晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

読書 走りながら考えたこと 

2013-07-21 17:32:32 | Weblog

 午前中に20km走、風が少しあり湿度が低かったが、気温が28度から29度あったのと日差しがジリジリと暑かったので結構きつかった。走り初めから汗が出始める直前までの身体の慣らし運転中は苦しい。その後は、快適に走れる時間と苦しくなる時間が交互にやってくるのできつい時間を我慢すれば必ず楽になると信じて走っている。

 今日は、走りながら読書について考えた。ところで、今読んでいる、読みかけの本は何冊あるのだろうかと思った。人によっては、読み始めたら必ず最後まで読み通すか、その本に見切りをつけてから次の本を読むと決めている人がいる。

 私の場合は、「並行読書」といってもいいだろうが、テレビの連続ドラマを週に何本も観るように、何冊も同時に読んでいる。気の向くままこの続き、否、今日購入したの、といった具合にフラフラ浮気しながら読んでいる。時々、よみ始めて一気に最後までというのがあるが、そんな本にめぐり合うのは幸せ。読みかけでそのまま放置状態も結構ある。

 印象に残ったフレーズに線を引き、たまにメモを取ったり、ノオトしたり。線を引いたり書き込みをすると古書店での買い取り価格が安くなると言われているが、基本的に古書店に本は売りたくない。

 書店では、ブックカバーを掛けますかと言われれば、単行本はお願いすることにしている。読みながらブックカバーにメモすることもある。ただ、ブックカバーの背表紙部分に几帳面に題名を書き込まないので、私の横にある本の山、どんな題名だったのか外観から見ても開かないとわからない。

 基本的には、自分の部屋か寝床で読むことが多いが、PCを立ち上げながら、テレビを点けながらといった「ながら読書」もする。集中が必要な本、楽しみ中心の本によって使い分ける。

 電子書籍とは将来とも無縁ではないかと思う。私にとって本の厚みが重要である。あとどれ位ページが残っているのか、厚みから実感できる。装丁の手触り感も大事にしたい。

 子どもの頃から漫画(コミック)が苦手だった。絵と短いセリフの構成ではどうも理解できないと言うのか、良くわからなかったのだが、最近ようやく安彦義和氏の作品だけは読みたくなる。少し成長したと思う。

 昔から小説も苦手だ。登場人物があまり多くないと何とかわかるが、人物がたくさんいるとわからなくなる。テレビドラマも同じである。ストーリーを見失いことがある。ちょっと学習障害(LD)かも知れない。

 私の中では、走りの世界が美味しいものを食べたり、本を読んだりすることのできる身体的な基礎になっている。昨年のインフルエンザ罹患、その後長く続いた後遺症の反省から、今年の夏は精一杯走りこんでおきたいと思っている。

 

 

 

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ガンバレ、JR北海道 走りながら考えたこと

2013-07-15 17:49:25 | Weblog

 奈良駅(JR西日本)です。

 JR北海道がちょっと大変です。数日前にはエンジンが壊れ、昨日は焦げくさい臭いが充満して、今日は配電盤から出火だそうです。

 今日は気温27度の中、汗の出も良く爽快な気分で走りながら考えました。これは技術と技能の違いではないかと思いました。JRだけでは無く、様々な会社で団塊世代を中心に社員の大量退職が続いています。どこでもベテラン技術者が持っていた経験の継承が課題となっています。

 「技術」の継承は設計図どおりにモノを作ったり、マニュアルに従ってメンテナンスをすれば何とかなると思います。しかし、技術者というか現場の職人といわれる人たちが持っていた「技能」の継承はどこにも書いていない経験値の占める割合が大きいので難しいです。

 機械には全く素人ですが、理科系の私が想像するに、エンジンなど回転系の機械の場合、部品と部品の関係があまりにキチッと精密に噛みあいすぎると円滑に動かないのではないかと思います。ほんの少し「遊び」が必要です。音や臭いやその日その日の機嫌を伺う必要があると思います。

 また、不調の原因が判明したので悪い部品は交換すれば良いと思いますが、私たちの経験からも慣らし運転が必要だと思います。古い機械の中に、新しい部品を入れて、いきなり満開で回してはギクシャクしてしまうように感じます。

 機械というのは無機質な部品の集まりのように見えますが、相互のバランスをとらなくてはならない有機的なものではないかと思います。時代は電子制御ですが、人間が介在し、生き物のように機嫌をとってやる必要があるのではないかと思います。とても原始的なことを考えましたが、どうもその辺りに問題があるのではないかと思いました。

 鉄道事業は、車両、軌道、信号、ダイヤ、サービス・・それぞれ担当者がいて、バランスよく機能する必要がある総合的な産業だと思います。一鉄道ファンとしてJR北海道はこの試練を乗り越えてほしいと思います。

 

 

 

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『吉本隆明「心的現象論」の読み方』 その4

2013-07-09 20:50:37 | Weblog

 『吉本隆明「心的現象論」の読み方』(宇田亮一著 文芸社 2011年刊) その4            

 私は、生半可な理解ながらも、本書から個人幻想、対幻想、共同幻想という「ヒトの心の見取り図」をもとに、時代精神を捉えることのできる道具を手に入れることができたと思う。

 参議院選挙が迫っており、争点は「ねじれの解消」と伝えられるが、それは争点では無く選挙の結果であろう。私は、共同幻想の視点から投票率に注目したい。それは消去法で選択しても答えのない政党状況の中、大衆は国家という共同幻想にどこまで失望しているかが数字として表れると思うからだ。

 宇田氏は本書の最後でいう。現在の“きつさ”は、〈人は生涯、競争して自分だけは生き延びろ〉という生活を強いられているからだ。「自分自身のために頑張りなさい」「自分の夢を追いかけなさい」という時代のメッセージが聞こえるという。それは、「お国のために」「会社のために」などという共同幻想を破壊した反面、人と人とのつながりをも断ち切ったのだ。

 「私はデキル人間だ」「私はプラス思考だ」「私はポジティブだ」と〈強迫的に“個”を強調すること〉が生きる上で大切な心得となっており、かつて無いほど〈自分を賢そうに見せる時代〉になっているという。

 この時代精神の中に子どもたちは投げ出されている。“普通の子ども”では駄目なのだ。“特別な付加価値”を持つことを強要されている。“ふがいない自分”“みっともない自分”に直面した時、子どもたちは「ふがいなくても、みっともなくても生きてりゃいいんだ」と言えなくなっている。誰もが“自分の夢”を語らなくては生きることを許されなくなっているのである。

 今、教育現場では子どもたちに「生きる力」を身に付けさせることが目標となっている。「夢」や「希望」を抱き、「大きな志」を持って目標に向かおうというベクトルはあまりにも一方方向を向いていないか。このメッセージは、子どもたちを追い詰めていないか。みっともなくてもいいんだよ、という「生きる力」があるべきと考える。

 吉本隆明は自戒を込めて、「うちは夫も子どもも申し分なく、並びなきいい家庭を作りました、と言えることができたらそれでいいんじゃないか。」という言葉を残している。

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『吉本隆明「心的現象論」の読み方』 その3

2013-07-05 20:32:55 | Weblog

 『吉本隆明「心的現象論」の読み方』(宇田亮一著 文芸社 2011年刊) その3          

 脳死判定を受けた人体から麻酔をかけずに臓器を取り出そうとすると“死んだはず”の人体は苦痛の表情を浮かべるという。『記憶する心臓』(角川書店)で、心肺同時移植を受けた著者のクレア・シルヴィアが不思議な体験を語る。ビールが好きでなかった彼女が、手術後すごくビールを飲みたくなった。彼女は自分の中にもう一人の自分を感じるようになり夢の中にティムという若者が出てくるようになった。その後、彼女は臓器の提供者を調べ上げ、その人の名前がティムということがわかる。臓器移植の本質を深く考えさせられるエピソードである。

 吉本隆明にとって解剖学者三木成夫の著書『胎児の世界』との出会いは衝撃的であった。You Tubeで三木氏の講義を聴くことができる。三木が述べているのは2点である。

 ①胎児の成長過程は生命体の進化の歴史そのものだ。胎児は、魚類→両生類→爬虫類→哺乳類という成長のプロセスをたどる。三木は、胎児が魚類から両生類へ変わる時期に母親の“つわり”が始まるという。それは、かつて生物が海から陸へ上がった時に味わった“苦しみ”なのだという。

 ②人間の身体は、植物と動物の身体から成り立っている。動物の腸管は植物の茎である。さらに、心臓を中心とした内臓全体(循環器系、内臓系)は植物の構造である。また、脳を中心とした体壁(感覚器系、運動器系、神経系)は動物の構造である。

 さらに、三木は植物、動物の構造を基盤とした“心の世界”を論じた。“ヒトの心”には、体壁幻想(動物の心)と内臓幻想(植物の心)があるという。体壁幻想は、外界を感覚器官(視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚)でとらえ了解する構造を持っている。内臓幻想は、概念的、心意的な内面世界や感情である。ただ、この三木の心臓を中心とした心の世界が存在する、臓器は思考するという考え方は、〈異端〉である。

 しかし、吉本も三木のいう内臓幻想の考え方までは承諾していない。しかし、体壁幻想だけでは心の世界全体をとらえきれないということはわかっていた。

 初めに述べた臓器移植のエピソードから脳死をどのように考えたらよいのだろうか。脳死を体壁の死、感覚器官が停止し動物の構造が停止した状態とする。そのとき、内臓(植物の構造)は生きていて内臓幻想も当然生きているのである。すると、臓器移植とともに内臓幻想の生命記憶も一緒に移し替えられるのだろうか。

 

 

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『吉本隆明「心的現象論」の読み方』 その2

2013-07-01 21:00:45 | Weblog

 甘樫の丘から飛鳥時代を眺める。

 

 『吉本隆明「心的現象論」の読み方』(宇田亮一著 文芸社 2011年刊) その2            

 北大前の古書店、南陽堂と弘南堂で吉本の著作を探してみたが、店主曰く、吉本の本は、値段はそれほどつかないけれど入荷したら直ぐ売れてしまうよ、と。『心的現象論』は、1971年に出版された『序説』に続いて、『心的現象論本論』が2008年に文化科学高等研究院から刊行されている。価格は、普及版で8,000円+税と少々高い。吉本全集40巻を晶文社が来年の春から刊行するという。

 著者は、「その1」で示した吉本の「心の見取り図」を使って、心の不調、対人関係の不調が分析する。

 ①個人幻想の不調は、自己肯定感の低下となって表れる。病名では、うつ病(貧困妄想、罷業妄想、心気妄想)で、「過去の未完了」過去という時制に釘付けにされる。自殺

 ②対幻想の不調は、空虚さ、不信感、怯えとなって表れる。病名は、解離性障害(自分自身の人格の多重化)で、「現在への没入」現在だけに停滞し、息苦しさを体験する。ストーカー、性的逸脱、DV、児童虐待、怨恨殺人

 ③共同幻想の不調は、孤立感、妄想、幻覚となって表れる。病名としては、統合失調症(自分自身の行動が第3者の意志に操られていると感じる作為体験、自分の心の中が周囲の人たちに読まれていると感じる思考察知)で、「未来の不安の先取り」明日を確実に安心できるものとして受け取りたいと感じる。いじめ、ひきこもり、カルト、自閉症、ADHD

 著者によれば社会事象も心的現象論を使いことにより読み解くことができるという。

 育児は対幻想そのものであり、児童虐待は母親(養育者)自身の安心感、安堵感の低さが引き金になる。子どもに接するうえで大切なことは、母親自身がどういう状態(to be)が重要である。しかし、育児の専門家は、何をすべきか(to do)を強調しがちである。

 ひきこもりは、共同幻想の不調であり、集団の共同規範に関わりたくない生き方であるが、集団の中で安心して過ごすことのできる体験を学ぶことが必要である。

 うつ病も、本来は自己幻想の不調であるが、現在では、個々人が自分自身の中で忠実に振舞おうとするが、共同幻想の構造の強さと重層性と関連を持つ。

 このように『心的現象論』によって、精神や対人関係の不調を解明することができるというのが、宇田氏が吉本の中に発見したものである。本書は、『読み方』ではなく、ひとつの完結した書物である。

 

 

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