吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

食育と教育問題

2006年10月19日 | Weblog
 教育(再生会議)や就労(再チャレンジ)もそうだが、問題や課題の本質を避けた形式的な会議や審議会設立やイベントなどがはやる。最たるものが「食育」だ。スーパーや外食が「食育」に乗り、集客のテーマにして食育イベントをしているという。(朝日新聞、2006年10月18日13版)
 イトーヨーカドーやイオン・グループおよび外食(ファーストフード)のモスフードなどが「食育」イベントに注力しているという。収穫の秋、食欲の秋だから、「食べ物や食べること」についていろいろ考えたり、感謝する催事に反対したりはしないが、「ハンバーガー」がどのように出来、どのような素材や栄養(成分)で構成されているかなどが、食育なのか。里芋やさつま芋の葉っぱや耕作の仕方も、土の中の芋に触れたこともない都会の母親や子供たちに、「ジャガイモとさと芋は親戚か・・」などと、騒ぐことが食育なのかと考えてしまう。
 ビニール袋いっぱいに手詰め競争するニンジンじゃが芋にキャッキャする母娘や
スーパーのコーナー、コーナーにカセットコンロを置き、試食販売させるデモと同じレベルで、30種類の食べ物やサプリメントの説明さながらに微量栄養素の効能を説明したりする催事が、食育に貢献していると思っているらしいスーパーマーケット。自分たちが推進し広めたファーストフードや簡便加工食品が、どのように人々の生活やライフスタイルに貢献し、キッチンのお母さん方を助け、お魚、お肉や野菜といった生鮮品を補ったのかなど、もっと自分たちのしてきたこと(実績や歴史)や社会貢献を採用したりしたほうがよいと思うのだが、これを避けているようだ。なにも、スローフードやスローライフおよび自然やロハスなどだけが”いいこと”でもあるまいに、もっと自分たちの社会貢献実績を訴えたらいい。
 お祭りやイベントにして集客し”何かをする”ことを食育や食育貢献と思っているようだ。もっと、家庭や教育に問題を委ねることのほうがよいと思うのに、いまのスーパーや外食、テーマが思い浮かばないのだろうか。食育食育という。
 なぜ「食育」が問題になり、社会的なテーマになって来たのかに戻って考えることが大切なのではないか。簡単便利省力という合理化(?)を求め、時間や労力をおしむことが生産性の高さやゆたかな生活だと思い、工業化、産業構造の高次化をすすめ、食品(加工)工業や外食・中食産業がどんどん、HMR(ホームミールリプレースメント)を高め、給食、テークアウト、メニュー宅配などがMSと言って、お母さんがキッチンに立たなくても済むようなことを推進し、女性の就労性を高めたといっているところに「食育」問題があがってきたのです。
 食事と教育や学力レベルの低下が”見かけ”相関しているということでもないでしょうが、食事をキチンと摂ることや食事中の家族の団らんなどの子供教育への影響が語られ、核家族なのに”家族バラバラの食事”がほとんどになってきている問題を嘆くのでした。母親主婦と勤労者を兼ねなければ、暮らせない状況を高めて、手抜きだ、家族そろっての食事と家庭教育だといわれて、社会参加を高めている女性に最敬礼する次第だ。
 昨日スタートした教育再生会議が、社会環境や人々のライフスタイルなどまで入るのか、教育基本法や学校教育改革や、もしかしたら”教育バウチャー”とか言って競争概念を入れれば切磋琢磨して学校がよくなるというようなことをのみ推進することを議論しようというのかわかりませんが、産業や経済および市場における自由市場原理やシェア競争マーケティングがもたらした結果への反省機運中に”競争”といっている自分たちのオクレを考えて欲しいと思う。
 女子大の栄養学、家政学、食物学や調理専門学校などを卒業し、社会に出て働く人々がこんなに増えてきたいま「食育」がテーマになってきている経緯や理由を考えてほしいと思うのです。
コメント
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