分と違うものを認めない、許せないという風潮が顕著だ。
国同士、違う文化同士の話ばかりじゃないよ。
日本の社会においても、ちょっとしたことで相手の揚げ足を取る。
ほんの些細なことを気にとめて感情的になる。
その結果、ひと同士、民族同士、国同士、地域同士がいがみ合う。
最初の話に戻ると、
どんな宗教であれ、外の世界に目を向けることなく、
自分達の価値観、倫理観の中だけに生きる
いわば「原理主義者」たちは外の世界への寛容度が低下していく。
ブッシュを支持するプロテスタント達や一部のムスリムたちだ。
そして相手の子葉末節ばかりが目について
俯瞰する目を失ってしまう。

表現が飛躍するけど、
バーミヤンを破壊したタリバンと、
やたらと校則を細かくきめていく学校のものの見方って
結構似ているような気がするんだよねー(笑)

気を取り直して・・・
結局私は何を言いたいのかというと、いつもと同じ
「自分と違うものを認め、尊重しようよ」ってことだわな。
インドネシアのイスラム系政党の言う
「メディアの発達によってポルノがはびこり
 倫理は地に落ちつつある」
という気持ちも分からんではないけれど、
自分の周りの文化や価値観を見渡した上で、
それを法律によって規制することが果たして適切なのかどうか、
もう一度よく考えて欲しいもんだ。

蛇足だけど、
寛容度が低下しつつあるという世界、社会の変化と
グローバリゼーションの浸透度が比例してるように見えるってのは
私の穿ったものの見方なのだろうか。
コメント (3)
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