吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

半世紀(1965~2015)の自分史と世情変化の抄誌③

2020年05月07日 | Weblog
※ 寄稿順に表記されていますので、タイトル後尾の①→②→③の順で読んでください。

「5」2005年~2015年:
1990年代のバブルand バブル崩壊の十年を含めた経済社会の構造的変容についていけず、私は40歳(1982年)に設立した小さなベンチャー会社を2007(平成19)年閉じた(私65歳)。四半世紀、特段の事業成果や社会貢献も残さずリタイアした私は、この年日本豆乳協会という業界団体の雇用にありついた。

小泉純一郎首相の退任(2006年)や郵政事業民営化(2007年)などおよびスキャンダルKY政界(安倍、福田、麻生内閣)などに過ぎた平成二十年(2008年)前後、市井では第三のビールやメタボリックシンドロームとネットカフェ難民や年越し派遣村などが話題になった。街で食べるラーメンは一杯600円前後、ビール(350ml缶)は一缶205円ぐらいになっていた。

米国発世界金融危機の引き金になったリーマン・ショックやアメリカ大統領選挙での民主党オバマ大統領の出現(2008年)および日本における民主党への政権交代などが政界を賑わしたが、世間では新型インフルエンザが広がりWHOのパンデミック宣言が発出(2009年)された。

わが国の人口(自然)増加率がマイナスに入った21世紀は、日本の出生率(8%)が死亡率(10%)を2%下回って(2015年)いる傾向でわかるが、つい世界全体人口の大巾増加傾向(11%増/2015)を見落としがちになろう。中国(年5%増)を含むアジアの人口増加率は、平均15%。アフリカの全体平均年20%増や北米や南米の約10%増などが、世界の人口増をリードしている。

「6」2015年~2020年:
2010(平成20)年、国民の一人当たり年収は年430万円と前年平均を割り、2015(平成25)年も同414万円と低落したが、2019(平成29)年には 441万円と少し戻している。国民総生産(GDP)も、2010年492兆円、2015年517兆円、2019年531兆円と、おおむね年平均1%弱の増加に低迷している。

2017(平成29)年わたくしは、2007年(65歳)より十年勤めた日本豆乳協会を退社(75歳)。ただいまは、ほとんど隠居生活(2020年)だが、週2日ほど友人の会社へ嘱託出勤している。
(了)


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半世紀(1965~2015)の自分史と世情変化の抄誌②

2020年05月07日 | Weblog
「3」1985年~1995年:
1985(昭和60)年1米ドル238円の円相場は、’86年168円、’87年144円と高くなり、 1990(平成2)年の145円が、1994(平成6)年102円、’95年94円と一気に高騰した。

1985年383円だったラーメンも、1990(平成2)年一杯451円、’95(平成7)年486円と高騰。市販のビール(350ml缶)も、1缶175円(‘90年)から218円(‘95年)と高くなった。1980年代後半から1990年までの物価高騰を伴ってのバブル期は、この間の五年とバブル崩壊期(約3年)を含めこの十年弱に亘った。

「4」1995年~2005年:
イチローの年間200安打(超え)や貴乃花の横綱昇進などが巷の話題になる一方、世間はいわゆる価格破壊の進行や就職氷河期を迎えた。阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件(1995/平成7年)などを経て、1997(平成9)年には3%から5%への消費税増税があり、景気後退の後押をした。北海道拓殖銀行や山一證券の破綻などが、エポックになった。

貸し渋り(1998年)が企業の投資や開発意欲を後退させ、自自公連立(小渕恵三首相)の地域振興券や二千円紙幣なども、景気低迷脱却に奏功せず、平成12年のIT革命や2000年問題に加えて介護(保険制度)やパラサイトシングル問題など、政治の多難を増幅させて21世紀を迎えた。

2001年自民党をぶっ壊すと、小泉純一郎総裁が誕生。経済社会の構造改革を旗印に郵政民営化がスタートした。アメリカ・ニューヨーク9:11同時多発テロや小泉首相の北朝鮮訪問などが、政治外交の話題になった。この時期の市井のラーメン一杯(値段)は、560円、350mlの缶ビールは、210円を前後して売られていた。

SARSやイラク戦争などの動乱世界(2003年)にあって、日本は健康増進法や個人情報保護法など消費者国民や個人に目を向けた内政(小泉首相)になってはいたが、世情は自己責任や勝ち組負け組(2004年)およびニートや格差社会(2005年)という言葉で説明された。

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半世紀(1965~2015)の自分史と世情変化の抄誌①

2020年05月07日 | Weblog
「1」1965年~1975年:
私が大学を卒業し初めて就職した昭和40(1965)年、ラーメン一杯60円(東京都新
宿区)だった。戦後の復興期が終盤になり高度成長期の入り口(いざなぎ景気)あたり
だったが、為替はまだ固定相場で1米ドル360円だった。1米ドル360円の昭和46
(1971)、私は推薦を得て「国際経営戦略シンポジューム団」なる厳めしい名前の米国
視察、米国マーケティング学習40日のバス・ツアーに参加した。

入社5年後(1970年)、5年前60円だったラーメン一杯は95円前後になり、さらに
5年経った昭和50(1975)年には、210円になっていた(10年で3.5倍)。

この間、ベトナム戦争などに苦戦していたアメリカの国際収支は大幅な赤字で、いわ
ゆるドル・ショックを招来した。貿易黒字が突出していた日本の1米ドル360円の固定
相場が非難され、その圧力から1米ドル308円(1971年)なる暫定変動相場になった。

多摩ニュータウンの建設や山陽新幹線の開通などと田中角栄首相の「列島改造論」や
日中国交正常化などにみられるごとく高度成長を果実にした日本は 結局、円の変動相
場制を受け入れ(1973/昭和48年)、為替レイトは1米ドル264円になった。その後、オ
イル・ショックや1974年の狂乱物価期を迎えた。この年(1974年)、私は9年余りお世
話になったマーケティングリサーチ会社を退社した。

「2」1975年~1985年:
マクドナルド日本の一号店出店や日清のカップヌードル発売および読売巨人軍長嶋選手引退や田中角栄首相(ロッキード事件)の引退(1976年)などに、時代の変化を感じた1978年から81年の間、私はアメリカ・シカゴに本社を置く外資系化粧品の会社で働いた。

1982(昭和57)年、わたくしは小さなベンチャー会社を設立。リサーチやマーケティングのコンサルや代理店としての活動を始めた。「New ton」(教育社)の創刊や「おいしい生活」(西武百貨店/糸井重里)や東北新幹線と上越新幹線の開通や青函トンネルの貫通と東京デズニーランドの開園(1983/昭和58年)などを横目に、つくば科学博関係のシゴトからNTTやJTなどの民営化関連の業務などで過ぎた(1985/昭和60年)。

この頃の街のラーメンは、一杯380円。為替レイトは1米ドル238円(1985年)だったのだが、当時 翌年の168円や翌々年の144円を、誰が想像したしただろうか。
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