晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

雛人形

2007-02-26 20:00:10 | Weblog
 私だけが無知だったのかも知れないが、雛人形に男雛を向かって右に置く「京雛」と、左に置く「東京雛」がある。(写真は、「東京雛」)

 『日清・日露戦争』(シリーズ日本近現代史③ 原田敬一著 岩波新書 2007年刊)の冒頭の記述に、「天子南面東立」という中国王朝以来の「伝統」では、「京雛」が正しいということだ。

 「東京雛」の誕生は、19世紀半ばに旧来の慣習をヨーロッパスタイルに変えたことと関係がある。天皇家も並び方を欧州風に変えた。小学校儀式の際、「ご真影」は南面させ、向かって左に天皇像、右に皇后像を置け、という指示が反映されている。

 先日の藤原紀香と陣内某の神戸生田神社前の会見で、2人の立ち位置が報道からの注文で、途中で陣内が左に変わった。

 

 この国の伝統とか文化とかにこだわりを持たれる「美しい国」づくりを進める方たちは、どちらに並べというのでしょうか。
 
 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本国憲法』

2007-02-25 16:22:27 | Weblog
 映画『日本国憲法』(ジャン・ユンカーマン監督 シグロ 2005年作品)を観ました。

 ジャン・ユンカーマンが、ジョン・ダワー、日高六郎、チョムスキーをはじめとして、中国、韓国の学者などへ日本国憲法の制定の経緯、第2次世界大戦で日本がアジア諸国の人々に与えた被害、アジア諸国から見た憲法改定の動きなどについて
インタビュー。



 映画が作られた2005年当時は、コイズミ時代で、現在の大きな声の出せない総理安倍ちゃんから比較すると、まだコイズミは憲法改定について、慎重な表現をしていたことがわかる。

 立花隆の「メディア ソシオ ポリティックス」で、「安倍首相は潰瘍性大腸炎という難病に侵されており、ステロイド剤の副作用で急速に老化している。人間の老化を隠せないのは首である。彼の首は老人のものである。」と伝えている。

 私は、個人の病を喜ぶものではないが、この際、安倍が病気で早期に降板することを望む。



 

 

 

 


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

団塊世代の退職

2007-02-24 17:40:08 | Weblog
 残業が続き、昨夜は会社の元上司の退職送別会、いよいよわが社でも団塊世代の大量退職が始まりました。
 さて、30数年間働いてきて、彼らは今何を思っているのでしょうか。



 自分は、精一杯働いただろうか。会社には充分貢献できただろうか。退職後も、仲間や上司、取引先、お客さんの記憶に残るだろうか。様々な思いがあるでしょう。

 私も含めて、大変悲しく空しい思いになりますが、組織で働く限り、個人の名前が会社の歴史に残ることはほとんどないでしょう。また、この仕事は、この人にしかできないという仕事はありえないし、退職した翌日から誰かが同じように仕事をこなすことでしょう。

 『戦争という仕事』(内山 節著 信濃毎日新聞社 2006年刊)で、内山氏は、現代における働くことの意味を問う中で、西欧の近代合理主義、利潤追求を動機とする資本主義、その世界的な展開であるグローバリゼーション、現在の地域共同体の崩壊状況などを批判する。

 しかし、氏のオルタナティブの手がかりは、既にほとんど絶滅したこの国の伝統的な農村共同体にしかなく、歴史を高度経済成長前に戻さなければならない。氏の思考からは、歴史の進歩という視点が感じられない。

 必要なのは、氏が批判しているグローバリゼーションなどの先に描かれるべき「新たな共同体」とそこでの労働イメージではないでしょうか。



 「能力に応じて働き、必要に応じて分配される」が具体化できる経済社会体制イメージを。

 

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥インフルエンザ

2007-02-19 21:17:43 | Weblog
 柳沢厚生労働大臣のとんでも発言に紛れて、厚生労働省が「しっかりと」(安倍ちゃんの口癖)説明していないことがある。

 1月に九州で発生した鳥インフルエンザ、養鶏場の鳥を処分したことで終息したような印象だが、これが世界的に人の死者数を増やしているH5N1ウィルスの可能性が高いということだ。

 鳥インフルエンザの怖さは、人の「新型インフルエンザ」への変異の可能性があるからといわれている。厚生労働省は、この危機を伝えていない。



 韓国では、この冬、百数十万羽の家きん、数千頭の豚、数百等の犬が殺処分された。

 今年は、暖冬でインフルエンザの流行は少ないようだが、一端「新型」が発生したらこの国は大パニックに、そして愛犬も処分なんてことになる可能性も。



 私には、昨冬に突然周りからスズメが消えた原因が未だに不可解です。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京マラソン

2007-02-18 14:31:20 | Weblog
 朝から「2007第1回東京マラソン」をワクワクしながら見ました。9時05分、3万人余が一斉にスタート、最後尾がスタートラインを超えるまで約20分ほどかかったということです。

 コースは、新宿都庁前をスタートし、皇居、芝増上寺、品川折り返し、銀座、浅草折り返し、再び銀座、臨海副都心東京ビッグサイトがゴール、花の東京のど真ん中を交通規制をしてよくも開催までこぎつけたと思います。石原慎太郎はどうしようもない政治家ですが、この1点については評価できます。



 気温5℃、雨、風あり、厳しいコンディションの中、ヤクルトのジェンガが優勝しました。ゴール後泣いていました。この国に来て15年、様々なことがあったのでしょう。制限時間が緩いので、この時間も走り続けている市民ランナーがいることでしょう。



 10年程前に、東京シティハーフマラソンという大会に何回か出場したことを思い出しました。スタートは、今日と同じ都庁前、途中までのコースはほぼ同じで、芝増上寺を超えたあたりから、ゴールの大井競馬場を目指し、最後に運河に架かる太鼓橋を7,8箇所越える後半がタフなレースでした。

 当時は、オーストラリアのモネゲッティ、早田俊幸、旭化成の大崎、女子は、千葉真子が活躍している時代でした。

 1月20日頃の寒い時期の開催でしたが、ハーフを走った後、東京駅のと東京温泉で汗を流して、そのまま羽田から帰って来たこともあります。40代でしたから、元気が有り余っていたのですね。



 夏の北海道マラソンをもっともっと市民ランナーが参加しやすいような制限時間にして、内外からランナーとその家族を呼ぶ工夫も必要と思います。是非、知事選挙の公約にしてほしいですね。


 このブログを見に来ていただいている方は、1週間に延べ500件ほどです。改めて感謝いたします。また、遠慮なくコメントをお寄せ下さい。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ハケンの品格』

2007-02-17 20:05:54 | Weblog
 1月から3月クールで、毎週見ている数少ないドラマに、日本テレビ系水曜10時からの『ハケンの品格』があります。もうひとつは、『拝啓、父上様』ですが。

 篠原涼子(大前春子)というスーパー派遣社員が、毎週発生する無理難題を見事に解決するワンパターンな展開ですが、本音トークの脚本がいいです。

 

 バブル経済の崩壊が始まった頃、巨額な不良債権に喘いでいた企業を再建するのは、労働分配率を引き下げるしかないという考え方がありました。

 当時は、土地の価格が下がったり、銀行が倒産したり、労働者の賃金が下がるなどということが、誰しも現実のこととは思えない、そんな時代でした。

 今では誰でもイメージできる「リストラ」という言葉も、その後において使われるようになりました。企業は、終身雇用、年功序列という日本型雇用を投げ捨て、高齢社員の解雇、非正規雇用の拡大を進め、労働分配率の引き下げを強行しました。



 その事態に対して、労働組合は無力でした。労働組合は、正社員だけのための組合であり、その運動は、社会変革の展望なき、ただの「労働力高値販売同盟」にすぎないことが暴露されました。

 労組は、組織防衛を唯一の目標に、変化に対しては徹底的に「保守主義」で抵抗するだけで、組織率、社会的影響力を低下させました。



 『ハケンの品格』の篠原涼子の台詞から、なんだかんだ言っても、私たちは労働力を売っているという原点を今一度確認させられます。

 会社の経営に関与しているとか、自分は会社に無くてはならない人材、部下を「使う」という感覚、社内で力を持っている・・・篠原涼子は、「それは、全て勘違いですよ」といってくれています。



 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『戦争という仕事』

2007-02-15 21:22:49 | Weblog
 『戦争という仕事』(内山 節著 信濃毎日新聞社 2006年刊)

 10章ある構成のうち、第1章しか読んでいないのに、著者が「仕事」という行為に対して突きつけてくる問いは、刺激的かつ根底的である。

 例えば、「自分の仕事が社会にどんな有用性やマイナスを与えるのかを問うことなく、つまりそのことに対する判断を棚上げして命令に従うのが仕事だと納得することのなかに、仕事の頽廃は存在してはいないだろうか。」

 「企業は正しい活動をしているという「虚構」、役所や組織は正しい活動をしているという「虚構」、この「虚構」があってこそ、私たちはその命令の下で働くことに誇りを感じることができる。」などの記述である。



 内山氏の講演を一度だけ実際に聞いたことがある。確か、地方分権の話で、この国では、合併などの議論が盛んであるが、フランスには数百人の人口規模の自治体があり、立派に自治が成立しているというような内容であった。



 氏は、哲学者であり、思索したことを、文章とすることを生業としている。それに対して、私たちは、会社の中では、自分の論理だけではなく、組織の論理に従って「仕事」をしていかなければならない位置にいる。

 氏の指摘は正鵠を得ている。しかし、それだけでは生きていけない。氏の論理に100%沿うことは、私たちが現在携わっている「仕事」からその意味や意欲を奪いかねない。

 本質的には、私たちは、「労働者」であり、「労働力」を売ることでしか生計を立てていけない。現在の社会体制の下では、私たちの労働に私たちは主体性を持っていない。

 この点について氏がどう考えているかは、もう少し読み進めていかなければわからない。




 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕張に群がる人たち

2007-02-13 21:12:42 | Weblog
 最近のニュースで「夕張」の話題のない日は無い。

 みんなが、ニュースを見ながら思っていることは、

 全国区のニュースキャスターが、1日取材して何がわかるのだろうか。

 有名人が買い物をしたところで、何の経済効果があるのだろうか。

 真に夕張を思う行動なのか、善人面した単なる売名行為なのか、毎日入れ替わり立ち代わりでは、地元の人もとまどうばかり。

 救済と言う名の買い叩き、沈む泥舟からの脱出。丁度手ごろな選挙の道具に。

 いつものことながら、報道は興味本位の一過性、皆が食傷気味になれば、他で新たな大ニュースが起きれば、はい、おさらばです。

 このままでは、夕張が消費され尽くされてしまう。



 本当の始まりは、奴らが帰った後から、10年も、20年も続くのだから。

(未定稿)

 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アングラ機関説

2007-02-12 19:32:07 | Weblog
 10数年愛用していたランナーズウォッチが壊れてしまったので、ヨドバシカメラで購入した、SEIKO SUPER RUNNERSを昨日から使用する。

 たかが、時計なのですが、これから私と共に、何万kmも一緒に走ると思うと、速く腕になじんでほしいと思う。



 『アングラ機関説 闇の表現者列伝』(平岡正明著 マガジンファイブ社 2007年刊)

 懐かしい「アングラ」という言葉、平岡正明という名前もご無沙汰。さすがは、札幌アテネ書房。読む前から、大方の中身は想像がつくが、買ってしまう。

 60年代末から70年代にかけての平岡の評論を集めていて、取り上げられている対象は、シネマ編では、足立正生、若松孝二、大島渚、文芸編では、団鬼六、沼正三、澁澤龍彦、演劇編では、管孝行、寺山修司、唐十郎、佐藤信・・・と、一時代を形成したアングラの旗手が並ぶ。

 平岡の評論では、「アングラは革命的」が乱発される。確かに当時の既成の文化に対してのアンチテーゼだったのだろうが、それを政治的革命と同一次元で賞賛していることに違和を覚える。

 当時は、雑誌『現代の眼』などで随分わくわくして読んでいたことを思い出すが。

 メッセージ性が強く、パワーを感じる勢いのある時代だったことは、その端っこにいた私も同感するが、現在から見れば、何が革命的だったのだろうかと言わざるを得ない。

 彼らの末路は、80年代に入って、サブカル文化に掠め取られ、長くやっていれば、それなりの「文化人」の扱いに。唐も、佐藤信も、ビートたけしや小室等のそうだ。



 若松孝二が、『実録・連合赤軍』を撮っている。少し期待している。夏の公開だそうだ。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加賀乙彦 『雲の都』

2007-02-11 14:23:38 | Weblog
 とても穏やかな日曜日、読みかけていた本を最後まで読みきることができました。

 『雲の都 第1部広場』(加賀乙彦著 新潮社2002年刊)

 数年間の空白を経て、加賀の自伝的長編小説が再開していた。以前読んだ、『永遠の都』(新潮文庫全7巻)では、戦前の東京で外科医を開業していた加賀の祖父をモデルに一族の運命を描いた。

 この小説から、時代は戦争向かっていたが、中流層の生活はそれほど変わらずにそれなりに豊かな生活が続いていたことがわかる。戦争に動員されて国外で戦っている者だけが、命がけの運命にあった。

 平和が脅かされ、人々の命が脅威にさらされるのは、戦争の末期、空襲や物資の不足が目立ち始めた頃からであった。

 今日、この国が「戦争のできる国づくり」に向かって一直線に進んでいるが、私達の当面の生活に影響が無いのと同じ様に。

 

 さて、『雲の都 第1部広場』に舞台は、1952年、主人公悠太(加賀自身)は医学生で、セツルメント活動に関わって血のメーデー事件に巻き込まれる。

 集団行動に違和を感じながらも、激動の歴史に流される悠太。『第2部 時計台』は、既に刊行されているが、悠太が死刑囚と対話する姿が描かれる。『第3部 城砦』は、連載中。



 加賀の小説からも時代の空気が伝わるが、戦後は、つねに学生や人々の政治運動があり、それぞれの人生に大きな影響をもたらせていた。人々の虚無的で不気味な沈黙が始まったのは、いつからだろうか。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バブルへGO

2007-02-10 17:54:24 | Weblog
 残業や同僚の親の通夜で、昨日まで帰宅が遅かった。

 札幌シネマフロンティアで、本日初日の「バブルへGO!!タイムマシンはドラム式」(馬場康夫監督)を観る。

 阿部寛、広末涼子、薬師丸ひろ子、劇団ひとりと無難な配役である。阿部寛は相変わらずエキセントリックなワンパターン演技だが、それはそれでいい。驚きは、広末涼子のスタイル、これで子どもを一人産んだのだろうかとういう位絞れた体。

 ストーリーは、薬師丸、広末親子が、国が800兆円もの借金を抱えてしまった2007年から、1990年にタイムスリップして、バブル経済の崩壊を食い止めようとするが、・・。

 バブル絶頂、狂乱の1990年、その後の長く暗いトンネルが今に至るも続くとは、当時の誰が想像できたであろうか。銀行が倒産するなんて誰も考えたことのない時代であった。

 脚本の発想には、意外性が感じられたが、残念ながら、経済社会を丁寧に説明するわけでもなく、思いっきり笑いをとるコメディでもなく、テーマが散漫で全体にしまりのない描写であった。パロディっぽい風俗描写による1990年と今の対比は、それなりにリアリティがあったが。

 それにしても、この国は「平成」(1989年)からあまりいいことがない。国の勢いを失い続けている。この先、どういう運命が待ち受けているかは、今を生きている我々にはわからない。17年後の2024年から、今がどういうように見えるだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平凡な火曜日

2007-02-06 20:06:52 | Weblog
 仕事のあと、体育館でひとっ走り。いい汗をかいて帰宅。

 シューズと手袋とリュックがミズノ、ジャージとウインドブレーカーがアシックス、ジャンバーと毛糸の帽子が、カッパ。何と、一貫性のないことか。



 昨夜は、友人と深夜の大激論。

A:暖冬で異常気象だ。地球温暖化対策は、今、一番重要な問題である。
私:そんなのは、交通安全運動みたいで、誰も反対しないようスローガンで、実効性のない自己満足の運動じゃないか。暖冬は楽でいい。大歓迎。

A:じゃー、経済の格差問題か。
私:格差ではない、「貧困」問題だ。社会は、貧困を克服したように一時的には思ったかも知れないが、ここに来て「貧困」が現実の問題になっている。
A:ソ連の崩壊が影響している。社会主義体制には様々な問題があったが、資本主義に対するけん制になっていた。資本主義が本性を剥き出しにしている。
私:ソ連の崩壊を諸手を挙げて歓迎すると言う声明を出した党があったよね。

私:イスラエルのイラン攻撃の暴走によって、中東で第3次世界大戦に発展する可能性があり、これが当面の重要な問題ではないか。
A:核兵器の1つや2つが使われるかも知れないが、人類も知恵を身に付けているから、もう再び世界大戦になることはない。

A:団塊の世代の退職で、彼らの給与所得が激減する。地域の経済に与える影響は重大だ。
私:所得税が減るのに、高齢者福祉に益々お金がかかるようになる。このギャップを埋めるのは、間接税(消費税)しかないのに、政党は選挙を怖がってはっきり言わない。

(一部改訂しました。)


 



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平凡な日曜日

2007-02-04 20:07:29 | Weblog
 別府大分毎日マラソンを観て、いても立ってもいられなくなり体育館に行く。なぜか、今日はランニングをしている人が多い。私と同じように走りたくなった人たちなのだろう。

 朝から、断続的に読書、これからは、1ヶ月ほどたまった新聞の整理。



 今、アラブ世界のヒーローは、アラファトでもビン・ラディンでもなく、レバノンのヒズボラ書記長のナスララなのだそうだ。

 ヒズボラの後ろ盾は、イラン、昨年、ハマスがイスラエル兵を拉致、同時にヒズボラ(民兵)がイスラエルを攻撃。ユダヤ人は逃げてしまってイスラエル北部の人口は半分に。

 イスラエルをやっつけたナスララは、英雄に。しかし、夏には、イスラエルがレバノンを攻撃ときな臭い。

 中東では、大規模な戦争の可能性が高まっている。イランが核兵器を保有した瞬間、イスラエルは暴発、イランを攻撃するだろう。イランは、ヨーロッパでテロを始動。イスラエルとの関係を絶つことをせまる。

 イスラエルは、対外関係を断たれれば、半年で崩壊。まさに泥沼に。(中東観察者情報)




 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家、家族の崩壊

2007-02-03 20:13:47 | Weblog
 札幌地下鉄大通駅 菓子類の消えた不二家レストラン

 片桐幸雄著「グローバル市場と国家の現在」(「市場経済と共同体」降旗節雄編著 社会評論社 2006年刊所収)には、

 「人類の歴史は共同体を市場が蚕食していく歴史であり、現代はその蚕食が最終段階であって、グローバル化した市場は、二つの最後の共同体である国家と家族ーそれは資本主義が拠って立つ共同体でもあるーをも崩壊させ、そのことによって資本主義そのものを変質させている」

 との、降旗教授の歴史観が紹介されている。



 国家の崩壊は、この論文の中でも触れられているが、多国籍企業や国際金融資本の国家の枠組みを越えた行動様式から、容易にイメージできる。

 さて、「家族の崩壊」についての私なりの解釈ですが、利潤を追求しなければならない資本は、常に需要を創出し続けなければ行き詰ってしまう。

 一昔前までは、一家には、一台のテレビ、一台の電話、一台の自家用車・・であり、家族が全員でテレビを見たり、食事をしたり、移動していた。また、ひとつしかないものは、交代で使わざるを得ず、そこには、コミュニケーションが必要であった。

 近年は、核家族のうえに、テレビも、携帯も、車も一人一人が所有できるようになった。物を売る需要としては、何倍にもなったことになる。その結果、行動は、家族単位から、個人単位へと変化した。

 社会現象として、今までありえなかったような様々な家族を舞台とした事件が起こっている。その、基底をなすところに、このような資本の本質的な動きがある。

 某保守政党の「家庭の復権」のような主張は、今さらありえないことであるし、本気で家族を再構築するためには、資本主義を否定しなければならないということになるのではないか。



 吉田拓郎の歌詞にも、
「マイファーミリー、マイファーミリー、愛を残して旅に出ようよ♪」
「家族を乗り越えたけれど、心が痛むよう、心が痛いよう♪」
 とある。

 
 



 

 
 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする