晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

西谷修 『私たちはどんな世界を生きているか』 その2 北朝鮮 拉致

2021-03-31 14:01:09 | Weblog

僕は84日ごとに循環器内科に通っているが、病院に着いた時にはこの間を何とか生きることができたなと実感する。また、毎朝何種類かの薬を飲む時にも今日一日何事もなく生かしてほしいなと思う。ただそれは瞬間の出来事であって、身体全体が生きていることを感じるのは、登り坂をランニングで一歩一歩足を止めずに乗り越えた時だ。それは苦しさの中に心地よい汗が噴き出す瞬間だから。

 

『私たちはどんな世界を生きているか』(西谷修著 講談社現代新書 2020年刊) その2 

第3章「日本は朝鮮半島をどう見ているのか」で、著者は北朝鮮と国際社会との関係について述べている。僕は、これまでトランプ前大統領をバランスの取れない人物だと決めつけていたが、本書をあえて反面教師的に読んだときに様々に感じるところがあった。

(著者の論旨)

①2002年の小泉首相訪朝以降拉致問題が浮上し、それによりこの国は戦争加害者ではなくて実は被害者だったという国内世論が起こった。なお、(P129)「訪朝時、(拉致問題を)小泉は知らされていなかった」という記述はそんなバカなことはあり得ないと思う。

②1年後、北朝鮮は国交回復に道を開きたいので、日本政府を信用して拉致された人びとの一部を一時帰国させた。しかし、日本政府は帰国者は帰さないと言い出し北朝鮮との約束を破った。

③北朝鮮の核武装は、冷戦崩壊後に社会主義圏が消滅し、北朝鮮が単独で米国、韓国と対峙しなければならなくなった中で、東独のように西独へ吸収されることを防ぎながら国家を維持するための手段であった。

④米国は、北朝鮮を脅威とみなすことによって、極東における軍事体制、韓国・日本との軍事連携の求心力としたいのだ。また、北朝鮮という脅威が存在することは日本にとっても都合のよいことである。もし南北朝鮮が共同歩調を取るようなことになった場合には、この100余年における日本と朝鮮半島との関係が問われることになる。

⑤では、これからどうしたらよいのか。著者の結論は、北朝鮮を国際秩序の中に受け入れて徐々に変えて軟着陸させるしかないと言う。

(僕の考え)ここでも著者の結論は、これまで20数年間と同様の結論先送りというショボいものだ。さらに軟着陸のためにどうしたらよいのかという方途も具体的には語られていない。また、日本の対米追従を批判するが、ならば東アジアにおいて日本がどのような役割を果たしていくべきかについては語られない。

僕はトランプ、文寅在が金正恩と直接に会ったという事実の持つ意味は大きいと考える。トランプが考えていたのは、北朝鮮との戦争を終結させることよって極東における米国の軍事負担の軽減をはかり、新たなビジネスチャンスを創出したいというものだ。きわめて単純だが合理性を持つ考え方だと思う。

米国の主流を担うマスコミ、それに追随する日本のマスコミは、トランプの発言や行動を奇人・変人のような扱いをしていたと感じる。その背景には現状の変化を望まず維持させたいという米国・日本の政治勢力があると考える。そもそもトランプが大統領に選ばれることを予想していたのはわずかな人たちだったことを思い出す。

少し脱線するが、2008年に誕生した民主党で首相だった鳩山由紀夫は「東アジア共同体」構想を打ち出したが、それが米国の虎の尾を踏んだために、鳩山はマスコミでまさに奇人・変人のように扱われた。

僕は本書を批判的に読む中で、トランプの現状の枠組みを変えようとする思考を再評価しても面白いのではないかと気付いた。おそらくバイデンはオバマと同じく北朝鮮問題については先送り型思考だと思う。では、この国はアジアの片隅でこのままずっと米国に追従するしか術がなく、近隣諸国からも距離を置かれながら徐々にしぼんでいくのか。それとも主体性を発揮して東アジアの要となるのか。意外とトランプってまともに見えてきた。

 

 

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西谷修 『私たちはどんな世界を生きているか』 その1 自由 新自由

2021-03-26 13:22:30 | Weblog

総務省接待問題に内在する利権構造を知るには、今は無き「電波監理委員会」を調べるといい。キーワードは、GHQ、旧郵政省、田中角栄、民放認可、新聞とテレビの系列化、橋本内閣中央省庁再編、総務省である。改善策として参考になるのは原子力規制委員会だと思う。

 

『私たちはどんな世界を生きているか』(西谷修著 講談社現代新書 2020年刊) その1 

最終章である第5章「令和の日本と世界のこれから」で、著者は「どんな世界」を提示しているか。

(著者の論旨)「自由」の歴史的経緯を追う。かつての「自由」と現在の底が抜けた「新自由」は異なるという。

①西洋諸国は、市民革命によって民主・平等・自由という原則を確立した。ここでの「自由」は、旧来の共同体にあった封建的身分秩序・束縛からの解放という意味での自由だ。(ただし、この自由には束縛を離れて出現した労働者にとっては、没落する自由という意味も含まれていた。)

② ①の自由は、西洋諸国相互間という一定の域内に限られた自由で、域外に対しては植民地化政策という力の原理で制圧した。

③その後の歴史は、植民地の争奪戦、先進資本主義国と日本やドイツといった後発国との軋轢による2度の世界大戦、米ソの冷戦を経て1990年代になってアメリカの単独覇権体制が成立した。

④そこでは、かつての市民革命で獲得した基本的人権としての自由とは全く異なる「新自由」という考え方が出てきた。これはグローバル経済の展開の下での自由であり、その結果各国において国民の間に大きな格差が生じて新たな身分制社会が生まれた。この事態を著者は、「分断された人間たちが市場の自由の濁流のなかに溺れている」と表現する。

⑤「私たちが生きている世界」は、AIなどの技術が際限なく進歩し、それが持つ何でもできるという全能感に満たされている。この延長線上では、私たち人間はその生身の身体で生存している成層圏を超えてしまい、新たなバーチャル次元へと突き破っていくという。著者は、この状態を「自由の底が抜けている」と表す。そこは人間の生存を脅かす世界だ。私たちは、今そのターニングポイントに立っている。反転可能なギリギリの地点に生きていると警鐘を鳴らす。

⑥この現在の生存危機を克服するために、再度原点に戻って人間は生き死にする有限な存在としてものを考える。「自由」を考え直し、その限界を認識することが重要だという。

(僕の考え)著者は、あとがき(P269)で自分はマルクスやマックス・ウェーバーには頼らないと述べているが、「自由」と「新自由」の違いは、18世紀の自由放任を原則とする古典派経済学と20世紀においてケインズ経済学のあと「新自由主義」を唱えて隆盛を極めている新古典派経済学の理論を用いれば一目瞭然にわかる。しかるに著者は、時代情況を縷々言葉を要して詩的に表現しているが経済学的には解明済みのことだ。

次に、著者は技術の影響力を過大評価し過ぎと思う。果てしなく技術革新があろうとも我々人間が生きていく世界が成層圏からバーチャルな別次元に移ることは絶対にありえない。AI、核、遺伝子・・最先端の技術には現在の人間にとって制御不能に見える部分があるが、だからといって生身の身体で生きている人間が別の世界で生きることになるとは思えない。基本的に技術が人間を超えることはありえない。例えば、人間の脳の働きの全てのメカニズムが解明されなければ、大量のデータをベースに判断するAIが人間の思考水準を超えることはない。技術は人間の後方を人間よりも高速でかつ疲れ知らずに走ることはできるが、人間の前を走ることはないと考える。

本書は、『私たちはどんな世界を生きているか』という大きな構えで始まったが、結論は自由の再考が必要というショボいものだ。

 

 

 

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デヴィッド・グレーバー 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』  「国家を考える」ノオト その15 

2021-03-14 13:59:52 | Weblog

「紀伊國屋じんぶん大賞2021」が発表された。大賞『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(デヴィッド・グレーバー著 岩波書店)、第2位『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著 集英社新書)、第3位『独学大全―絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』(読書猿著 ダイヤモンド社)。未だかつて無かったことだが3冊とも僕が最近読んだ本に含まれているのだ。喜ぶべきか、悲しむべきか。偏屈な僕は、凡庸になってしまったなと反省する。

 

『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(デヴィッド・グレーバー著 岩波書店 2020年刊) 「国家を考える」ノオト その15

昨年7月に発刊され、手元にあるのは9月の第5刷なので売れているようだ。残念なことに1961年生まれでまだ若いにもかかわらずグレーバー氏は、9月に亡くなってしまった。

本書の特徴は、皆が薄々感じながらもこれまでに誰も正面から指摘してこなかった観点を鋭く突いた点にある。それは、仕事に対するやりがいと待遇とのアンバランスである。一見華やかに見えて報酬も良いが、実は社会にとってブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)で当事者もやりがいが感じられない仕事。著者が例示しているのは、人材コンサルタント、コミュニケーション・コーディネーター、公報調査員、財務戦略担当、企業の顧問弁護士といった仕事である。(日本の職業名とは異なる。)一方、社会にとってなくてはならない、また人びとのケアにつながる仕事ほど、やり甲斐は大いに感じられるが待遇が悪いという現状、著者の問題提起がここにある。

では、著者が紹介している例には取り上げられていないが、この国の現在の社会情況を見渡すと誰しもが思い至るであろうことが以下のとおりである。すなわち本書の応用編である。一例としては、一部の高級官僚と政治家たちがクソどうでもいい仕事をやって高額な給与をもらっている現実がある。官僚たちは、本来は国民のために政策形成をしなければならないはずである。しかし、(前、現)首相の家族が関わったえげつない行動を表沙汰にしないために、官僚たちが忖度、行政文書の改竄、国会での虚偽答弁などを重ねている姿がある。また、政治家自身も近しい人のために依怙贔屓をするというような、行政の公平性をゆがめる行動をしている。グレーバーに言わせれば、こいつらがやっていることは典型的なブルシット・ジョブだということになる。

参考までに、キャリア官僚たちの年俸がテレビで紹介されていたので示す。(係員 22歳年収350万円、係長 20代後半 500万円、課長補佐 30代 750万円、課長 40代 1200万円、審議官 50代前半 1500万円、局長 50台半ば 1800万円、事務次官 50代後半 2300万円)

一方、このコロナ禍にあって、日々目の前の国民と向き合っている保健所、地方自治体、医療・介護・福祉現場で働いている人達。彼らの仕事はエッセンシャルワークという言葉で表されているが、はたしてその労苦に見合う待遇を受けているだろうか。否、さらにもっと多くの職種の人たちが感染リスクにさらされながらも休むことができずに低い給与で働いている。

以上は、オーソドックスな読み方だろう。僕には少し残念な点がある。グレーバーは、国家を取り巻く権力は極力弱い方が良いと考えているのだろうが、国家権力を支えているだろう具体的な仕事についての分析がないことだ。例えば思いつくままに、国家官僚、国会議員、自衛官、裁判官、検察官、国税調査官、労働基準監督官・・まさに国家権力を形成している人達である。彼らの仕事は、ブルシット・ジョブなのか、エッセンシャルなのか。また、国家権力と一体でなければならないのか。例えば、地方裁判所だけではこと足りないのか。国家という概念が世界中において無くなれば軍隊は不要になるのか。

少し現実に目を移すと、コロナ禍においてこれまで国は何をしてきたのだろうか。否、絶対に国でなければできない仕事はあったのだろうか。体調不良者からの聞き取り、PCR検査、入院、治療、各種給付金の支給、ワクチンの接種という各種の業務の遂行。地域ごとに感染情況が異なるため緊急事態宣言の発出の全国一律で行うことに意味があるのだろうか。・・結局、国は何から何までを地方や現場に丸投げしてきた。また、全く何も国民のために機能していないことが見えてきた。(国債を発行して日銀が発行した通貨を財源にしていることを除く)

国家権力を否定し、国家を廃絶しても生きてゆける、その方が良いと思える道筋を描くためには、国に関わる仕事をブルシット・ジョブであると理論建てすることが必要だと考える。はたしてできるだろうか。

 

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ジェームズ・C・スコット 『実践 日々のアナキズム』 ④ 「国家を考える」ノオト その14   

2021-03-06 09:51:34 | Weblog

福島第一原発事故から1年後の3月16日に吉本隆明氏が亡くなってからもうすぐ9年が経つ。僕は時々想う。このことについて吉本氏ならどう考えるだろうかと。コロナウィルスの流行とそれに伴う自粛などの社会現象について。地球温暖化対策への翼賛的唱和情況について。そしてちょっといいよと思う小説家、思想家は誰?吉本氏の答えはおそらく「それは自分で考えることだよ!」と。

 

『実践 日々のアナキズム―世界に抗う土着の秩序の作り方』(ジェームズ・C・スコット著 岩波書店 2017年刊)④「国家を考える」ノオト その14   

(僕)コロナ禍以前には都道府県知事がこんなに露出することはなかった。都道府県は、国の取次代理店みたいなもので、特に高橋はるみ道知事時代は主体性を持って行政を担っていたとは評価できない。だが、コロナ禍にあって地方自治体から発せられる日々の数字として見えてきたことは、こんなにも地域によって違いがあるということだ。この地域性に応じて実際に国民と向き合っているのは、大枠の方針を発する都道府県と、現場で直接市民に対応している市町村(個別の保健所、医療機関など)ということが見えてきた。現状で国にしかできないことは、赤字国債を発行して日銀からお金を借りて地方に配ることくらいしかないと思う。

これを踏まえて国家をどう捉えたらよいかを考える。僕は、今の国民国家という枠組みが賞味期限を迎えていると感じている。コロナ対応や介護などの福祉サービスの分野などでは国家を単位として全国一律の対応では、国民それぞれの事情に応じたきめ細かいサービスはできない。では、外交や防衛はどうか。国と国がそのメンツをかければかけるほど問題の解決が遠のいているのではないだろうか。僕らは、突き詰めて考えた時にはたして国家なき社会というイメージを持つことができるだろうか。例えば、国境を意識することなく、北海道から北方四島を含む千島列島、サハリン、ロシアを人びとが自由に動き回る。九州から対馬、朝鮮半島、中国へ、沖縄、台湾、中国へ。

著者のスコットは、日常における小さな不服従の実践から、国家を支えている秩序を再考するヒントを提示する。

 

『第五章 政治のために』(断章22~断章26)から学ぶ。

(断章22 討議と質―質の計量的測定に対する反論)略 (断章23 もしそうなったら・・・?監査社会の夢想)では、(P136)「(デジタル引用指数、テスト、費用便益分析といった測定方法の誘惑力は)正当な政治的問題と専門家によって統治される中立的で客観的な行政的執行へと変えるように設計された、巨大で人を欺く『反政府マシーン』なのである。この非政治化の巧妙なごまかしは、アナキストと民主主義が共に大切にしている政治における相互性と学習可能性への信頼が、深刻に損なわれていることを隠蔽する。」、及び(断章24 当てにならず、必然的に劣化する)では、(P140)「測定方法の存在そのものが、その根拠と信頼性を損なう一連の出来事を引き起こしてしまう。」、「測定方法が行動を植民地化する。」と、費用便益分析などの量的な測定方法は、中立的で客観的な指標に見えるが、相互性や学習可能性といった質的な把握の役に立たず、さらに人を欺くものだと否定する。

(断章25 民主主義・業績・政治の終焉)では、(P146)「質を量的に測定したいと思わせる二つの起源。相続された特権や富や権限に対抗して、機会の平等を実現しようとする民主的な信念。業績を科学的に測定できるという近代主義者の確信。数値で表わされた解釈の必要が一切ない事実が存在している。」、(P148)「測定可能な業績主義という考えは、・・かつて専門家階級が享受していた自由裁量権を大幅に切り詰めた。」と、上記と同じく、量的な測定では、民主主義や業績の質的な側面を表現できないと述べる。

(断章26 政治を弁護する)では、(P148)「質を評価するために、量的に計測された業績と『客観的な』数的査定にもっぱら依拠することの真の被害は、活発な民主的討議の対象となるべき重大な問題を議論の場から取り除き(非政治化)、中立的な専門家を称する者たちの手に委ねることから生じる。」、(P153)「こうした技術(社会科学引用索引、大学進学適正試験、費用便益分析)は、偏りや依怙贔屓といった批判を払いのける一方で、政治的アジェンダを不明瞭かつ手の届かない手続きと計算慣習のなかへと囲い込むことに見事に成功した」、(P155)「反政治マシーンとは、公衆を討論から排除する一方、技術的な行政エリートが、単に透明な技術的計算をしているだけだと、懐疑的な公衆を説得するための手段なのである。」と、繰り返しになるが量的な把握では、民主主義にとって重要な政治的な問題の議論を遠ざけてしまうと述べる。

『第六章 個別性と流動性』(断章27~断章29)

(断章27 小口の善意と同情)では、(P159)「社会的(人道的)行為の個別性」、(P160)「まず行動して、その行動の論理を後から引き出した、抽象的な主義は実際の行動の子であって、その親では決してなかった。」と、各自の個別的な行動、論理の前に行動することの重要性を述べる。

(断章28 個別性、流動性、そして偶発性を取り戻す)では、(P163)「歴史学者や社会科学者たちが、その行動を考察しようとしている歴史の当事者らに経験された混乱状態や流動性や無秩序な偶発性にはほとんど関心を寄せないことは、驚くに当たらない。」、(P165)「多くの歴史は、(偶発的な出来事)の偶発性を消し去るだけでなく、歴史的な登場人物の当人たちが決して思いもしなかったであろう意図や意識に起因するものと、暗黙裡に決めつけてしまう。」と、これまでの歴史を動かしたのは、個別性とともに、意図せざる流動性、流動性であったと述べる。

(断章29 歴史の虚偽をめぐる政治学)では、ロシア革命を例にして、(P168)「ボルシェビキは、革命の勃発においてほとんど何の役割も果たさなかった。ボルシェビキが権力を掌握するや、偶発性や、混乱や、自発性、そして他の多くの革命的グループを物語から排除した説明を作り始めた。」。また、北朝鮮の軍事パレードを例にして、(P169)「秩序や規律を目に見える形で表現することは、権威主義的な演出技法の主要な部分である。」、(P171)「『秩序のミニチュア化』公的な権力の象徴的な作業の大半は、秩序や熟慮や合理性や統治の裏側で、実際に作動している政治権力の混乱、無秩序、衝動、誤謬、その場しのぎなどを、精密に覆い隠すことである。」と、政治勢力が権力を掌握した後に作った歴史の虚偽性を批判する。歴史を動かした真の起因は、無秩序、衝動、誤謬、その場しのぎなどであると述べる。

(P172)「1.ほとんどの革命は革命結社の働きによるのではなく、自然発生的で即興的な行為(マルキストの語彙では『冒険主義』)の凝結である。2.組織化された社会運動はバラバラの異議申し立てやデモの産物であって、その起因ではない。3.人間の自由のための偉大なる解放が獲得されたのは、秩序だった制度的な手続きの結果ではなく、無秩序で、予想できず、自然発生的な行動が社会秩序を下から断裂させていった結果である。」と、最後にまとめる。

 

 

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