吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

65年目の遺書に戻る小史

2018年03月04日 | Weblog
もうすぐ76歳になる私の見つけた65年目の父の遺書。わたくしが村の小さな小学校に入ったのは、昭和24年(1949)。男子5人女子8人の計13人が同級生の2年生と1年生が一緒の複式学級の分校だった。ズック靴も履けない貧しい暮らしの村だったが、すでに戦後の超貧困は脱していた。

わたくしが小学校4年生になった頃の昭和28年は、敗戦日本が戦力なき軍隊(保安隊ー自衛隊)を論議し、バカヤロウー解散などが国会のトピックスになっていた。前年、日本初のボクシング(フライ級)世界チャンピオン白井義男をラジオで聞いたが、この年(昭和28年)は田舎の我々には手の届かないテレビ放送が開始され、都会では街頭テレビが賑わっていた。

そして昭和30年、戦争のつづきとして傷病生活をしていた父が亡くなった。ガダルカナル(海軍)で負傷病気して帰国復員してちょうど10年後。この間が、わたくし達兄弟の父との暮らしであった。私が小学校6年生、弟3年生、妹1年生と母が残った。その父が遺した遺書は、この1年3か月前に書かれたようだ。寝床で腹這いでやっと手書きした父の想いが、紙一枚に滲んでいた。

昭和28年、29年、30(1955)年は、日本が戦後からテークオフしようとしていた時代の変換期だったようだが、小さなわたくし達兄弟は無関心だった。マリリンモンローや力道山の活躍があり、黒澤明監督の「七人の侍」や石原慎太郎の「太陽の季節」などが世の話題になっていた。トランジスタ・ラジオや三種の神器が、消費市場を賑わし始めていた。

このような時代の変化を寝床で感じていた父。子供の成長を見られず逝く無念と残念の思いと早逝する父としての不足を詫びていた。たった一枚の便箋に遺した遺書だったが、その存在も知らずに過ぎた65年を回顧した。先月27日(28日)、月一回の実家の片づけ整理中古いダンボールの隅に見つけた65年目の父の遺書に感謝している。ほぼ父の願いどおりに生きた65年を誇りに思い、安堵している。

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