*関根信一作・演出 公式サイトはこちら 座・高円寺1 11月3日終了
劇団フライングステージは毎年12月末に「gaku-GAY-kai」という盛りだくさんのイベントを行う。シェイクスピアの贋作シリーズは、このイベントが始まりである。当日リーフレットに折り込まれた関根信一の「シェイクスピアと私と私たち」と題した長文のメッセージが非常に興味深い。関根が修業時代に数々のシェイクスピア作品、海外の俳優や演出家との出会いを経て、「gaku-GAY-kai」の贋作シリーズで実際にシェイクスピアを演じることになったという過程は、関根信一という一人の演劇人の人生行路であり、そこにいつのまにか観客として導かれた者の歩みにも重なり、読むうちにふと胸が熱くなった。
贋作シリーズは2017年の『夏の夜の夢』にはじまり、『冬物語』、『から騒ぎ』、『十二夜』、『終わりよければすべてよし』、『テンペスト』、『お気に召すままま』と続いている。シェイクスピアの原作の構造を尊重し、活かしつつ、凡庸な翻案に陥ることなく、フライングステージのテイストで軽やかに描く。年末ゆえ自分はいまだ「gaku-GAY-kai」に足を運んだことがなく、今回が初の贋作シリーズ体験となった(10/30『贋作・十二夜』、 11/1『贋作・冬物語』の順に観劇)。
『贋作・十二夜』と『贋作・冬物語』交互上演のプログラムである。15名の俳優が2作品どちらにも出演し、複数役を兼ねる配役もある。舞台はイリリアやシチリアから新宿二丁目、歌舞伎町、登場人物は原作名のままで、新宿二丁目のセレブ、歌舞伎町の王などなる。劇中に『ミス・サイゴン』の「命をあげよう」の熱唱や、DA PUNPのヒットソングの替え歌がダンスとともに披露されたり等々盛りだくさんである。
『十二夜』は生き別れになっていた男女の双子の妹が男装したことで大騒動になるが、たとえば妹ヴァイオラを演じるモイラは、自身のSNSで「ドラァグ界の月下美人または世界一かわいい女装を自称する、季節女装労働者です」と名乗っている。つまり演じる役と、いわゆる「中の人」のセクシュアリティの仕掛けが重層的で、少々混乱したのは確かである。しかしそれらを理詰めで図式化し、理解、把握することはしなかった。
それは、俳優陣が自分自身のセクシュアリティはじめ、さまざまな背景、歴史を以てシェイクスピアに誠実に向き合い、役を演じていたためである。時おりシェイクスピアの流麗な長台詞に苦労しているところもあったが、400年以上前の物語を自分たちの物語として新たに生み出そうとする情熱はじゅうぶんに伝わる。
2本の観劇を通じて、シェイクスピア作品が長い年月を経て読み継がれ、演じ継がれ、味わい継がれる魅力や普遍性だけでなく、人を生かす力、包容力や温もりを持つ理由がわかるような気がした。たとえば『十二夜』の終幕で双子が再会する場面は、どの座組であっても胸を打たれるのだが、『贋作・十二夜』のそれには、「この私とはいったい何か?」と懸命に問いかけ、もがきながら必死に生きている人へ、シェイクスピアの優しい答が示されていると思われた。男性や女性という括りから解放され、「わたしはわたし」と誇らしく胸を張り、前を向いて歩く。演劇が人に勇気をもたらす瞬間である。
自分の観劇日はいずれも舞台の熱気への戸惑いであろうか、反応がいまひとつであったのは残念だが、関根信一のメッセージを読み返すと、舞台の印象や客席の空気がさらに喜ばしいものに変容しつつある。大切な舞台と出会えたのだ。 高校生以下(高校生以外の18歳以下も)は観劇無料という大変良心的な公演であり、はじめてフライングステージの舞台を観た、シェイクスピアを知ったという若い人たちが、これからも佳き出会いを重ねてほしいと願っている。
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