晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『政権交代の政治経済学』 その3

2010-11-29 20:14:59 | Weblog

 寺田屋にある竜馬の肖像画です。ついに、大河ドラマ『竜馬伝』が昨夜で終ってしまいました。最終回で竜馬に「将来、蝦夷地を開発したい」と言わせていましたが、生きていればどうなっていたでしょうか。

 

 歴史に「たら」「れば」は無いのでしょうが、首都が札幌になっていたり、北海道が独立国になっていたりと、今と違った北海道になっていたかも知れません。

 

 

 私は、2010.11.6の当ブログ「現在の立脚点 その1」で、このように書きました。

 

「それは特に政治や経済、社会に関することだが、それは既に修復が不可能なほど劣化が進み、何をしても有効な対策にならない地点に達しているのではなかろうか。反対に、様々な局面において、これからの未来社会の形状を示す兆候や萌芽がありながら、私たちは鈍感なことにそれに中々気付いていないのではないか。」

 

伊東氏が本書で語る「期待と現実」は、まさに上記のことを示しています。自民党でも上手くいかない、民主党に変わっても上手くいかない。誰がやっても上手くいかないのは、そもそもシステム自体に大きな欠陥ができてしまっているからです。

 

国政を担う政治家とそれを選ぶ国民が、国家というシステムの水面下で進む変化に対応できなくなっています。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『政権交代の政治経済学』 その2

2010-11-28 14:26:53 | Weblog

 何週間ぶりに何も営業の無い休日になりました。朝から本を読んでいられる幸せを感じています。

 

 

 会社の仲間が働いている時に休むってのは、悪いなという気持ち(完全に会社人間と化している自分)と、これこそ格別の味わいだという気持ちが入り混じります。という感じの「小樽」でした。 

   

 

 『政権交代の政治経済学』 その2

 

 冴えない表情が続く菅首相ですが、躓きの第一歩は、就任早々の参議選冒頭での消費税増税発言でしょう。理論的には間違ったことを言ったわけでは無いのですが、選挙という闘いの場で、選挙民の感覚とずれた痛恨の発言だったと思います。その原因を、伊東氏は以下のように説明します。(P185より引用)

 

 「私は、これを聞いて、市民運動出身の首相の欠点が出たと感じた。・・(菅首相は)庶民が市民であるという幻想にとりつかれているのである。理性と知性を持ち、自らの足で立って考える市民であったならば、正しいことを理解しよう。だが、大衆社会の中での庶民は、理性や知性の上に立ってはいない。マスコミや感情によって大きくゆれるのである。」

 

 その点、小沢一郎はドブ板政治を経験しており、庶民感覚を身につけていると。

 

 衆愚感覚が鼻につくとても嫌な発言ですが、私も、人間は出自では無い、その後の経験から何をどう身につけていくかだと思います。

 

菅は、普通のサラリーマン家庭の出身を売り物にしていますが、新聞の首相動静欄における毎日の食事ぶりから、とても庶民感覚は窺えません。一方、小沢は、二世議員である、かつ建設会社を経営する家庭の娘と結婚しており、金に不自由する環境にありません。

 

 

 マスコミでは扱われていませんが、伊東氏が政権交代に期待したもうひとつのことがあります。(P4より引用)

 

 「公明党が与党に執着し続けた大きな問題である。落合博美『徴税権力―国税庁の研究―』(文春文庫、2009年)の第八章「国税対創価学会」は創価学会の税金問題にふれ、「公明党の政権入り直後の2000年頃、国税庁は重大な方針変更を行なっていた」・・与党ゆえにか、創価学会への税務監査が行なわれなくなったのである。1990年、91年、創価学会への脱税調査が行なわれ、問題が明るみに出た時、公明党は野党であった。」

 

 現在の菅民主党政権が、これを武器に参議院での多数派形成のために、キャスティングボードを握る公明党に恫喝をかけるような勢いは感じられません。公明党も、菅政権の命脈を見限っており、安易な選択をするはずがありませんが、政界に潜む時限爆弾としては面白い指摘だと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『政権交代の政治経済学―期待と現実』  その1

2010-11-27 17:30:15 | Weblog

苗穂付近に用事があったのですが、いい天気に誘われて「小樽」まで行ってしまいました。幸寿司、館のケーキといういつものパターンですが。

 

 

韓半島情勢が緊迫しています。民主党政権は、今こそ国際社会に対して双方の挑発的行動をたしなめるメッセージを発するべきです。

 

 

『政権交代の政治経済学―期待と現実』(伊東光晴著 岩波書店 2010年刊) その1

 

 伊東氏は、1927年生まれの老経済学者です。その主張は、マルクス経済学のようにラディカルではありませんが、リベラルなバランスを持っており、私は様々な現実的判断の指針として40年近く追いかけています。

 

 20099月の政権交代から1年余、氏が民主党政権に期待し、その現実に失望しながらも、少しの希望を持っていることが伝わってくる著作です。

 

(期待)民主党政権は、自民党の失政のおかげで政権を手にしたのですが、そのマニフェストは、整合性を欠いたよく張ったものでした。八ッ場ダムに代表される公共事業の見直しと政管癒着構造の解体、労働者派遣法の改正などで格差社会を是正、官僚依存を脱却した政治主導、普天間で象徴される対米従属から対等外交へ、事業仕分けで政策の透明性を・・・

 

(少しの果実)沖縄返還をめぐる日米密約の存在が明らかに!しかし、それに対する岡田外相のノー天気なコメント「外務省にはそのようなものは無い」と。あなたは、自民党の外相でしたっけ?

 

(現実)八方ふさがり、迷路、卍固め、ニッチもサッチも・・ご覧のとおりです。ピントの外れたコメント、自滅型の対応、是非は別として、自民党の方がダーティで大雑把だったけれど、安心感があったというのが庶民の感覚ではないでしょうか。

 

(少しの期待)伊東氏は、与党内にいる人材に期待を表す。第1世代の小沢一郎、渡部恒三、亀井静香、横路孝弘、江田五月、西岡武夫らで、時代遅れだが政治感覚を持っています。

 

 第2世代は、菅直人、鳩山由起夫、前原誠司、岡田克也、仙石由人ら現在の閣僚級は、政治感覚がダメ、官僚に対して能力が無い(前原を除く。)とします。

 

 第3世代には、社会的経験と実績、国際的な視野を持っている実力者がいる。福祉の山井和則、農林の篠原孝、自治の逢坂誠二などに期待を示しています。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ひとり 沈黙も言葉 15歳の寺小屋』

2010-11-23 10:02:22 | Weblog

『ひとり 沈黙も言葉 15歳の寺小屋』(吉本隆明著 講談社 2010年刊)

 

 本書は、講談社創業100周年記念企画の「15歳への寺小屋授業その実録」シリーズの中の一冊で、吉本氏のほか、日野原重明、三國清三、益川敏英、小菅正夫、令丈ヒロ子、金田一秀穂、石黒達昌、茂木健一郎、安岡定子ら著名人が寺小屋の先生になり、15歳の子どもたちに語りかけた記録です。

 

 その道で何かを成し遂げた人から直接話を聞く経験は、ずっとその子たちの記憶に残るでしょう。有意義な企画と思います。

 

 吉本氏の講義は、6回にわたり、1時間目は「ひとりってのは悪いもんじゃないぜ」、2時間目「才能って何だろうね」、3時間目「人生にどっちが正解ってことはないんだぜ」、4時間目「特別授業」、5時間目「恋愛って難しい」、6時間目「大人になるってどういうこと?」と題されています。

 

 吉本氏は、今まで氏が発言してきたことと同じ主旨のことを丁寧に子どもに語っています。時々氏が発する、「よせやい!」という言葉は、世の中の常識から氏独自の視点への転換の言葉です。果たして子どもたちがそこからどこまで感じ、どこまで伝わったかはわかりません。

 

 しかし、例えば、「ひとりってのは悪いもんじゃないぜ」といわれると、子どもたちの中にある、不登校、引きこもりなどは問題で、仲間や友だちづくりが無条件で良いことだという既成観念に少し疑いが生じるでしょう。

 

 物事を考えるためにはひとりになることが必要なのだ、だから、ひとりぼっちは悪いことではない、と語られることから少し勇気も出るのではないでしょうか。

 

 子ども向けの本であるが、改めて私自身も「ひとりを噛みしめる」ことの大切さを学びました。何かを考える場合、頭の中だけでは中々整理されるものではありません。文章化する中でゆっくりと深く考えることができます。文章を考える時は、ひとりになる必要があります。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザ・ニュースペーパー札幌公演 2010秋  

2010-11-14 14:28:58 | Weblog

 

 

小ぜわしく過ごしていると感じています。昨日も今日も午前中は営業、昨日は午後からNP鑑賞と時間が不足気味です。このレベル、大忙しの人から見ると「何言ってやがる!」と思われることは承知です。

 

これをして、次にあれをしてなどと順調にこなせることもあれば、何をしようかと迷う時もあります。でも、時間が余ってどうしようもないということは皆無だと思っています。暇つぶしという言葉は自分の辞書にはありません。だからといって、有意義な時間を過ごしているかどうかは別問題です。

 

あっという間に一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一年が過ぎていくように感じます。時間は、時々刻々動いているのでしょうが、私自身の立ち位置はあまり変わっているようには思えません。何かをして、何かを感じて、何かを考えているのですが、成長するとか、変化するとか、中々実感することは難しいことで、いつも同じような場所に立っているように感じています。

 

 

ザ・ニュースペーパー札幌公演は、年2回が定例化しています。その折々の最新ニュースを題材に笑いで斬って見せます。

 

毎回新しい話題をまな板に乗せていますが、彼らの芸はある意味古典芸能の域に入り始めていて、パターン化しています。昔の予測できない展開からの笑いが減り、いつもの通り予定調和的な笑いに堕しています。

 

確立したものをもう一度壊す必要がある場合があります。どれほど今がベストに思えても、もう一度捉え返して見れば、新しい質を発見する可能性があります。今のままでは何も変わりません。

 

今が、それなりに平和で、それなりに貧しくなくて、それなりに生きがいややりがいを持てて、それなりに評価されて、それなりに良いと感じている、・・・そういう人々に、そういう部分も合わせ持つ自分も含めて、もう一度現状を壊す必要性を伝える術を獲得しない限り、変革を唱えても絵空事に終わるでしょう。

 

会社で、社会で、組織の中で常識的に振舞っている人々、町内会、ボランティア、民生委員さん、地域の中で世話好きな人々・・これら、現状保守主義をベースに持つ、善行、善人集団に伝わる思想の獲得が課題です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現在の立脚点 その2

2010-11-09 20:30:25 | Weblog

 京都伏見寺田屋で竜馬が襲撃された時に、竜馬の妻、お竜(りょう)さんが隠れていたとされる風呂桶です。

 

 

 

その2

 

 近年、日米で政権交代があった。オバマ、鳩山、菅・・誰が政権を執っても政治も経済も容易には変わらないことに対して、民衆のいらだちと不満が蓄積してきている。

 

 現在の我々は、国家を以ってして国家を変えることのできない情況に直面しているのではないか。国家機構が腐朽し、備縫策的な処方箋は無力化している。

 

 また、国家・国民、国土・国境、国語・国史(日本史)、国旗・国歌、国会・国権・・など、我々は「国」を単位とした思考に慣らされてきた。ひとつの思考実験をしてみる。仮に、頭の中から「国境」という概念を消去した場合、北方領土、尖閣、竹島などで一喜一憂している世の中が別の風景に見えてくるではないか。

 

 国家に連なる権力の無力化を構想しよう。国家への委任や依存心を断ち切ろう。国政の混乱は冷ややかに眺めよう。と格好よく提示します。

 

 さて一方では、各人が保有している「内なる権力」をどうするかという深刻で悩ましい問題がある。家族内で、会社内で、組織内で、社会において生きていく際に、それぞれが個人や集団に対し、意識し、また意識せず行使している権力をいかに制御するか。我が内なる権力をどう折りたたむかも課題である。

 

 もうひとつの社会のあり方として、自立、自助、相互扶助、共生などの概念が提示されており、これらを豊かにしていかなかればならないと考えるが、エゴとわがままの塊である私自身がそもそも相互扶助や共生などという考え方を受け入れることのできる人間なのかという問題もまた大きく横たわっている。

 

 後者の問題の解決無くしては、オルタナティブの構想と実行ができたとしても、悪しき歴史の繰り返し、権力を以ってして権力の変革はできなかったということの再現になることは容易に想像できる。

 

 

 

 「転向」という言葉は、左翼の中では特別に否定的な響きと共に裏切りを意味する。一方で「進歩」という変革を意味する肯定的な表現もある。今までの自分の考え方を変えることは、自己変革のために必須なこととわかっているが、自己否定をも含むのである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現在の立脚点 その1

2010-11-06 10:00:14 | Weblog

昼間の京都先斗町を歩いてみました。店は閉まっていてひっそりとしていました。京都先斗町に雪は降るのでしょうか。


 『現在の立脚点』 その1

 

 私の寿命が尽きる頃から現在を見た場合、あと20年から30年くらいあればいいのだが、私も含めて「今、ここ」を生きている人々が期待や関心を持ち、その動向に一喜一憂している事柄、それは特に政治や経済、社会に関することだが、それは既に修復が不可能なほど劣化が進み、何をしても有効な対策にならない地点に達しているのではなかろうか。

 

 反対に、様々な局面において、これからの未来社会の形状を示す兆候や萌芽がありながら、私たちは鈍感なことにそれに中々気付いていないのではないか。

 

 例えて言うと、幕末の志士達、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が佳境に入っているが、坂本龍馬などは幕府と藩に対して異国という概念は持っていただろうが、この国、日本という概念をどこまで持ち合わせていたのか、ドラマで「ニッポン、ニッポン!」と叫ばせているのは、現在に合わせた後付けの台本であろう。

 今の日本という観念は、明治になってから天皇を中心とした国民国家という擬制を作り上げた結果であり、龍馬の時代は「脱藩」<脱国家>までが限界であったと考える。

 

 さて、我々の「今、ここ」に戻ると、我々の現在も国民国家という擬制の延長線上で考えているが、今必要なのは<脱国家>、国民国家の枠組みを超えて考える必要があるのではないか。

 

 未来社会の可能性は、より広いレンジで捉えると「世界市民による世界共和国」(グローバル)、もっと身近な地域における人間と人間の関係の再構築「アソシエーション(協同)社会」(ローカル)から構想できるか。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『マザーウォーター』

2010-11-03 13:07:53 | Weblog
 『マザーウォーター』(松本佳奈監督 2010年パセリ商会作品 札幌シネマフロンティア 10月30日公開) 
 映画観るのは久しぶり。戦争、時代劇、アクション・・色々な作品が上映されている。宣伝文句で特にストーリーが無い映画という所に魅かれて観ることに。

 私は観ていないが、「かもめ食堂」「めがね」「プール」に続く同一のプロジェクトの手による作品だそうだ。固定ファンを持っているのだろう、館内は満員に近い賑わい。

 京都の一角にやってきた3人の女性のフツーの日常を坦々と描く。小林聡美はウィスキーしか出さないバーを、小泉今日子は喫茶店を、市川実日子は豆腐屋をそれぞれ営む。
 最初は何の関係も無かった登場人物たちが、暮らしの中でそれぞれ関わりができ始める。ただ、それだけ。

 語らない過去、踏み出せない未来を感じさせるが、この映画は強いメッセージ性を発しない。しかし、それが、今の押し付けがましいことが多いドラマや映画に対する強いアンチテーゼになっている。

 私は、これは現代の小津安二郎作品だと思う。特に出来事も起きず、日常会話が交わされる中、その時代のテーマが描かれていく。1シーンが長いのも良く似ている。

 映画は、何事も無く突然終るのであるが、何か背中を押してくれるような余韻が残る。

 「かもめ食堂」他も観たくなった。お薦めの秀作である。

 

 
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする