ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和8年の義士会-観音寺で相撲大会

2015年11月22日 04時40分06秒 | Weblog
 昭和8年(1933)の父の日記を読んでいると、1月に観音寺、義士会という名が何度もでくるので気になりました。
 6日の頁には、「義士会の宣伝ビラ」を書いたこと、小学校の落成式に出席したこと、夜にはまた義士会の会議に観音寺に行ったことなどが出てきます。7日の頁にも観音寺に行って庵尼に出会っています。8日も仕事を終えて観音寺に行っています。そして、9日が義士会の日でした。この日は旧暦の12月14日にあたり、赤穂義士討ち入りの日だったのです。
 義士祭は本拠の赤穂の義士祭が有名ですが、明治36年(1903)に始まったと聞いています。加東市家原の観音寺には、赤穂の花岳寺、東京の泉岳寺と同じように四十七義士の墓碑があります。浅野家の領地であった加東郡の家原には義士の一人である吉田忠左衛門が郡代として赴任していました。討ち入りから150年の後に義士を称えるために当地の人々の寄附でつくられたのがこの墓碑です。社町(旧)の義士祭は昭和2年(1927)年に始まったと聞いており、青年団が中心となって相撲大会や義士行列、映画大会などを行っていたようです。
 当時青年団員だった父の日記にその義士会のことが記されていたのでここに紹介します。義士会の在り方についても問題意識をもっていたようです。写真は当時、義士装束に扮した青年団員の姿です。
 

父の日記より

 一月九日

 午前八時起床 その儘岸熊に行って義士会の相撲大会の役員だったの洋服に軽衣裳をつけて出かけた。尤も寒空と曇天なので一層の心配と寒さだ。こうして義士追善の為に一種の公共団体が参加総動員すると言ふ事は考えものであると思ふ。そして一青年団の年中行事の一つとするが如きは以て考慮すべき事実だと感じる。
 午后一時から相撲の開始。
 午后四時半頃に優勝戦も終了。優勝は鳥居支部の末永百太郎君、二位が意外にも社の内橋健市君が獲得してくれた。
 午后七時から夜の部だ。活動写真の弁士を初めてやつた。銀幕に遷す説明は演説よりむつかしい。~後略~

 
コメント
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