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晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

浜田寿美男 『もうひとつの「帝銀事件」 二十回目の再審請求と「鑑定書」』

2016-05-31 19:28:54 | Weblog

 事情があって9日間、朝はグラノーラに牛乳、昼はコンビニのおにぎり2個、夜は佐藤のごはんと冷凍食品をチンした食事をしていました。そして最後の4日間は、緊急帰釧で走り回り。歩くのがダルイと感じたので、体重を図ったら-2kg、何と体脂肪が17から12に減っていました。

 

 『もうひとつの「帝銀事件」 二十回目の再審請求と「鑑定書」』(浜田寿美男著 講談社選書メチエ 2016年刊)          

 浜田氏の著作について感想を記すのは、このブログ2009.3.15、『子ども学序説 変わる子ども、変わらぬ子ども』(岩波書店2009年刊)以来だと思う。「子ども学」は、氏が専攻とする分野のうち発達心理学の方であるが、本書は、もう一つの専門である法心理学、供述分析の書である。

 本書は、敗戦3年目の1948.1.26に起きた事件であり、平沢被告は死刑確定後1987年に95歳で獄死、その遺志を継いで再審請求を行っていた養子武彦氏も2013年に死亡している。しかし、著者は残された供述調書を丁寧に読み解き、そこに典型的な冤罪の構図が成立していると主張する。本書は、供述における矛盾について論理を負って記述していく内容が主であるため、あまり劇的な展開も無く読むのは少し辛抱を必要とする。GHQや毒ガスの研究をしていた731部隊の関与などを期待したとしてもその部分の展開はない。

 取り調べ時に平沢氏が感じた孤立感、閉塞感、絶望感を、もし自分がそのような情況に置かれたら耐えきれるだろうかと想像する。

 僕の小さい頃の小さな経験で今でも覚えていることがある。小3の時、転校先のクラスでの習字の時間、そこにはもったいないので練習は新聞紙で、清書だけに半紙を使うというルールがあった。初めて担任を持った若い女の先生は、その時ゴミ箱の中に字が書かれた半紙を見つけた。ここから教室の空気が一変する。「これは誰が捨てたの?正直に自分から名乗り出なさい!」

 先生は何回も何回も促す。しかし、誰も名乗り出ない。時間だけが経過する。先生の怒りはどんどん増していく。僕は、こんな程度のことに対して先生がなぜそこまでしつこく犯人捜しのようなことをして、一方的に怒るのかが今ひとつ理解できない。

 とうとう6時間目が終る。ああこれで終りかなあ思ったがまだ続くようだ。子どもたちは、怖くて先生とは視線も合わせず下を向いて手も上げられなくなっていく。もしかしたらあの半紙は僕が捨てたのかもという気持ちが沸き起こる。先生は僕を疑っているのだろうか。でも字体が違うような気もする。

 夕方になって来て、陽は沈み、外はすっかり暗くなり、当時の電気の無かった教室では先生の顔も見えなく、声だけが響いた。「誰がしたの?」何回聞いただろか。早くこんな情況から抜け出したくて、「僕が、やりました」って言ってしまおうかな。でも、言ったら僕だけ残されてそこから延々と怒られるのだろう。じっと我慢するしかない。

 親たちから子どもが帰ってこないという連絡が職員室にあり、後になって知ったが他の先生が教室を除きにくる。助けてほしい。疲れてきた。自分がやったということにしても、具体的にどうやったのか、時間が経ってしまって情況も全然思い出せない。早く家に帰りたい。圧倒的な権力者である学級担任とそれに従うしか術の無い子どもたち45人、子ども一人ひとりの孤立、閉塞、絶望がそこにあった。

 その日は、19時近くになった真っ暗な道を小3の子どもたちだけでトボトボと帰ったのではなかったか。翌朝も取り調べは続いたと思うが、最後にどのように終わり方になったのか、全く覚えていない。

 

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戦後左翼史 その22 1964年④ 4.17スト自己批判 神山・中野除名 中共・インドネシア共産党

2016-05-23 20:14:26 | Weblog

今シーズン、コンサの調子が変です。首位をキープするなんて信じられません。このままいくとは思いませんが、期待を持たせます。チームスポーツは個々の身体能力と共に全体としてのメンタルの部分が大きいと思います。僕のようなニ心のある人間には無理でしょうが。心ひとつに頑張ってほしいです。

 

戦後左翼史 その22 1964年④ 4.17スト自己批判 神山・中野除名 中共・インドネシア共産党

以下、★印は中ソ対立関係、◎日共関係である。

1964.7.16道新 社党使節団(成田書記長団長)・ソ連党中央委が共同声明 平和にための戦いに協力 北方領土、新しい接近はかる 平和条約締結へ

★1964.7.16道新夕刊 ソ連 中共に“警告”書簡 世界党大会 準備会議急ぐ ソ連案どおり26か国で 

◎1964.7.19道新夕刊 ソ連党機関紙が書簡発表(4.18付、7.11付) 関係改善を怠る日共

(参考)部分核停条約反対表明以降、日共は中共寄りの姿勢を鮮明にするととともにソ連共産党とは対立関係に、そのため志賀義雄らソ連派を除名する。

◎1964.7.20道新 日共 ソ連へ返書 根拠のない非難

◎(重要)1964.7.20道新 日共 「春闘4.17スト問題をめぐる総括と労働運動の当面の諸問題」(4.19アカハタ)を自己批判 党の指導は、弾圧、挑発を一面的に強調する誤りをおかし戦線統一を阻害した

*(*は僕の疑問)総評、社会党とともに日共が時間をかけてゼネスト体制の準備を進めてきたのに、なにゆえ日共が中止へと方向転換を図ったのだろうか。見えない大きな力でもあったのだろうか。日共は自己批判で、宮本、袴田ら指導部の中枢が中国に行っていて、幹部不在中の出来事であったという言い訳をしている。しかし、それは誰の判断でどこから指示が出たのだろうかという疑問に答えていない。ゼネストが中止になったことで一番安心したのは池田内閣か、日共と蜜月情況だった中国共産党の関与はあったのか。そして、トカゲの尾っぽになったのが、聴濤克己幹部会員(解任)、竹内七郎書記局員.労働組合部長(解任)、土岐強赤旗編集局長(解任)は、ハノイ駐在員に転籍。しかし、その上の高原晋一は無傷。さらに聴濤は翌1965年に急死している。父の処遇を見ていた息子の聴涛弘がその後日共から参議院議員になったというのも僕には理解できない。

1964.7.20道新夕刊 総評定期大会始まる 新運動方針を提案 冒頭から荒れ模様

◎1964.7.21道新社説 日共の自己批判に対する疑問

★1964.7.21道新 フ首相のポーランド訪問 “東欧再編成”からむ 中共除く党大会を協議  

1964.7.21道新 北ベトナムが提案 米軍撤退など和平実現へ三原則

◎1964.7.22道新 日共 ソ連あて3書簡(1963.3.6、12.22、1964.1.10付)公表 部分核停に強く反論

1964.7.24、25道新 ソ連の静かなる宮廷革命 技術家集団が台頭 “政治”に決定的な役割―ウスチノフ、スミルノフ、ルドネフ副首相 計算づくめの政策―マリノフスキー、スースロフ

◎1964.7.24道新夕刊 日共 抗議論文(7.20アカハタ) ソ連、原水禁運動分裂図る

◎1964.7.25道新 ソ連代表団第一陣が来日 “原水禁運動統一を”

◎1964.7.30道新 原水協主催(日共系) きょうから原水禁世界大会 70か国、9団体が参加

◎1964.7.31道新 ソ連の予備会議招請 “中共破門”のウズ広がる 目的達成は疑問 日共不参加か? 調停に回る国も

◎1964.8.1道新 ソ連系代表 “反ソ派の独占”に抗議 原水禁大会に不参加

◎1964.8.1道新 原水禁大会第2日 役員 中国派が独占

★1964.8.1道新 世界党会議のソ連提案 中ソ対立、新たな段階へ 中国の拒否は予測 国際軌道から除外作戦 中国派:中国、アルバニア、北ベトナム、北朝鮮、インドネシア、日本 不明:キューバ、ルーマニア

◎1964.8.2道新 原水禁大会で声明採択 ソ連系代表を非難

1964.8.2道新夕刊 原水禁国際会議 決議採択し閉幕 “米帝国主義”と闘う

1964.8.4道新 京都と広島で原水禁大会 議長団に岩井氏ら

1964.8.4道新夕刊 フ首相 部分核停1周年で言明 独問題の解決を

1964.8.6道新 原水禁世界大会閉会総会 米軍(ジョンソン大統領)の軍事行動(北ベトナム)で緊迫 非難決議を採択 北ベトナム代表 連帯強化を訴える

1964.8.9道新夕刊 ホー・チミン北ベトナム大統領 軍に戦闘準備要望

★1964.8.11道新 米の北ベトナム攻撃 中ソ関係にどう響く 中国、反ソ宣伝へ ソ連の発言力弱まる

1964.8.16道新夕刊 フ首相語る 戦時の核使用禁止 首脳会談を歓迎

1964.8.17道新夕刊 フ首相 キプロス問題で警告 内政干渉やめよ 爆撃で紛争解決できない

1964.8.21道新 フ首相 新農業政策発表か 給与制度を全面改革 

1964.8.22道新夕刊 トリアッチ伊共産党(170万人)書記長死去

★1964.8.23道新 トリアッチ書記長の死 中ソ対立にも影響 暫定後継者はロンゴ氏か

1964.8.24道新 社党社会主義理論委(鈴木茂三郎委員長)が結論 平和的移行を強調 構造改革論には触れず

◎1964.8.24道新夕刊 日共発表 11月に第9回党大会

◎1964.8.26道新 日共 志賀問題で規約違反と中野重治らを処分、神山茂夫中央委員を権利停止処分(3か月) 佐多稲子、国分一太郎、渡部義通を除名処分

(参考)8.23~8.27第10中総における処分。これより前の7.13~7.15第9中総で、宮本、野坂、袴田.西沢(隆).川上.金子.多田らが神山、中野を批判。その後9.25~9.30第11中総で志賀、鈴木に続き神山.中野が除名される。

1964.8.27道新 伊共産党書記長にロンゴ氏

1964.8.29道新夕刊 中国 技術者追放に怒る モンゴルに経済制裁

1964.8.30道新 各国共産党の指導者 後継めぐる波紋 チトー、ユーゴ大統領⇒ランコビッチ副大統領 毛沢東中共主席⇒劉少奇副主席、フルシチョフソ連首相⇒ブレジネフ書記、金日成北朝鮮首相⇒崔庸健最高人民会議常任委員長

1964.8.30道新 イタリア インフレ危機を脱す 国際収支は均衡化 一連の経済政策が効果

◎1964.8.30道新夕刊 日共10中総 神山、中野両中央委員に党員権停止

★1964.8.31道新 中共 対ソ回答書簡を発表 分派会議に反対

★1964.8.31道新夕刊 ソ連共産党 中共の参加なくても準備会議は強行する

1964.8.31道新夕刊 世界人口31億を越す ①中国6.7億人、②インド4.49億人、③ソ連2.2億人、④米国1.87億人、⑤インドネシア0.98億人、⑥パキスタン0.97億人、⑦日本0.95億人、⑧ブラジル0.75億人、⑨西独0.55億人、⑩英国0.53億人

◎(重要)1964.9.2道新 除名必至の神山、中野氏 日共幹部会を非難 スパイ容疑、党破壊活動容疑 宮本書記長、西沢富夫らインドネシアへ出発 蔵原惟人はルーマニアへ 中共と連絡を取りながら世界会議不参加を説得工作に

*(*は僕の考え)宮本らは、9.1~9.14の日程でインドネシア、中国を訪問。当時、中共、日共、インドネシア共産党はトライアングルを形成し、戦術的には軍事蜂起も辞さないと言う共通点を持っていた。4.17ストで幹部不在中という言い訳をした日共だが、凝りもせず再び宮本はインドネシアを訪問している。この訪問は、日共が平和革命論に乗り切れず、「敵の出方論」を持ち続けていることを象徴する出来事だったと思う。

◎1964.9.2道新夕刊 日共 ソ連の独善を非難 兄弟党に乱暴な干渉 プラウダ:千島などの領土問題、不当な毛主席発言

★1964.9.5道新夕刊 フ首相 激しく中共非難 “労働階級”を破壊 

★1964.9.6道新 イタリア共産党 党大会準備会議受諾で和解呼びかけの動き トリアッチ覚え書きを発表(9.5夕刊)

1964.9.8道新夕刊 フ首相言明 世界党予備会議の開催 予定通り12月に

◎1964.9.11道新夕刊 日共・インドネシア共産党(アイジット議長)9.7共同声明に調印 分裂深めない共産党会議を

1964.9.12道新 チトーのハンガリー訪問 外交界 強い関心 東欧首脳会議近づく

1964.9.12道新 周恩来首相 動静が1か月も不明

1964.9.13道新 中国 新たな整風運動 ソ連派を一掃か 修正主義者とやり玉に

◎1964.9.14道新夕刊 毛主席 宮本日共書記長と会見(北京) 宮本は広州へ

*(僕の疑問)周恩来首相の動静が不明も、9.10宮本らは中国共産党劉少奇副主席と会談。その後、宮本は毛と会談、当時の中共内の毛、劉、周の権力関係がわからないが、この時毛との間で何が話されたのだろうか。後知恵になるが、中国共産党に焚き付けられたインドネシア共産党の武装蜂起失敗(1965.9.30)壊滅の歴史からは、毛沢東が宮本に対して、日本革命、対ソ、対米戦略でかなりリスキーな圧力をかけたのではないかと推測する。

★1964.9.16道新 フ首相 領土問題など語る (福永自民党)訪ソ議員団との会談で 歯舞、色丹返せない 挑発にすぎぬ毛主席 強力な新兵器の開発

★1964.9.16道新 中国が非難 フ首相の西独訪問 ドイツ問題も中ソの争点に 東独売り渡す陰謀

1964.9.18道新 トリアッチ論文発表の背景 自信深めるフ首相 「モスクワの寛容さ」強調

◎1964.9.21道新夕刊 25日から注目の11中総 内憂外患の日共 除名や新党結成の動き 野間宏、渡部義通、朝倉摂が党を批判

1964.9.23道新 東独 グロテウォール首相の死後(9.21)もウルブリヒト路線は不変 

★1964.9.23道新 中国共産党 上級指導者を粛清か 中ソ論争からむ

★1964.9.25道新 ソ連 中国に代表団(グリシン】派遣 国慶節の招待に応ずる 

1964.9.27道新 インドネシア(スカルノ大統領)・マレーシア(ラーマン首相)の対決しばらく小康状態か 時間稼ぐインドネシア 

★1964.9.27道新夕刊 国連筋 世界共産党準備会議で語る 中共の対ソゆさぶり成功 中止または目的変更

★1964.9.29道新 タス通信報道 中国の科学者ら60人 ソ連で原子核研究 

★1964.9.29道新夕刊 ソ連代表団 中国へ出発 党・政府の肩書で

★1964.9.30道新 ポノマリョフソ連党中央委書記強調 国際会議は必要 中共とは友好的に対処

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戦後左翼史 その21 1964年③ 日共志賀義雄らソ連派除名 中ソ対立

2016-05-16 20:38:31 | Weblog

報道では、50年前の1966.5.16に中国で文化大革命が開始されたとして、現在の習近平国家主席が毛沢東を持ち出してきて反腐敗運動を行っているのは「文革の再来」ではないか伝えているが、はたしてそうなのだろうか。新聞の切り抜きを読む作業は1966年から67年あたりをやっているいが、当時のこの国に伝えられていた情報から文革の実相を掴むのはそう簡単ではないと感じている。

 

戦後左翼史 その21 1964年③ 日共志賀義雄らソ連派除名 中ソ対立

以下、◎印は志賀義雄らソ連派除名関係、★印は中ソ対立関係である。

1964.5.1道新 ミコヤン第一副首相語る 日ソ友好新段階へ “隷属”脱皮が必要 商業会議所を設けよう

★1964.5.1道新夕刊 東欧指導者 ソ連に圧力か 中共追放に反対

★1964.5.4道新夕刊 北ベトナムが提案 世界共産党会議開催 まず中ソ党会談を

★1964.5.8道新 インドに二つの共産党出現しそう 左派近く旗揚げへ 多数派工作に乗り出す

★1964.5.8道新夕刊 プラウダが中国非難 “ソ連の援助”ゆがめる

★1964.5.9道新 中共 未公開の交換書簡公表 中ソ会談早急に困難 ソ連の5月案拒否 早くても一年後に 世界会議は4,5年後

★1964.5.11道新 プラウダ紙の論説シリーズ 初回で中国非難 個人崇拝を復活

★1964.5.16道新 仏共産党大会開く 世界党会議 ソ連提案を支持

◎1964.5.16道新 衆議院本会議(5.15)部分核停条約締結を承認 志賀義雄(日共)が賛成票 林百郎、谷口繁太郎、川上貫一、加藤進の4氏は反対票

◎1964.5.17道新 日共 志賀問題で緊急協議(拡大幹部会) 初歩的党規律の無視

1964.5.17道新 ソ連各紙 池田首相あてフ書簡を発表 ミコヤン訪日重視

◎1964.5.17道新夕刊 志賀氏の白票の波紋 事実上の脱党宣言 日共親ソ派の巻き返し:鈴木市蔵、須藤五郎 中国派:野坂議長、袴田里見、安斎庫治、土岐強、春日正一、紺野与次郎 1964.4ソ連寄りの中間派:内野統一戦線部長失脚 中間派:宮本は中国に 1961脱党:春日庄次郎(統一社会主義同盟)、内藤知周(社会主義革新運動全国常任委員会)

★1964.5.17道新夕刊 周首相語る 日中復交果断な政策が必要 中ソ同盟は有効

◎1964.5.18道新 日共筋語る 志賀氏処分は未定

◎1964.5.19道新 宮本共産党書記長中国から帰国 志賀問題善後策の協議 2.15から自律神経疾患療養のため中国へ

◎1964.5.19道新夕刊 日共 近く志賀氏の処分決定 議員活動を一時停止

◎1964.5.22道新 共産党中央委員会で決定 志賀、鈴木両名を除名

◎1964.5.22道新夕刊 宮本書記長 議員の辞職も勧告 志賀、鈴木両氏が語る 承服できない

◎1964.5.22道新夕刊 志賀、鈴木氏(国労革労派)の除名 中共色強める日共 さらに“粛清”か 新党づくりの可能性も 中委57人中、反対は志賀、鈴木、中野重治、保留は神山茂夫

◎1964.5.23道新 志賀、鈴木両氏語る 新党はつくらない

*(*は僕の考え)当時は、宮本書記長が中国で自律神経疾患療養を長期間にわたり行うなど、日共と中国共産党の蜜月時代だった。インドネシア共産党も中共寄りの路線で日中両共産党と親密な関係にあった。中ソ対立が決定的になる中、部分核停条約の国会承認をめぐり党として中国支持の姿勢を明らかにすることは、志賀義雄らソ連派が党内に居続けることができないという意味であった。4.17ストで労働者の信頼を失い、この問題で原水禁運動に分裂を持ち込み大衆運動に分断をもたらすなど、日共は取り返しのつかない誤りを犯したと思う。日共の迷走ぶりはこの後まだまだ続くのであるが・・

1964.5.28道新 ネール首相の死に思う 栄光から悲劇へ 大形孝平(インド問題研究家)

1964.6.1道新夕刊 ミコヤン副首相演説 日ソ理解深まる

★1964.6.9道新夕刊 西独政府 締結の意向 中国と通商協定 チトー・ユーゴ大統領 フ首相と非公式会談 中ソ対立協議か

1964.6.13道新 フ首相発表 東独との協力条約 友好の原則具体化 西ベルリン 政治的主体性を強調 現国境は不可侵 有効期間は20年

1964.6.14道新 ソ連 ルーマニア問題で苦悩 際立つ“独立化” 再三の説得も失敗 政治面にも拡大か

1964.6.18道新 ジュネーブ会議後の南北問題 本当の“争い”これから 地域統合へ動く 先進国“特恵”“援助”を宣伝

1964.6.20道新夕刊 フ首相演説 両独との平和条約も “北欧非核武装”を強調

◎1964.6.21道新夕刊 原水協全国理事会開く 世界大会開催方法を決定 運営は集団指導制に

1964.6.23道新 “自由化”されるルーマニア 大量の政治犯を釈放 しだいにスターリン主義から脱皮

★1964.6.27道新 米紙報道 中ソ論争 フ首相の努力も無為に ソ連のユーゴ、ルーマニア接近失敗 協力の言質取れず

★1964.6.28道新夕刊 ソ連、スウェーデン声明 異なる社会制度の国の共存を強化

★1964.7.4道新 ソ連 中国追放準備進める まだ探りの段階

★1964.7.6道新夕刊 プラウダ“北京の代弁者”に警告 日本部分核停を支持

★1964.7.7道新 中国の新インター設立 フ首相に新たな課題

1964.7.7道新夕刊 社党使節団とソ連側初会談 国際情勢を討議 意見対立見られず 

1964.7.7道新夕刊 ルーマニア代表団突然訪ソ

1964.7.7道新夕刊 カストロ首相呼びかけ 国際機関の仲介も 米との和解望む

1964.7.8道新夕刊 社党使節団とソ連側第2回会談 北方領土は解決済み ソ連態度崩さず

1964.7.9道新夕刊 ルーマニア代表団異議表明 ソ連のベッサラビア併合

1964.7.12道新 ソ連・ルーマニア会談 “非ロシア化”で緊迫か 異常な沈黙に包まれる

◎1964.7.12道新夕刊 二つの原水禁会議 外国代表招致に必死 中ソ同席すれば宣伝合戦 日本原水協分裂:日本原水協(安井郁理事長、日共系)、日本原水協(社党、総評、広島、長崎、静岡の原水協 部分核停支持)

★1964.7.12道新夕刊 成田社会党書記長 プラウダに寄稿 共存への努力を支持

1964.7.13道新 毛主席 社党訪中団に語る 南千島の返還要求を支持 日中国交正常化後不可侵条約の締結を

1964.7.14道新 社党訪中団帰国 全千島返還が当然 毛主席の支持得る 毛発言 社党訪ソ団に衝撃

★1964.7.14道新 中共 9回目の対ソ反論 プロレタリア独裁放棄 党の性格曲げる

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戦後左翼史 その20 1964年② 日共4.17スト破壊 中ソ対立

2016-05-13 21:03:18 | Weblog

 週末は天気が良さそうなので、戸外に出て体力の回復を図ることを第一としたい。5日の豊平川マラソンを走らなかったのは、20数年ぶりではないだろうか。今の状態では仕方がないのだが、寂しさは感じます。今から五輪を目指すのではないが、もう少しパフォーマンスを上げたい。

 その東京五輪もケチの付きどおしだ。競技場の設計、エンブレムのデザイン、聖火台の位置、そして招致に係る賄賂疑惑か。国立競技場を壊すのは早すぎました。この国の国力は僕らが思っている以上に落ちているのだろう。

 

戦後左翼史 その20 1964年② 日共4.17スト破壊 中ソ対立

以下、★印は中ソ対立関係、◎印は4.17スト関係である。

時系列的に、★中ソ対立を追うと、中ソ両国は離れたり近づいたりという微妙な距離感にあり、その対立は他国の共産党にも影響が広がっていることがわかる。

★1964.4.1道新 ソ連と東欧3党で一致? 中国と最終的に対決

★1964.4.2道新 ソ連 中国のフ首相攻撃に 今週末に回答か

1964.4.2道新夕刊 国連貿易開発会議 全共産圏代表が退場 国府演説ボイコット

★1964.4.3道新 スースロフ書記(ソ連)、中共指導部を非難 世界党会議開こう 指導権をねらう中国

★1964.4.4道新 ソ連共産党中央委決議 中共指導部は友好破壊 分派行動断固反撃

◎1964.4.4道新 公労協スト宣言を発表 17日に半日スト 戦後最大の規模 列車、電信などがストップ 賃上げ要求 9組合(国労、全逓、全電通、動労、全林野、全専売、全印刷、全造船、アルコール専売=80万人)

★1964.4.4道新夕刊 フ首相 中共を非難 公然と分裂はかる

1964.4.5道新 モロトフ、カガノビッチ、マレンコフら党から除名 

★1964.4.5道新 中ソ対立 決定的段階へ 米は最大の関心 好機と危険な時代を予測

★1964.4.6道新 共産圏外交筋語る 国際共産主義運動 主導権 中共側に移る?

★1964.4.6道新 インド共産党 全国委前に対立 ソ連、仏がやや優勢

★1964.4.6道新夕刊 フ首相 暗に中共を批判 “スターリン”は不必要

★1964.4.7道新 ソ連の中共反撃 強まるかモスクワ派統制 共産組織を点検 北京の切り崩しに対策

★1964.4.7道新夕刊 フ首相演説 米の“理性”を評価 中共指導者を非難

★1964.4.9道新 ソ連 中国を経済的締め上げ モスクワ派を結集 “コメコン”の改組も計画

★1964.4.9道新 ソ連 声明を発表して非難 中国、国境侵犯で挑発

◎1964.4.10道新 アカハタ4.9付け「春闘をたたかう全労働者に訴える」で4.17スト批判 春闘の前途に影響か 中止呼びかけ~国民生活に影響、弾圧の口実

*(*は僕の考え)常々、一人一人では弱い労働者は、団結して資本家と闘おう、労働者が主役の社会を作るため革命を目指す、と大衆に語っていた前衛党が、説得力のある理由もなくストを目前にして突然止めろと言い出した。ストを打とう職場の最前線の混乱はひどいものだったと想像する。腰砕け、敵前逃亡とののしられ、党が労働者階級の中で信頼を失うのはある意味しかたがない。しかし、個々具体的な職場では、日頃理想を唱えていた党員労働者が、党の方針を丸のみにするしかない中、それまで培ってきた仲間からの信頼が一瞬にして崩れ去り、長期間に渡って職場で浮き上がる。その後の将来にわたり、生活そのものにも影響をもたらしたであろう。後に党は珍しくこの事態を自己批判したが、その総括方法も疑問だらけである。今回の事態は、社長が病気療養のため長期不在中に一部の重役の独断でやったことである。そして、その重役は左遷され、翌年怪死したのだ。

★1964.4.10道新 中ソ公開 論争再開とフ首相 東欧のタガ締め直す

★1964.4.12道新 ソ連・ハンガリー共同声明 中国との対決強調 駐留軍の撤退 いつでも同意

☆1964.4.12道新夕刊 共産党の4.17スト脱落 社共のミゾ決定的に 総評指導部にもショック

★1964.4.13道新 チェコもソ連支持表明 判断力失った中共 イタリア:中共追放に反対 ルーマニアとアルバニア:フ首相演説を中継せず モンゴルもソ連支持 インド共産党分裂

★1964.4.13道新夕刊 フ首相放送 ハンガリー予想外に友好的 中共の“裏切り”拒否

★1964.4.14道新夕刊 フ首相 ポーランド党歓迎会 中共の分裂主義非難

★1964.4.16道新夕刊 フ首相 中国を痛烈に批判 毛主席を呼び捨て

★1964.4.17道新 満70歳を迎えたフ首相 あふれる健康、自信 ライフワークの中ソ論争決着へ闘志

★1964.4.17道新夕刊 毛主席 フ首相の誕生日に祝電 中ソ対立は一時的

★1964.4.18道新夕刊 フ首相 対中国関係で示唆 断絶は望まぬ

1964.4.20道新夕刊 日中関係 廖(りょう)承志氏が語る 行動面でも前向きに

1964.4.21道新 総評とソ連労組代表 共同声明を発表 世界労働運動の統一を

★1964.4.24道新 トリアッチ伊書記長 中国を非難 社会主義の分裂ねらう 労働運動を危機に

★1964.4.25道新 中ソ対立と欧州共産党 注目される“中間派” ポーランド:激しい中共批判避ける ルーマニア:世界党会議に反対

★1964.4.26道新夕刊 中共 10月に北京で開催か ソ連との会談に同意

★1964.4.27道新 人民日報 注文つけて全文発表 スースロフ報告 激しく批判

★1964.4.27道新 日中関係 陳毅中国副首相が記者会見 米が大きな障害 積み上げ方式さらに推進 中ソいつかは団結

★1964.4.27道新夕刊 ルーマニア 調停の経緯も発表 中ソ両党会談提案

1964.4.28道新 フルシチョフのジレンマ 気になる軍の反応 米のキューバ上空飛行 微妙な抗議の姿勢

★1964.4.29道新 プラウダ 中共を批判 党の規約を無視

★1964.4.30道新 プラウダ 中共を批判 党綱領を持たぬ中共

★1964.4.30道新 ソ連 メーデーの代表派遣 中国への招待を撤回

★1964.4.30道新 中国 ソ連の核物質減産を非難

 

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戦後左翼史 その19 1964年① 日共中国寄りへ 宮本顕治の中国長期滞在

2016-05-06 20:43:59 | Weblog

 米国大統領選でトランプ氏が共和党候補に決定。この国の報道は、氏をトリックスターのように扱っているが、近年は、民主党クリントン⇒共和党ブッシュ⇒民主党オバマときているので、次は共和党の可能性が大。トランプは米国の本音を語っている。アへは米国への片思いを続けるのか、対米自立へ舵を切るのか。非力な野党は、外交のオルタナティブを示せるか。

 

戦後左翼史 その19 1964年① 日共中国寄りへ 宮本顕治の中国長期滞在

1964年(僕9歳、小学校4年生、世の中の出来事は子ども心にしっかりと記憶されている。)に国内外であったこと。

◎4.17ゼネスト中止、志賀義雄らソ連派を除名、米国がベトナムに軍事介入、東海道新幹線開通、東京オリンピック開催、ソ連フルシチョフ第1書記解任、中国核実験など

 

1964.1.4道新 前途多難な護憲平和運動 社共のミゾ深まろう

1964.1.12道新夕刊 イタリア社党 事実上分裂 左派が新党結成へ

1964.1.21道新社説 仏の中国承認と国際政局の動向

1964.1.22道新 人民日報社説で呼びかけ 反米統一戦線の結成

1964.1.23道新夕刊 ソ連―キューバ共同声明 攻撃されれば援助

1964.1.25道新夕刊 ソ連 中国非難の書物発行 公開論争を再開か

1964.1.30道新 どうなる中国の国連加盟 “共存論”再燃しそう 情勢、明白に国府(台湾国民政府)に不利

1964.2.3道新夕刊 人民日報 フ首相を非難 論争停止はゴマカシ 

1964.2.4道新 中共が7度目の公開状批判 ソ連指導者を攻撃 “最大の分裂主義者”

1964.2.4道新夕刊 中共のソ連批判論文要旨 公開論争やめない ソ連の声明は明らかに脅迫 中共、フ首相の“転向”迫る フランスの承認で自信

1964.2.4道新夕刊 周首相 米TVで放送 中ソ対立 最終的には解消

1964.2.11道新 ウオロチェンコ農相 中委基調演説 ソ連共産党中委総会開く 生産性の向上図る 農業の化学化必要

1964.2.14、15道新 近づく社会党大会 論争の焦点 「構造改革論」たたく 反主流派、党活動で執行部批判 人事問題 微妙な各派の思惑 佐々木更三氏(反主流派)処遇に焦点

 

(れんだいこ氏のHPに学ぶ)袴田氏の著作によると、総評が中心となり、2.1スト以来の『半日ゼネスト』を目指して胎動を続けている最中に宮本は静養先に行きたいと言い出した。それも妻子はもちろん、代々木病院の医者、二人の看護婦(うち一人は、もう十数年も党本部で宮本の身辺の世話をしている)、防衛、お手伝いなど総勢7人を連れて行くという。重大な政治闘争が盛り上がっているとき国内を留守にするという宮本に政治的指導者としての資質や政治感覚を怪しんだが、その大名旅行振りにはなおのこと呆れた。

2.15~5.18 宮本御一行は病気保養の為に中国に長期滞在。

(*僕の疑問:当時、医療水準が決して高くはない中国でわざわざ長期間の病気保養をすることに対して理解できない。中国には、伊藤律や白鳥事件関係者などがいたが、彼らと接触を持ったのか。滞在の真の理由及び目的は何だったのだろうか?まさか、ゼネスト及びその後の弾圧が恐ろしくて逃亡したのではないでしょう。)

2.26~4.30 党代表団(団長袴田幹部会員、団員松島治重、西沢富夫、米原)がソ連、中国、朝鮮、ベトナムを訪問。

3.2~3.11 (3.2)日ソ両党(ソ連団長ブレジネフ幹部会員、団員・スースロフ・クーシネン・ポノマリョフら)会談は対立状態のまま終わる。この時日共側は、中共と下交渉した上で、ソ共に訣別状を叩きつける目的で訪ソしていた。袴田は内政干渉非難等10数か条からなる抗議文を突きつけ、用意されていた協同コミュニケ案を拒否、大激論の末席を蹴って会議を終了させている。(3.13)深夜の飛行機でモスクワを引き上げ、宮本書記長の待つ北京に向かった。北京では、袴田、宮本らは「反ソ英雄」として大歓迎を受けた。

3.19 宮本.袴田連名の「当面の活動のうえで注意すべき点についての手紙」を中国から幹部会に送り、反米闘争の一面的強調などを批判。

3.21~3.25 中国共産党代表団(団長劉少奇中央委員会副主席)と会談。

3.23 毛沢東中国共産党主席と会見。

4.2 朝鮮労働党代表団(団長金日成委員長)と会談。

4.14~4.17 ベトナム労働党(代表団レ.ズアン第一書記)と会談。

5.18 中国で療養中の宮本は、志賀問題の知らせを聞くや予定 を切り上げ早早に帰国の途についた。

 

1964.2.15道新 フ首相 中共に反論 平和共存推進強調 唯一の“現実的”道 

1964.2.15道新 プラウダ論文 中国を全面援助

 

1964.2.18道新夕刊 ソ連 人民日報批判に反論

1964.3.1道新 モスクワ筋で観測 ルーマニア代表の北京訪問 中ソ間に新たな一石 経済関係の改善か

1964.3.2道新 向坂氏が江田批判論文 階級闘争を忘れる (「社会主義政党の近代化について」社会主義協会『社会主義』)

1964.3.4道新 社党 反ばくの教宣局長談話~誤解かつ有害な言辞 新華社“社党右派への攻撃”の論評(北京放送)

1964.3.2道新 二つのビキニ10周年集会 静岡、焼津の両市で 日本原水協「ビキニ被災10周年原水禁全国大会」と社会党・総評「ビキニ被災10周年核武装阻止、被爆者救援全国集会」

1964.3.8道新夕刊 フ首相 農業会議で要求 農民に大幅な自由を

1964.3.11道新 フ首相の秘密文書配布 毛主席に最後通告か

1964.3.11道新夕刊 フ首相 月末にハンガリーで東欧首脳会議招集か

1964.3.13道新 ルーマニア代表団 中国訪問終わる 中ソ関係の悪化を防ぐ?

1964.3.14道新 中共 8年ぶりに党大会(第9回)開催か 国内情勢やや安定 政権獲得後は2回目 党指導層の変動予想 第1回は1921上海、第8回は1956北京

1964.3.14道新夕刊 日ソ共産党会談終わる 袴田、松島、米原、西沢訪ソ ブレジネフ、クーシネン、スースロフ、ポノマリョフ

1964.3.16道新夕刊 英紙 ソ連の“党”報道 中ソ対立 頂点に

1964.3.17道新夕刊 訪中後のルーマニア代表団 フ首相と会談

1964.3.21道新 ソ連軍 ハンガリーから撤退か (1957~駐留) 東独、ポーランドには駐留 ブルガリア、チェコは撤退済み

1964.3.23道新 社党 二分のおそれ 親ソ親中国両路線で

1964.3.24道新 世界労連でも中ソ対立か

1964.3.26道新 中ソ破局に近づく フ首相親中国派と一連の会談 国際党会議招集か

1964.3.27道新夕刊 仏共産党 世界党会議の開催呼びかけ

1964.3.28道新 インド共産党の分裂表面化 反主流が委員長非難

1964.3.29道新 アルバニアの勤労党員が非難 フ首相の政策失敗 日共代表団平壌入り 袴田、金日成会談

1964.3.29道新夕刊 フ首相 中共批判に反論か あすハンガリー訪問

1964.3.30道新夕刊 ハンガリーの党内対立 ナジ氏(親中国派)は新党を計画か

1964.3.31道新 中共 8回目の対ソ反論 平和移行は裏切り

1964.3.31道新夕刊 プラウダ 日韓交渉論評 日本の独占資本進出ねらう

 

 

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白井聡 『戦後政治を終わらせる 永続敗戦の、その先へ』

2016-05-01 16:21:37 | Weblog

 GW3日目、初日はコンサに行って、昨日は床屋さんと北海道立文学館で『佐藤泰志の場所―青春の記憶 夢みる力』を観た。腺病質的な表情とともに、原稿用紙の一マスごとに枠いっぱいの大きくて角ばった字が印象的だった。PCワープロソフトで容易に何度も修正しながら作る文章と、言葉を組み立ててから原稿用紙を埋めるのとでは、頭の中でやっている作業の質が大いに違うように思えた。PCは脳みそを劣化させるのではないか。

 

 『戦後政治を終わらせる 永続敗戦の、その先へ』(白井聡著 NHK出版新書 2016年刊)

 『「物質」の蜂起をめざしてーレーニン、〈力〉の思想』、『未刊のレーニンー〈力〉の思想』(このブログ2010.8.28から5回)で原理論者として登場以来、『永続敗戦論』で現状分析へと移行し、その後『日本劣化論』(笠井潔との対談)(このブログ2014.9.27)、『「戦後」の墓碑銘』(このブログ2015.11.29)を刊行してきた1977年生まれの著者白井聡氏に注目してきた。

 本書のタイトル「戦後政治を終わらせる 永続敗戦の、その先へ」に期待したが、それに触れている「終章 ポスト五五体制へ」の内容は、全く尻すぼみで展望を欠くものであった。終章に至るまでの現状分析や戦後史の検証は『永続敗戦論』の基本的な論理を超えるものではない。本書を読もうかなと思った方は、終章を立ち読みした後に判断した方が良いのではないか。

 終章で、著者が「戦後レジームからの脱却」として提示するのは、以下である。

 政治的な対抗軸としては、新自由主義を打倒しようとする勢力の結集が必要であり、沖縄の政治情況がそれを示している。3つの革命が考えられる。

 政治革命―その擬態的な糸口は、「立憲主義の擁護」の一点による野党共闘にある。この国で戦前から続く「国家は国民に優越する」という原理を一掃すべきである。

 社会革命―近代的原理(基本的人権、国民主権、男女平等など)の徹底化、「排除」へと転じている統治の原理を再び「包摂」へと再転換すべきである。

 精神革命―政治革命及び社会革命を進める権力者に対しては、「社会からの要求と支持」が必要である。

 これらの言説を具体化すると、「自公政権に対して護憲を軸に野党が結集し、それを国民のデモによって支えよう」ということになる。しかし、これでは物足りない。民主党政権で失敗しているので、国民は二度と選択しない。著者は、政治学でご飯を食べているプロなのだから、もう少し深く考えてほしいと思う。

 僕ならこう考える。そこに「国民国家の黄昏」という認識があるか。アへ首相が「美しいニッポン」などと敢えて強がりを言うのは、国民国家が賞味期限を迎えていることの現れではないかと考える。ここまでは、白井氏と概ね共通している。では、どうすべきか。僕らは、国家を開き、廃絶の方向に向かうことを良いと考える価値観を持つべきである。亡国と言われても、非国民と言われてもいい。常々僕が言ってきたことは、「野党の再生は外交から」というもので、現在のような米国追従一辺倒ではなく、東アジア諸国との共同体のような構想など国民国家を超える制度を構想できないと野党には展望が開けない。また、ファシズムやスターリニズムから学び、国家や組織が人に対して権力的にふるまうことを最少にする社会を構想する必要があると考える。

 

 

 

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