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晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『方法としての吉本隆明―大和から疑え』 その3   

2012-08-27 20:04:34 | Weblog

 幣舞橋のたもとで、「くしろザンギ王決定戦2012「というイベントが大勢の人を集めて開催されていました。16店が参加していて、その選考は、食べた人が自分の使った箸を美味しかった店のボックスに投票して決めます。私は、レモン味のザンギを選びました。釧路がザンギの発祥の地だとは知りませんでした。

 

 『方法としての吉本隆明―大和から疑え』 その3   

 古代史に詳しい知人から室伏氏の言説について、コメントをもらったので以下に紹介する。

 「このような考え方もあるのかと思いました。理論展開に文献学上の根拠が全く示されないため、話しが恣意に流れていると思います。九州に邪馬台国、倭国説は学説として古田武彦さんの他の方も出されています。

 古墳開始年代は、現在3世紀後半から中葉まで早められています。(白石太一郎)橿原市山辺の道周辺にある箸墓古墳は卑弥呼の墓ではと言われており、この古墳群と九州王権のあり方の問題が諸説粉々です。

 白村江の戦いも日本書紀をまったく無視していますし、高市皇子にしても、子どもである長屋王家との関係から、無理な解釈と思われます。

 また、神々についても、天孫降臨神話、出雲神話がなぜ日本書記や古事記に登場しているのか、その伝承の担い手と大和朝廷の関係等分析が必要です。

 ただ、通説に対抗していますので、こうした展開になるのかもしれません。」

 最後の一説、室伏氏の言説は、「通説に対抗している」。この部分が、私が室伏氏に魅かれた要因であるとともに、私が異端でドグマチックな考え方に大変弱い(はまってしまう)点をズバリ言い当てていると思う。

 知人からの指摘に答えるには、私自身もう少し古代史の本質を学ぶ必要があると思う。

 

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スパカツバーガー

2012-08-26 17:28:46 | Weblog

 モスバーガーのスパカツバーガー。レストラン「泉屋」(釧路)のスパカツをバーガーに取り入れたとのこと。期間限定。ミートソースの味は、本物と少し違う。それと、久しぶりにモスに行ったのと、超空腹だったのでバーガーのボリュームが小さくなったような気がした。

 

 『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(マーティン・ファクラー著 双葉新書 2012年刊)

 リンクしている愛犬家氏のブログで紹介されていたので読んでみた。筆者は、ニューヨークタイムス東京支局長で日米の新聞、記者の比較をしている。

 私は、日本で伝えられていない何か新たな真実があるのかと思って読み進めたが、その点では得るべきものは無かった。

 著者は、日本の大手新聞記者の厚遇とジャーナリスト魂の欠如を指摘する。また、日本独特の記者クラブ制度を批判する。この点でも、特に新しい視点は無い。

 私も一刻も早く記者クラブを解体するべきであると考える。記者クラブに加盟しないとニュースソースを得ることができない。記者クラブに所属できるのは大手マスコミだけ。様々なメディアの手法が開発されているが、この情報独占がある限り、この業界への新規参入は難しい。

 

 本書の中でも触れられているが、北海道新聞が道警の裏金を報道しながらも、最終的に屈服したのは、道警によるニュースソースの兵糧攻めであった。では、読者は、道新を止めて他の新聞を読めばいかというと、他紙も記者クラブ発の情報ベースに拠っているため、選択肢は無い情況にある。

 

 

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『教育における自由』ノオト その3

2012-08-25 21:08:54 | Weblog

 パティスリーぷちどーる(宮本町店)の生ドーナッツRing-Ring、ドーナッツのようでドーナッツとは全く違う。すごく柔らかい。冷やすと一層美味しい。ドーナッツの形をしたムースか。今まで食べたことの無い食べ物と遭遇した。(北海道釧路発)

 

 1960年代、自分が小中学生の頃、先生たち(北教組)と国(文部省)の対立が様々な場面であったことをおぼろげながら覚えている。「教え子を再び戦場に送るな」をスローガンに先生たちは、文部省が進めようとした道徳の時間の設置や全国一斉学力テスト、教科書検定などに反動教育として反対し、頻繁にストライキなどを実施していた。ストに参加している担任に代わりに校長先生が授業に来た記憶がある。

 一方、当時は「親・子ども対学校」とか、「親・子ども対教師」というような対立は表立って無かったと思う。私の場合、中学校での教師からの体罰など日常的な出来事であったが、自分の親たちも、「悪いのはうちの子の方だからもっと怒ってくれ」といい問題視することなどは全く無かった。

 しかし、1970年代に入り、学習指導要領の徹底や教科書検定、主任制の導入など国(文部省)から学校現場への締め付けが厳しくなり、文部省→都道府県教委→市町村教委→学校という上意下達が徹底されたのだと思う。そこには従来からの「国対先生たち」という対立軸に、新たな「親・子ども対学校・先生たち」という対立軸が生じた。その極端な例が「自分の子どもだけは特別にしてくれ」というような個の要求(不当要求)を行なうモンスターペアレントの出現である。

 そのような情況では当然、先生たちの行動や言動は萎縮してしまう。「もっとうちの子をしかってほしい」というような親はいなくなる。消費者主権、お客様は神様、国民、道民、市民の声は聞かなければならない。どんなに理不尽な要求であっても親の声に耳を傾けなくてはならないからだ。

 現在、いじめ問題などの解決が難しくなるケースが増えているのには、このような背景があるからであると思う。

 さらに、教育の外の世界で傷害事件などが起こった場合は、法の定めによって裁かれるというシンプルなルールがあるが、一旦教育の内部でいじめなどが起こった場合は、先生たちから見ると、被害者、加害者ともに教え子であるため、守らなければならない対象と考えるところが解決を難しくする原因ではないか。極端に言うと、警察に突き出すようなことはできないのだと思う。それが、外部から見ると学校が真相に蓋をしているように見える理由ではないか。

 

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『方法としての吉本隆明―大和から疑え』 その2

2012-08-17 20:53:14 | Weblog

 『方法としての吉本隆明―大和から疑え』 その2

 「君が代」の起源

 古田武彦は、「君が代」は3世紀倭国=九州王朝における博多湾岸とその周辺の神名や地名、神社名に根ざした邪馬台国の歌とした。藤田友治は、「君が代」挽歌説を唱え、「永遠に長生きして下さい。だが真実は『君』はこの世にいない。この悲しい現実から、死者である、『君』の再生、復活を願う」との意味であると解釈した。

 日本古代史における南船北馬(南船系と北馬系の確執)

 天国からの天神降臨や天孫降臨は、それまでの長江下流の江南からの渡来人である南船系倭人の王権(匈奴国)に替わる北方騎馬民族王(邪馬台国)が倭人社会に君臨した征服国家の出現を告げたものである。北方騎馬民族の扶余族の辰(秦)王朝の本系で伽耶王の流れの者が、壱岐(天国)から筑前に天孫降臨し、筑紫王朝(倭国本国)を形成した。

 神武東征は九州内部の出来事で、その結果、倭国=九州王朝が、筑紫王朝から豊前王朝(倭国東朝)へと拡大し楕円国家に進展した。それは、本朝の「倭の五王」の出現で絶頂期に達した。しかし6世紀初頭における磐井の乱で筑紫王朝の武王亡き後、覇権は豊前王朝(北馬系)の継体天皇に移る。これは、北馬系(百済)と南船系(熊襲)の合体政権から南船系が排除されたことを意味する。その後の歴史は、白村江の戦い以降「その1」で記したとおり。

 その後、「君が代」は、主流から排除された南船系の中で引き継がれたが、奈良時代は、南船系天武を戴くかに見えて、持統、天智(北馬系)を戴く北方原理主義の藤原王権であった。このため、『万葉集』に「君が代」は採取されていない。その後、平安時代にあって第2万葉集である『古今和歌集』に「君が代」の原型とされる「我が君」が採取された。その背景には、南船系勢力の隠然とした力が働いていたためである。

 歴史は進むが、著者は、平安時代末期、武士の台頭における源氏と平氏に二分された裏にも、南船北馬の流れがあったとする。

 幕末討幕派の南船北馬

 薩摩は隼人の中心で、南船系天武を支えた新羅(伽耶)王権派の追放地であった。長州は、豊前王朝(倭国東朝)の域内にあり百済系王権(北馬)の領域にあった。坂本竜馬が西郷隆盛を薩長同盟に翻意させたのは、「長州はすでに南朝の天皇を用意している」の一言であった。

 朝敵の歌「君が代」

 明治3年、国家儀式の必要から「天皇に対し奉る曲」を選曲したのが大山巌(後の陸軍大臣)であったが、氏は薩摩藩の「蓬莱曲」から歌詞を取り、藩軍楽隊長のフェントンに編曲させたが不評であったので、再度宮内庁はエッケルトに編曲させ、明治13年(1880年)宮中での天長節に演奏させたのが「君が代」の最初であった。

 明治15年(1882年)に国歌制定の動きがあったが、明治国家の権力中枢には「君が代」を国歌として制定することに反対であるという強い意志があったと思われる。

 時代が進み、1997年7月の「君が代」の国歌制定は、現在の権力が歴史的由来の認識を持たず、かつての朝敵の歌を国歌とした、という意味を持つ。

 明治10年(1877年)西南戦争での西郷の敗北は、明治政府において北馬系(百済)優位が変わらなかったことを示している。

 

 

 

 

 

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『方法としての吉本隆明―大和から疑え』 その1

2012-08-15 16:42:43 | Weblog

 『方法としての吉本隆明―大和から疑え』(室伏志畔著 響文社 2008年刊)

 著者の室伏氏は、吉本隆明の歴史認識方法論であるグラフト(接ぎ木)国家論に拠る。すなわち、横合いから既往の国家を力でねじ伏せた勢力が、その共同体が保持していた共同幻想を、それ以前から我々こそ保持していたと擬制する、この方法論に基づき理論を構成する。

 著者は、万世一系の天皇制を共同幻想として疑う。

 大和朝廷(日本国)に先在する倭国=九州王朝説(遠賀川上流の筑豊)は、1970年代初頭における古田武彦の業績であった。神武東征は、倭国=九州王朝内における糸島郡の天孫降臨地から遠賀川上流の筑豊への東征事件であるが、記紀(8世紀初頭)は、それ大和朝廷以前の大和史を隠蔽するため瀬戸内海経路を加え近畿大和へのものとして造作した。

 倭国(九州王権)から日本国(近畿)への転換。

 660年百済滅亡、663年白村江の戦いで百済の復興を目指した倭国は唐・新羅軍に敗戦、倭国=九州王朝の解体が始まる。664年唐の倭国占領政府(筑紫都督府)が大宰府に置かれ、その圧制の下、天智(百済系倭王権)は、九州から近江大津に逃亡し667年近江朝を開く。672年壬申の乱で新羅の支援を受けた天武が天智に勝利、大和勢力の物部氏に迎えられ飛鳥に大和朝廷を開く(大和勢力)。しかし、686年天武崩御、天武の後継者大津皇子の「刑死」(朱鳥の変)は百済系による大和勢力を一掃するクーデターであった。持統のもと大和朝廷は九州権力に変質する。

 701年大宝律令の発布により、既往国家の共同幻想(法、習慣、習俗)を簒奪編纂(グラフト)し新生日本国が誕生した。

 この間、倭国祭祀の中心であった九州大宰府天満宮は倭国の存在の証拠を隠滅するため廃神(平安時代に菅原道真を新祭神として復活)された。

 著者は、以上のようなこの国の歴史への朝鮮半島国家間の影響に加え、南船系文明(長江)と北馬系文明(黄河)の影響についても重層的に述べている。私は、以前このブログで「現在の国歌の正当性に疑問が浮かんでくるのである。また、その仮説は、明治維新の薩長同盟を成し遂げた坂本竜馬の秘密を解くことができ、さらに、この国の底流に現在でも流れている可能性があり、政治家はその出自で既に運命が決まっているのかも知れないという何とも興味が尽きないものなのである。」と述べた。(2012.6.10「室伏志畔」)

 また、著者は、戦後歴史学は、記紀をベースとする皇国史観(神話的世界を含む)を捨てた結果、記紀以前の史実そのものも捨て去ってしまったと批判する。

 

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『教育における自由』ノオト その2

2012-08-14 21:13:49 | Weblog

 お盆の長距離ラン(22km)感想。スポーツ用品の性能は日進月歩、一昨日購入したひざ下までのランパンを初着用。汗がいち早く外に排出され、乾きも早いので、ベタベタ感が無く、膝、腰周りの生地の弾力性も適度で履き心地がグッド。

 月刊『情況』別冊吉本隆明追悼特集を探して、5軒目の三省堂でようやく購入。紀伊国屋書店、ジュンク堂、リーブルなにわ、アテネ書房いずれも品切れ、そんなに売れる本とは思わないが、なぜか品薄情況らしいっす。

 夏至の時は真上から太陽が当たっていたが、8月も半ば、太陽が低くなってもまだ日差しは強く、まともに身体が焼かれるので熱中症に注意。私は、一度ひどいのをやっており、そういう人は頭の中の回路が壊れていて熱中症になりやすいとのこと。

 

 『社会変動と「教育における自由」』 ノオト その2   

4 親の位置

 1970年代、それまでの「国家 対 教師・親」という構図とは別に、「学校・教師 対 親・子ども」という新たな対抗軸が浮上した。「古い体質の学校」「時代遅れの教師」が、親の側から批判されるようになった。伝統的な「教育政治」構造とは、文部省―都道府県教委―市町村教委―学校という垂直的な教育行政(上意下達による管理統制)の体制、実際には教育委員会、管理職(校長会)、教職員(教職員団体)の間である種の(対立と妥協)教育専門家集団に閉じられたコーポラティズム体制である。1980年代末からは、「父母の学校参加」「学校選択」「学校間競争」が主張されるようになった。

 

5 親のニーズの限界

 ①親や子どもが教育のあり方を自由に選べることに伴う負担や責任の問題。②親の自由は、他者不在の閉ざされた自由になりがちで、しばしば公共性を欠いている。親の「教育する自由」の主張は、親や子どもごとに細分化された個別ニーズに公教育が応えるように要求されるようになった事態を意味する。学校参加は、「多数派の専制」という形で、十分な発言力を持たない親や子どもを抑圧・排除する仕組みとして作動する可能性がある。

 

6 教育の自由をめぐる紛争

 「親の教育の自由」として表明される個々の親のニーズが、どこまで公教育の制度や内容や方法に反映されるべきかという課題。「自由」をめぐって未決定なままにおかれた境界線を確定させる契機が、個々の紛争やトラブルなのである。

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『教育における自由』ノオト その1

2012-08-13 10:57:51 | Weblog

 滋賀県大津市で起きた中学校におけるいじめの問題から、教育が様々に論じられている。確認されない事実がセンセーショナルに報道され、教師、教育委員会の対応が批判されている。

 私は、ここは冷静に、現在の教育が直面している課題や構造を分析するべきであると思う。以下にある一文を見つけた。良く捉えられていると思ったのでノオトを記す。

 

 『社会変動と「教育における自由」』(広田照幸)ノオト:『自由への問い5 教育 せめぎあう「教える」「学ぶ」「育てる」』(広田照幸責任編集 岩波書店 2009年刊)所収論文。

 1 他者の自由を制約する自由

 ①教育は、「強制を通して自律的な存在を作る」というパラドクシカルな営みである。命令・禁止・許可・質問・誘導・説得・観察・評価などの行為は、子どもに対する権力作用である。つまり「教育する自由」とは、子どもの自由を制約する自由である。②国、教育委員会、各学校、教師、親など様々な主体間で「教育する自由」(権限)をめぐる綱引きがなされている。

 2 子どもの自由と不自由

 教育は、未熟な存在である子どもの自由を制約することによって、「自由を行使する主体」を形成する営みである。

 2つの対立する考え方があるがどちらが正しいという結論は出ていない。。①子どもの自由を制約し、何らかの物事を無理にでも学習させることが、自律した主体を作るために必要だ。教育的観点からの強制、すなわち子どもにとっての不自由が、最終的に個人に自由と自律性を与える。②子どもに対する強制をできるだけ取り払い、目の前の子どもを自由にさせることこそが、最終的に個人が自律性と自由を獲得する最善の方法だ。

 3 教育する自由

 戦後のある時期までは、不自由(学校的世界への適応)を通して自由(経済的、知的、道徳的)を獲得するという物語が成立していた。当時の「教育における自由」をめぐる争点は、「国家の教育権」と「国民の教育権」という対立の構図であった。

 1950-1970年代、自由を脅かす潜在的な脅威は国家であると感じられていた。教員の政治的中立、道徳の時間の設置、教育委員会の任命制化、学習指導要領の拘束力、勤務評定・全国一斉学力テスト、教科書検定、校長・教頭・主任など管理職導入などの問題で、中央行政と教員組合が対立した。

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『かぞくのくに』

2012-08-12 21:52:21 | Weblog

 『かぞくのくに』(ヤン・ヨンヒ監督 2012年作品、シアターキノ)   

 朝鮮総連の幹部である父は、かつて16歳だった息子を「地上の楽園」と信じていたかの国へ送った。その息子が病気治療のため25年ぶりに帰国した。帰国中にも監視が付きまとう。監督自らの実体験に基づくストーリー。

 命令にその理由はいらない。命令にはただ従えば良い。あれこれ考えてはいけない。自分が生き残ることだけしか考えることのできない国。圧倒的な権力と相互監視社会の中では、自分を殺して生きていくしか無い。思想、国家、権力、家族、自由、生きるとはどういうことかが問われる。

 権力者や為政者にとって、自己の権力保持、組織の維持のためには、物言わず黙って命令に従う国民、社員、生徒、市民がいいのか。これを他国の出来事としていいのだろうか。私たち自らが所属する組織が、いつのまにか変質していないだろうか。

 監督自身の妹役には安藤サクラ、帰国した息子役には、『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』で三島を演じた井浦新(ARATA)。大変地味な映画だが重いテーマに真正面から取り組んだ秀作だと思う。

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『新しい左翼入門』 その3

2012-08-09 21:08:31 | Weblog

 著者は、左翼には属さないが、左翼と同一歩調をとることの多い「市民派リベラル」と呼ばれる考え方を批判する。それは、「自分自身は世間の主流の比較的恵まれた地位にありながら、被差別、在日外国人、女性、障害者等々の差別されている集団や、近隣諸国に配慮することを求める立場です。」(P211)と規定する。彼らの考え方の特徴として、「資本側対労働側、支配側対被支配側といった階級対立は本質的仕組みとしては意識されず、ひとまとめにして考えられる傾向が感じられます。」(P212)とやや曖昧な表現をする。また、「利害を語ることを、人権を語ることに比べて次元の低いこととして見下す傾向があるように感じられます。」(P212)ともいう。

 「エコロジー」「地球温暖化」・・・などは、「個々人の暮らしの都合に根ざして語るよう余程注意しないと、「悟ったエリート」が「愚かな俗物」に空中法則を押し付ける図式をもたらしがちです。今日の貧困労働者にとっては、環境にやさしいライフスタイルも、身体に安全な食品も、経済的負担になりがちである。」(P212)という。

 今は死語であるが、従来はこのような人々をプチブルと蔑称した。批判的にものごとを考えることができるのには、ある種の余裕、経済的、精神的な余力が必要と思うが、陥りがちなのは、彼らの批判的活動がその意図に反して、真に困窮している人々、行き詰っている人々にとって、権力的になったり、いわゆる上から目線になったりしがちだということである。例えば、大衆に対する前衛(党)、啓蒙活動を行なう市民運動、フクシマ後のにわか脱原発運動、誰しも反対することのできないスローガンを掲げている運動(交通安全、人権、安心・安全、健康、健全育成、環境美化、・・)などに対して、私は同種の臭いを感じる。なぜなら、これらの背後には、「・・でないもの」を差別し排除する構造が潜んでいるからである。

 ここに、吉本のいう「大衆の原像」を現実の中でどう捉えるかという問題が潜んでいる。

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『新しい左翼入門』 その2

2012-08-05 14:39:44 | Weblog

 テレビ番組がオリンピックに占拠され思考停止状態である。定時のニュースまでがロンドンの結果一色である。後から振り返るとこういう時に諸般の事柄が進んでいるというのが私の経験則である。

 

 著者はストレートに左翼の欠陥を「現実の人間を理念の手段として踏みにじってしまう」(P7)と指摘する。抑圧からの人間の解放を理念としながら、その人間を手段としてしか見ることのできなくなる倒錯した意識。これは「疎外」(P31)と言ってもいいだろう。これが、左翼に親和的である私自身も自戒を込めてこのブログで指摘してきた、「自分(たち)だけが正しいと思い込む人(々)」の持つ致命的欠陥である。

 著者は、この国のこれまでの左翼運動の考え方を2つに分類する。①「理想や理論を抱いて、それに合わない現状を変えようとする道」、革命的意識を無知な大衆に外部注入する、いわゆる前衛党理論である。

 この運動には、「中央集権で指導部の意思のもと個々人を束縛する」(P58)、「上からの押し付けが生身の個々人への抑圧になる」(P171)、「現場の諸個人の暮らしや労働の事情から遊離して、理論や方針を外から有無を言わさず押し付けて、現場の個々人に抑圧をもたらす」(P211)などの欠点が指摘される。

 もう一つの、②「抑圧された大衆の中に身を置いて、立ち上がる道」(P31)では、運動に統一性が無いため、「小集団の自主独立を尊重したら、その小集団の内部の個性が圧殺され、腐敗した幹部の独裁がまかり通る」(P58,64)、「大衆の実感に依拠する道は、その実感が、世界に通じる普遍性のあるものか、ある特定の職種なり、ある特定の民族なり、身分なりにしかあてはまらないものかが区別できないという短所」(P105)、「現場の視野が内向きになって外部に配慮を欠いたり、小ボスの利権と支配が発生したりするのを許してしまいやはり人々への抑圧となる」(P171)、「他集団ことを配慮に入れず、外部に害となる集団エゴ行動をとったり、伝統的因習に無反省でメンバーを抑圧したり、小ボスによる私物化が発生したりする」(P211)、などの欠陥が指摘される。

 いずれも「少数者による専制主義、官僚主義が行なわれる」(P65)という危険性を孕んでいる。私がこのブログで指摘してきた「変革の中での権力性の発現」、「自由の孕む他者への権力性」の問題と本書の問題意識が重なる部分が多いのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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