晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

詩論 吉本隆明ノオト その10

2015-10-31 20:33:45 | Weblog

 安保法制で戦争をするための法的な整備は整った。次の課題は、いざ派兵が始まってからの戦費調達である。マイナンバー制度は、個人の収入、預金や財産を補足して課税逃れを防ぐのが目的といわれているが、僕は戦費調達にあると思う。あなたはこんなに預金や財産を持っているのだから、国策に協力するべきだ。世論を誘導し、「非国民」という言葉をチラつかせながら戦時国債の購入を強制するのである。NHKBS1スペシャル「戦争とプロパガンダ~アメリカの映像戦略~」(9月23日放映、再放送10月25日)を見て思った。

 

 詩論 吉本隆明ノオト その10

 『吉本隆明〈未収録〉講演集 全12巻』(筑摩書房)もついに11月刊行予定の第12巻『芸術言語論』で完結する。今回は、第10巻『詩はどこまできたか』(2015年刊)から、1977年10月20日に京都精華短期大学で行われた講演『戦後詩における修辞論』を素材にする。というのは、僕は詩にはあまり親しくしたことがなく、特定の詩人に凝ったこともないので、吉本の詩論を読んでも特に感じるところが無いからである。その中で、この講演だけは、現代詩と当時流行っていたフォークソングが素材にされていたので、とっつきのいい詩論だったのである。

 吉本氏は、「私どもの詩、すなわち専門の詩人といわれる人たちと、皆さんの詩、それは素人の詩を意味していると思うが、それらは食い違うと言う。言い換えると、現代詩人とフォークソングの作り手を比較するとフォークのシンガーソングライターの詩は幼くて稚拙だ」と言う。しかし、現代詩人の詩が縮こまってしまっているのに対し、フォークは臆面がなく言葉に解放感があるという。

 僕は、詩とフォークの歌詞を比較することにそもそも無理があると思う。フォークや歌謡曲、演歌には、歌詞と共にメロディ、リズムとテンポ、そして何より大衆に開かれている。ライブでは演奏者の息遣いがあり、ファッションがあり全身芸術になっている。一方の詩にはある種の閉塞感が漂う。ひとり孤独に言葉の味わいや余韻を感じながら。吉本の評価には大いに異論がある。「大衆の原像」を掲げている氏に対してだからこその違和でもある。

 ただ、僕はこれまで漠然と感覚的に詩の言葉を受けとめていたのだが、この講演から学んだことは、詩の読み方である。「直喩、暗喩、無定形な喩がどういう風に詩の中にまじえるかというところに詩人の個性があらわれてくる。これは、メロディに乗せることもできないし、音声でいうこともできない世界で、黙読しながら意識の流れや、その切断の仕方を追っていく以外に理解する方法はない。」というものである。そこが言葉の冴えが現れる瞬間で、大衆詩を振り切るのであるとされる。

 また、「否定を意識的にいうことによって、あるなにか本当のことをいいたい。本当のことは言葉ではあらわされない。あるいは、逆の形であらわされるかもしれないけれど、それが本当のことだということがわかる。」今後は、これらを意識して詩を読んでみようか。

 とはいえ、現代詩が今どのあたりにあり、どのような情況になっているのか、ほとんどの人はわからない。何より興味すら持っていないという人が圧倒的と思う。そこが問題なのではないか。 次は、理系論を考えている。

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『皇后考』 その4 

2015-10-25 16:45:06 | Weblog

 札幌で初雪。急に寒くなったので今日の散歩は中止。冬のリハビリ―どうするか。車で出かけると、ここもランニングした道だな。この坂はきつかったな、と思い出します。こんな形でマラソンをやめてしまうのだろうか、いやいやまた走れるようになるさ、と心が揺れ動きます。

 

 『皇后考』 その4

 引き続き『皇后考』(原武史著 講談社 2015年刊)第17章から第23章(終章)までの昭和時代をノオトする。

 1926(昭和元)年、皇太子裕仁が天皇になったのに伴い、弟の秩父宮雍仁(やすひと)は皇位継承権第一位となった。1928(昭和3)年皇太后となった節子の意向もあり、秩父宮と松平節子(勢津子と改名)が結婚する。当時の問題は、裕仁と良子の間に、女の子は産まれるが、男の子が生まれないことにあった。そこで、秩父宮に期待がかけられた。だが、1933(昭和8)年、第五子として第一皇子明仁(明仁)親王が生まれ漸くにして解決することになった。

 著者の原氏は、(P444から引用)「天皇家を継ぐべき長男(第一皇子)の家系が断絶し、次男(第二皇子)の家系に皇位が継承されるという事態は、2006(平成18)年に秋篠宮夫妻に悠仁(ひさひと)親王が生まれたことでにわかに現実味を増した。」とする。

 昭和天皇は、幼少の頃から皇太后が自分よりも秩父宮を可愛がっていることから、戦争が続く中で自分に万が一のことがあれば、幼い皇太子が天皇を継ぐことになるが、摂政に皇太后がつくような事態を心配していた。

 敗戦。天皇退位論が盛んになり、もし天皇が亡くなった時は、本来ならば第二皇子の秩父宮が摂政になるべきだが結核の療養のため、第三皇子の高松宮が摂政となる可能性が高まっていた。もう一つは、皇太后が摂政になる可能性も残されていた。この頃、昭和天皇はこの退位問題で不安定な精神状態にあり、キリスト教(カソリック)の信仰に関心を持ち始めていた。皇后も皇太子の家庭教師ヴァイニングから週2回の個人授業を受けていた。著者は、天皇がキリスト教に接近した理由として、「宗教としての資格を欠くがゆえに破局を招いた神道をまるごと捨てて改宗することで、戦争責任と米国からの相対的自立ということの二つの課題にこたえることができると考えたのではないか。」と述べている。

 1951(昭和26)年サンフランシスコ平和条約の調印でこの国の独立の回復が認められ、極東国際軍事裁判で自らの戦争責任を問われることがなかったことから、天皇の抱えていた葛藤が消え、同時にキリスト教との接触も減ったのである。

 民間出身の正田美智子はキリスト教的な環境で育っていた。皇后良子や皇族妃の間には不満が内在していた。一方、天皇は美智子に好感を持っていた。1959(昭和34)年、皇太子25歳、皇太子妃24歳で結婚。著者は、真偽の定かでないエピソードを挟む。(P645)「皇太子妃美智子を最も憎んでいたのは、お見合いをしたこともある三島由紀夫であったろう。」と。

 最後に著者は、(P649)「皇后は自身の本意ではなくても、天皇性の強化に作用している。それどころか、カリスマ的権威を持った現皇后こそは最高の政治家である。もし皇后は皇后として十分な役割を果たさなければ、皇后に匹敵する有力な皇族妃が出てこない限り、象徴天皇制の正統性そのものが揺らぐことをも意味する。この仮定が決して荒唐無稽でないことは、近い将来に証明されるであろう。」「生まれる前からの皇后はいない。天皇とは異なり、血脈によって正統性が保たれていない皇后は、人生の途中で皇室に嫁ぎ、様々な葛藤を克服して皇后になることが求められる。」と結ぶ。

 現在の皇室の情況をみると、著者の最後の言葉は、大変残酷に響く。男系男子、一夫一婦制を前提とする限り、この制度の継承には生物学的な限界があると推測される。天皇制についての僕の見解は未だ煮詰まらないので他日を期すことにする。

 

 

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『皇后考』 その3

2015-10-23 20:48:43 | Weblog

 新聞では小さな記事だが国連を舞台に中国が歴史論争をしかけている。南京大虐殺、化学兵器の使用、現在の潜在的な核兵器開発など日中の見解が真っ向からぶつかっているようだが、その内容が報道されない。僕は、この国が、ヒロシマ、ナガサキを忘れないように、否、原爆を投下した国が米国ということは忘れてしまっているようだが、被害を受けた側はいつまでも忘れることはないと思う。過日、日テレのドキュメンタリ番組で南京における中国軍捕虜虐殺を行った元陸軍兵士の証言を放映していた。この時期にこのような番組を作ったスタッフの志には敬服したいが、そこで扱われた事実は虐殺5千人規模であり、いわれている数十万人というレベルからはごく一部にすぎない。あえて、小さく見せるという意図があったとは考えたくないが。

 

 『皇后考』 その3

 引き続き、『皇后考』(原武史著 講談社 2015年刊)第6章から第16章までの大正時代をノオトする。現行の天皇制が明治時代になってから、あわてるように構築されていったことがわかる。

 1900(明治33)年皇太子嘉仁(後の大正天皇)20歳と皇太子妃九条節子15歳(1884年~1951年)は、同年に定められた(!)皇室婚嫁令に従い「賢所大前の儀」と呼ばれる初めての(!)神前結婚式を挙げた。ここには、秘められた前史がある。1893(明治26)年、嘉仁は伏見宮貞愛(さだなる)親王の第一王女、禎子(さちこ)と婚約したが、1899(明治32)年に禎子の健康上の理由、子どもを産むことができるのかという懸念、から婚約を解消していた。それは、欧米化を象徴する、一夫一婦制の確立を図る必要があり、皇子を確実に産める女性が望まれていたためである。

 そこでお妃候補に浮上したのが節子であった。しかし、節子は黒姫様と呼ばれたように容姿に問題があった。1901(明治34)年、節子は第一皇子裕仁(後の昭和天皇)を産んだ。原因は様々想像されるが、嘉仁には宮中の女官に次々と手を付ける「御癖」があり、節子と嘉仁は別々の行動も多く、節子は精神的に落ち込むことがあった。

 1912(明治45)年、明治天皇(睦仁)死去。明治天皇は、一世一元制の試行(!)に伴い、元号を諡(おくりな)とした初めての(!)天皇となった。皇后節子は、裕仁よりも雍仁(秩父宮)に愛情を注いだ。

 まもなく、大正天皇(嘉仁)の体調に異変、「御脳力の衰退」が見られるようになった。体調問題があるため、皇太子妃選びが急がれ、皇后節子は大きな発言力持つようになっており、1918(大正7)年、皇太子裕仁の皇太子妃に久邇宮邦彦(くによし)親王の長女良子(ながこ)が内定した。しかし、1920(大正9)年、良子の母方の血統に色覚異常の遺伝があることがわかり、良子内定が危うくなった。これは、宮中某重大事件と呼ばれている。

 裕仁は、訪欧の後、1921(大正10)年摂政となった。大正天皇は天皇としての権限を完全に失い、療養に専念することになる。1923(大正12)年、帝国議会に向かう途中、裕仁は虎ノ門でアナーキスト難波大輔に狙撃される。弾はそれて無事だったが、その原因は皇太子が陸軍特別大演習に際して地方を訪れたとき、難波の許婚(いいなずけ)を寝取ったのを恨んだからだという噂が流れた。

 1924(大正14)年、裕仁と良子は結婚。1925(大正14)年、第一皇女成子(しげこ)が誕生。1926(大正15)年、大正天皇死去。時代は昭和へ。

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『皇后考』 その2 

2015-10-17 16:02:57 | Weblog

 昨日、韓国の朴槿恵がオバマと会談した。少し前だが、アへがワシントンに行き、国連で大見得を切って演説したが、オバマとは会っていない。会えたのはロシアのプーチンだ。安保法制であんなにがんばったのに、オバマからお褒めの言葉もかけてもらえない僕ちゃんはどうなっているのだろうか。

 与党外交の手詰まり状況を公明党が打開しようと動いている。僕は以前から、野党の展望は外交にしかないと思っているが、今の民主党をはじめ野党の政治的感度はあきれるほど鈍い。選挙(来夏の参議選)は、結果であって目的ではない。

 

 『皇后考』 その2            

 2章から5章まで、明治時代をノオトする。第15代神功皇后(じんぐう)(在位は西暦210年~269年)は、三韓征伐を行うなど男勝りの勇ましさで、明治になり紙幣に印刷されるなど国民的な人気を得ていたが、様々な論争を経て大正末の皇統再整備により皇統から外された。なお、平成天皇明仁は第125代になる。

 また、神武天皇が天皇家の創業者であることも、明治24年の天皇勅裁によって最終的に決められた。それまでは、神武の曽祖父ニニギという考え方もあった。それだけ、大衆の間で神武の知名度が低かったのである。

 神功皇后を皇統から外したため、第1代神武天皇(在位BC660~BC585)・・第13代成務天皇(131~190)―第14代仲哀天皇(192~200)―神功皇后(200~269)―第15代応神天皇(270~310)となり、大空位時代が生じることになった。

 明治天皇には、皇子5人、皇女10人がいたが、全て側室の子であり、皇后美子は一人も子を産んでいない。大正天皇(嘉仁)は、1879(明治12)年に側室の柳原愛子(なるこ)から生まれたが、生まれつき病弱であり、皇后美子は救いを求めて日蓮宗に傾倒していく。

 著者の原氏はこの事態を、宮中祭祀のほとんどが明治になってから「発明された伝統」であることを、天皇も皇后も同時代人としてよくわかっていた。だからこそ、皇后は、(建前上の神道ではなく)日蓮宗というれっきとした宗教に最後のよりどころを求めようとしたのではないか、と分析する。

 ちなみに、明治天皇の像も御真影という名のフィクションであることを多木浩示氏の「天皇の肖像」(岩波現代文庫 2002年刊)から引用している。

 1912年、明治天皇が死去し時代は大正になる。皇太后になった美子も1914(大正3)年に亡くなる。

 本書において、天皇制が明治になってからの擬制であることが、随所で明らかになっており、僕はそのことをここにノオトしておきたいと思う。

 

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原武史 『皇后考』 

2015-10-07 20:38:16 | Weblog

 アへが内閣改造したので、テレビでは記者会見をやっている。改造内閣のスローガンは「一億総活躍社会の実現」だそうで、具体的にはGDP600兆円、出生率1.8、介護離職者ゼロが目標だそうだ。

 安保法制成立の後は、戦争できる国家を目指して、「産めよ! 増やせよ!」の富国強兵路線というわけだ。「一億総」という言葉からは、そこに違和を感じる者を非国民として容赦なく排除するというメッセージを感じる。そして、いよいよ私生活へ国家が介入するぞとのメッセージと。

 

 『皇后考』(原武史著 講談社 2015年刊)

 このブログ2013.3.31『滝山コミューン』で著者の原武史氏は、1970年代に実践された集団主義的な教育方法に内在する近代天皇制やナチス・ドイツにも通じるような権威主義に対して無自覚な教師たちを批判した。2012.11.5『団地の空間政治学』で僕は、1960年前後に日共幹部の上田耕一郎、不破哲三兄弟がともに都内の団地に暮らしながら、身近な要求を取り上げた自治会活動などを担いながら、徐々に党活動に傾いていったところに注目した。

 『皇后考』を読んだきっかけは、このブログとリンクしている「愛犬日記」に僕は、2015.9.8付けで以下のようなコメントをした。

 「生き神様 (晴走雨読) 占領軍が予めこの国の文化を分析し、統治のためには天皇制を残した方がいいという判断をしたのだろうと思う。もし戦犯として天皇を裁いていたらどういう情況になっていただろうか。それほどに、この国において天皇制の影響は想像以上に根深いものがあると思う。

 しかし、天皇家の行事からもわかるが、本質的には天皇は稲作文化を背景に持つ生き神様であることから、水田農業の衰退、コメの消費量の減少と歩みを同じくして、このままではいずれ衰退し消滅に向うと考える。

 僕も、天の邪鬼さんが言われるように、天皇の政治的発言は内容からでは無くフライングだと思う。今の天皇は、平和主義的な発言をしているが、次の方、その後の方が、どのようなお考えかが伺え知れないので。」

 それで、擬制としての天皇制をもう少し裏付けてみようと思ったからだ。

 本書は、650ページを超える大作でありながら、皇后を核に据えながら多くの資料や著作を丹念に調べ、明治以降の天皇制を分析しており、一気に読ませる力を持つ興味尽きない著作である。ただ、この著者の欠点は、事実はほぼ日単位で詳細に描かれるが、自分の考えがほとんど表明されないことだ。それは、題材が題材であることから、筆禍事件を恐れるあまり慎重な言い回しになっている部分もあると思う。また、僕としては「えっ!そうだったのか。」と新たにわかった事実もたくさんあった。

 第1章「序―ある詔書をめぐって」で本書を貫く視点が示される。その詔書は、1926(大正15)年10月21日、療養している大正天皇に代わって摂政となっていた皇太子(昭和天皇)によるものである。驚くことに、明治維新以降、歴代天皇を確定する作業を進めていたがこの時期まで皇統(大統譜)が定まっていなかったのである。

 この詔書で、第98代に長慶天皇を加え、神功皇后を除いたのである。現在の平成天皇は第125代である。大日本帝国憲法には、この国は万世一系の天皇が統治すると書かれているが、万世一系が確定されていなかったという全くいい加減なものだったのである。

 もう一つは、神功皇后をこれまでの皇統から外す、仲哀天皇に次ぐ第15代天皇としては認めないものである。記紀には、三韓征伐(新羅、高句麗、百済)をした勇ましき女帝として描かれ、この人物像が、明治、大正、昭和のそれぞれ皇后たちに影響を与えたという。

 

 

 

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