晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

原武史 『地形の思想史』 その3

2020-06-30 17:12:41 | Weblog

解けた疑問、解けぬ謎。アンリ事件を官邸対検察の構図で見る。最初の一手は1月の広島地検の河井事務所ガサ入れ。検察が相当の覚悟を見せた。次は、官邸が稲田検事総長を退職させようとしたが失敗、それで黒川を定年延長。このまま8月に検事総長に据えかえればよかったのに、なぜあえて検察庁法案を提出したのか?結果的に法案は世論の力で廃案。誰が文春にリークしたのか?黒川は賭け麻雀で失職。この闘い、検察がどこまでやるか。

 

『地形の思想史』 その3(原武史著 角川書店 2019年刊) 

著者の旅は続いた。

第5景「湾」と伝統

訪れた場所は、神奈川県の三浦半島と千葉県の房総半島にはさまれた東京湾の沿岸

エピソードは、記紀には東日本を舞台とした神話が少ないのであるが、ヤマトタケルの東征、その同行者である妃の一人オトタチバナヒメの伝説、その痕跡が残る地名の場所、神社などを訪ねた。

戦後教育において神話を教えることは戦前の軍国主義に繋がるということで全面的に否定された。記紀は天皇制の揺籃期にその正統性を証明するために編まれたものだが、書かれていることが全てフィクションかというと僕は違うと考える。事実は事実としてあったはずである。さらに記紀には書かれていない民間伝承などを含めると、この国の始源の姿がはじめて浮かび上がってくる。この国の歴史には始まりがないのだ。「たらいの水と一緒に赤子を流してしまった」ことが悔やまれる。このような意味から著者の旅の方法に興味を覚えた。

本書は、夫たちを海難から救うために行ったオトタチバナヒメの入水の話について、現上皇后美智子が1998年の講演で、彼女は「一方的に犠牲になったのではなく、任務を分かち合い一緒になって難局を乗り越えようとしたのだ」と述べたことを紹介している。上皇后らしい象徴天皇制における天皇と皇后の関係についての思いが感じられる。

 

第6景「台」と軍隊 

訪れた場所は、相武台と呼ばれる神奈川の台地

エピソードは、1937年9月に昭和天皇が座間に移転した陸軍士官学校(本科)の所在地を「相武台」と名付けたこと。当時の小田原急行鉄道の駅名も「相武台前」となった。戦後は米軍に接収されキャンプ座間となり、現在は敷地内の一部に陸上自衛隊が駐屯している。

昭和天皇が命名した由来は、①『古事記』中巻のヤマトタケル東征に「相武台」の地名がある。②「武ヲ練リ鋭ヲ養フニ適ス」から「武ヲ相ル」という意味からきている。著者は、現在も残っている1942年5月に完成した「御真影泰安用防空施設」跡を訪ねた。これは、名称とは異なり、御真影のためではなく天皇本人の避難壕である。ちなみに、前年9月には宮城(皇居)内吹上御苑に「御文庫付属室」と呼ばれる防空壕も作られている。

 

第7景「半島」と政治

訪れた場所は、鹿児島県の大隅半島

エピソードは、大隅半島には1936年に鹿屋海軍航空隊が創設され、敗戦濃厚な1945年2月に第5航空艦隊司令部が置かれ、この地から908名の特攻隊員が出撃している。戦後は、米軍の駐留を経て海上自衛隊鹿屋航空基地となった。ちなみに対岸の薩摩半島には知覧陸軍基地が置かれこちらからも特攻隊員が出撃している。

鹿児島には「いぶすき菜の花マラソン」に参加するための一度しか行ったことはないが、2泊だったので特に県内の見学をしなかったが、今にして思えば見ておくべき所がたくさんあったのだと悔やまれる。靖国神社にもあったが、戦争で命を落とした若者たちが遺した文書や身に着けていた品々から、生きていたという紛れもない事実が伺えた。理由の良し悪しを問わず、国家が国民を戦争で死なせてはいけない。

最後に、本書には著者の近影が掲載されているが、著者がファンと称している松本清張氏によく似てきたのではないかと感じたのは僕だけであろうか。

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原武史 『地形の思想史』 その2

2020-06-24 16:20:27 | Weblog

コロナ対策のための補正予算財源、経済活動の低下に伴う税収減の補てん。次々と発行する赤字国債で巨額に積み上がっていく国家債務。近々この問題が浮上するであろう。ポストアへは、7年間の後始末ばかりで全く良いことのない貧乏くじになるだろう。

 

『地形の思想史』 その2(原武史著 角川書店 2019年刊) 

著者の旅は続く。

第3景「島」と隔離

訪れた場所は、瀬戸内海に浮かぶ広島県と岡山県の島

エピソードは、1895年陸軍似島(にのしま)検疫所(広島県)、1905年同第二検疫所の開設。1930年国立らい療養所長島愛生園(岡山県)の開設。どちらの場所も皇室と絡む。

日清戦争では、大本営が広島に置かれ明治天皇がそこに滞在した。戦地からの帰還兵がコレラや赤痢といった病原体を持ち込む危険性があるため、万一天皇に感染することがあってはならないということで、兵士を似島に隔離して検疫を行った。第二検疫所の増設は日露戦争で兵が増えたためである。

今、僕らは新型コロナウィルス禍の真っただ中にあるが、人類と病原菌の歴史において必ず出てくるのは、第1次世界大戦の帰還兵がスペイン風邪のウィルスを各国に持ち込んだという事実だ。また、南米の先住民族が植民者スペインからもたらされた病原菌で多くの犠牲を生んだことも忘れてはいけない。

一方、ハンセン病患者の隔離施設である長島愛生園を開設するあたり、大正天皇の后節子(さだこ)=貞明皇太后が「御手許金」を下賜しお墨付きを与えている。

皇族が地方を訪問するに際して、必ずといっていいほど障がい者などの福祉施設を訪れる。日本赤十字社の名誉総裁は歴代の皇后が務めている。皇室と福祉の関係は昔から強いものがあるが、その原理的な背景について著者には掘り下げてほしかった。

 上記の2つのエピソードに共通するのは「隔離」という考え方である。「優生思想」、「衛生観念」、「清潔」という思想が諸刃の剣であることはナチスの例を見るまでもなく歴史から学ぶことができる。そして、現在流布されている言説、「PCR検査で早くして隔離すべき」、「手を洗おう」などという言説も一度疑ってみる必要があるのではないか。

 

第4景「麓」と宗教

訪れた場所は、山梨県と静岡県にまたがる富士山麓

エピソードは、山梨県旧八代郡上九一色村(現富士河口湖町)のオウム真理教施設。富士宮市の1290年に日蓮の遺命を受けて建立された日蓮正宗総本山大石寺。同じ富士宮市人穴の白光真宏会本部。富士山麓には様々な教団が集っている。

オウム真理教の教祖麻原彰晃が世界最終戦争を想定したサテェアンと呼ばれた施設があったが今は形跡すらない。一方、かつては日蓮正宗の最大の信徒組織だった創価学会は、1991年破門されている。霊峰富士は多くの宗教を寄せ付けているが、それらには盛衰も付きまとう。

著者について気になっていることがある。『平成の終焉―退位と天皇・皇后』(このブログ2019.4.10に書いた。)のあとがきで、宮内庁が2016.9.23のHPで原氏を名指しで批判していて、(引用)『こんなことは、宮内庁単独の判断ではできない。その背後にはどうやら、皇室関係のすべての記事を日々チェックし、目を光らせている「ある人物」の存在が見え隠れしているようです。』と書いている。そのために本書での著者の記述や掘り下げ方がやや抑制的なスタンスになっているのではないかと思われる。

 

 

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「経済クラッシュ」ノオト その5 野口悠紀雄 『戦後日本経済史』 

2020-06-18 09:51:29 | Weblog

手を洗おう、マスクをしよう、でも暑い時はしなくてもいい、向かい合わせに座るな、距離を保とう・・・免疫力を付けるためには、あれを食べろ、○時間以上眠ろう。この数カ月の間に僕らは為政者から箸の上げ下げに至るまで「生活指導」されることに慣れてしまった。しかし僕らは自分で考える力を持っている。常識で判断できる。

 

「経済クラッシュ」ノオト その5 野口悠紀雄『戦後日本経済史』    

敗戦時の「経済クラッシュ」に直面した際の国民の受け止めはどうだったのだろうか。『戦後日本経済史』(野口悠紀雄著 新潮選書 2008年刊)が触れている。

本書は、的な高度経済成長を成し遂げた戦後日本経済の構造は、1940年代に構築された「戦時経済体制」を起源とすると主張する。敗戦時の記述を以下引用する。

(P22)「第1章 焦土からの復興 2 インフレで定まった戦後社会の基本形」でインフレーションの情況を示している。

○物価指数の推移(*ハイパーインフレ状態だ。)

・(1940年)1.64 

・(1945年)3.5 (1946年)16.2 (1947年)48.1 (1948年)127.9 (1949年)208.8 

・(1955年)343.0 

・(1960年)352.1

○国債残高の推移

・(1940年)286億円 (1945年)1,399億円 (1950年)2,407億円 (1955年)4,258億円

「国債の実質価値は、インフレによって激減した。国債残高は増えているが、一般会計総額に対する倍率で見ると、戦時期には5倍程度であったものが、復興期には約1/4にまで低下したことから、国は間接的利益を得た。」(*財政規模のデータは掲載されていない。)

「企業一般が利益を受けた。投資は借入れによって賄われたが、実質負債額はインフレによって激減した。従業員(とくに大企業の)も、その後の賃金引上げによって、恩恵を受けた。」

「膨大な数の家族経営的零細事業者も、戦争で受けた被害を取り戻すことはできなかったとはいえ、ささやかな利益にあずかった。彼らは、疎開先を引払い、戦災で焦土と化した町にいちはやく戻り、借地をし、公的な復興融資を得て焼け跡にバラックを建てた。名目値で固定された借地料と負債の実質値は、インフレで急速に減少した。」

「他方において、資産保有階層は、1947年度に財産税を徴収されたのち、インフレによって追い討ちをかけられた。華族、大地主、その他の資産家は、こうして資産を失い、没落した。(農地解放や借地借家法の影響も大きい。)」

著者はまとめる。「戦後経済政策は、『人民』を搾取したのではなく、『資産家』を搾取したのである。利益の程度は人によって差があったとはいえ、数からいえば大部分の日本人が利益を享受したのだ。」

 

僕はこの結論に納得できない。インフレは、資産を目減りさせるが、借金を軽くすることは理解できる。本書では、預金封鎖や新円切替などには直接触れていないが、国民は戦争の直接的な被害に加えて、買わされた戦時国債が紙くずになってしまったり、節約して貯めた預金を吸い上げられたりしたことは事実だ。著者は、国債購入者や預貯金所有者は資産家に分類しているのだろうか。僕が先入観的に持っていたイメージと大きく異なるので、他の資料も調べてみたい。

 

 

 

 

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「経済クラッシュ」ノオト その4  封鎖預金の試算 国債格下げ 

2020-06-11 16:39:40 | Weblog

日頃は偉そうな物言いでここに書いていると思われているのだろうが、「経済クラッシュ」を調べながらいかに自分が小心者なのかというところに至った。もし、国の財政が破たんしたら・・自分の年金や預金は大丈夫なのだろうか?これからの暮らしを維持していけるのだろうか?こんな心配が先に立つ。

 

「経済クラッシュ」ノオト その4  封鎖預金の試算 国債格下げ 

前回までは、敗戦時における経済混乱を描いた荒和雄著『預金封鎖』からの引用である。今回は、この小説が発刊された2003年時点における預金封鎖のシミュレーションについて以下に記す。

(2003年における試算)

個人金融資産は、日本全体で1,400兆円あり、その内現金・預貯金は全体で760兆3,000億円である。その内2000年度末の全国銀行の預貯金は、505兆8,365億円である。2002.3時点での金融機関の不良債権残高52兆4,000億円、国債発行残高500兆円である。

敗戦時のデータを使うと、第2封鎖預金になるのは、全体の35%なので177兆427億円、カット率70%とすると123兆9,298億円を金融機関の不良債権処理と国債償還処理に使うことになる。(当時は金融機関の不良債権が大きな問題であった。)

金融機関の不良債権額は、52兆4,000億円。この内要管理債権19兆1,000億円の50%は引当金(9兆5,500億円)でカバーしたとして、その残りを処理すべき不良債権42兆8,500億円とした。残りは国債の償還処理に81兆798億円を充てることになる。

 

(P178)「第十三章 『決起』」から引用する。

1946.2.17に3つの法律「金融緊急措置令」、「日本銀行券預入令」、「臨時財産調査令」を公布

1946.8.15「金融機関経理応急措置法」「会社経理応急措置法」を公布

1946.8.11「金融緊急措置令施行規則」を改正

⇒1963.7.22「金融緊急措置令」廃止、1954.4.10「日本銀行券預入令」廃止。

預金封鎖実施に関係のある「金融機関経理応急措置法」「会社経理応急措置法」は現在も生きている。法律に定めている指定時を現在に変え、第2封鎖預金を主務大臣である財務大臣が指定すれば旧勘定に入れ預金カットもできる。従って新たな法律制定は必要ない。

(預金封鎖の概要)

①すべての預金を原則一定期間(○年●月●日の新円発行・デノミ実施まで)払い戻し禁止

②対象は国内銀行が取り扱っている預金(預金保険機構加入の金融商品)

③株式・投信などはいずれも財産調査令で申告義務を設ける。

④預金は、第1預金は生活資金1カ月につき1世帯当り世帯主60万円、世帯員1人当り10万円として引き出しを自由とする。口座は名寄せの後の措置とする。名寄せ前にやむを得ず引き出された預金は返還の義務を負う。

⑤○年●月●日以降の銀行による預金払い出しは新円(デノミ・レート)。旧円は●月●日の前週まで銀行入金、その後は通貨として完全消滅する。

⑥企業の資金に関しては、決済資金である流動性預金は、第1預金として流通される。定期性預金は第2預金として一定期間封鎖される。

 

(P147)「第十一章 野望」には、預金の緊急避難方法まで記されている。

○外資系金融機関の支店に口座を設け預金を移す。

○海外への持ち出し金額は、円で100万円まで。金融機関を通じての海外への送金は、建前上は無制限となっているが、実際は200万円以上の送金者は、金融機関を通じて最寄りの税務署に通知される仕組みになっている。

○その他の方法として、外貨預金、外貨建て社債、外貨建て投資信託に避難させる。金などの貴金属投資も対策のひとつ。

 

まだまだ調べたいことがある。コロナ国債という話もあるが、国民が買わされた戦時国債はどうなったのか。当時のインフレの激しさ。引き出しを許された預金額が必要な生活費に足りたのか。資産家、地主、自営業者、サラリーマンなど多様な国民の間の感情的な反応はそれぞれどうだったのか。

 

関連するニュースがタイムリーに伝えられた。(2020.6.9)

「格付け会社のS&Pグローバル・レーティングは9日、日本国債の格付け見通しを下方修正したと発表した(9日付時事通信)。

日本国債の格付けそのものは投資適格10段階の上から5番目にあたるAプラスに据え置かれた。あくまで今後の「見通し」をこれまでの、格上げの可能性がある「ポジティブ」から「安定的」に引き下げたのである。

国会で審議中の第二次補正予算案を踏まえ、S&Pは2020年度の債務残高のGDP比率は171%と2019年度の151%から大幅に上昇すると試算。新型コロナの感染が収束しても、今後2~3年間はある程度の財政支出を維持して経済を下支えするため、財政は引き続き圧迫されると予想している(時事通信)。

さすがに過去最大規模の補正予算案を受けて格付け会社も動かざるを得なかったものとみられる。日本国債についてはたとえ格付け会社の格下げがあっても、これまで動じることはなかった。日本国債が国内投資家でほぼカバーされていたからという理由もあったが、それ以上に日本国債に対する揺るぎなき信認が存在していたためである。

その信認に疑問が出れば、2010年のギリシャ国債、その後のイタリアやスペインの国債のような事態を招く可能性は高い。いったん信認に疑問が請じると格付け会社の格下げなどにも敏感に反応するようになってしまう。これはギリシャショック時の南欧国債の動きをみても明らかであり、これが日本国債では絶対起きないという保証はない。(引用)

 

 

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「経済クラッシュ」ノオト その3  戦時補償債務 封鎖預金の区分 

2020-06-08 14:20:55 | Weblog

テレワーク、PC上だけで仕事が進むというイメージが僕のような年寄りにはどうもつかめない。今は止むを得なく在宅で仕事をしているのだろうが、それが可能ということならば、なぜこれまで会社に行っていたのだろうか。人間も動物的な勘を持っているので、対面で気付くことも多いと思うが・・

 

「経済クラッシュ」ノオト その3 戦時補償債務 封鎖預金の区分

(P127)「第九章 昭和の預金封鎖」(荒和雄著『預金封鎖』)では引き続き、預金封鎖を強引に実施するしかなかった最大の要因、戦時補償債務の解消について解説している。

(戦時補償債務)

戦時補償債務とは、戦争の遂行または終戦(敗戦)によって生じた損失について政府がその補償を約束したことによって生じた借金を言う。これを打ち切ることが1946.8月の閣議で決定された。

その内容は戦時補償債務については名目的には支払うものの、実質は戦時補償特別税を100%課して全面的に補償を打ち切るというものであった。その根拠法として「戦時補償特別措置法」と「財産税法」を制定、その具体的な対応策として以下の5つの法律を公布した。「会社経理応急措置法」「金融機関経理応急措置法」「企業再建整備法」「金融機関再建整備法」「復興金融公庫法」である。

(封鎖預金を区分)

政府は戦時補償債務を打ち切ると同時に1946.8.11「金融緊急措置令施行規則」を改正し、封鎖預金を第1と第2に区分けし、第2に関しては金融機関の再建整備完了まで棚上げすることが決められた。この措置は将来預金カットするための布石とみられていた。

第1封鎖預金になったものは

①1口3,000円未満の個人及び法人預金など

②1口3,000円以上の個人預金の場合は、世帯員1人につき4,000円の割合で計算した額(最高32,000円)と15,000円のいずれか多い額

③1口3,000円以上の法人の預貯金の場合は15,000円以下の額

それ以外の預貯金はすべて第2封鎖預金とみなされた。

ちなみに1946.8月末におけるこの区分による預金は、第1封鎖預金534億円(65%)、第2封鎖預金287億円(35%)であった。

第2封鎖預金創設の時から金融機関の再建整備が出来るまでこの預金が棚上げされることが決定していたので、多くの人達は預金カットが将来第2預金を中心として行われるのではないかと危惧した。

(新勘定と旧勘定)

政府は次の手段として1946.8.15に「会社経理応急措置法」と「金融機関経理応急措置法」を公布、即日施行した。これによって経理面から損失を被った企業と金融機関はそれぞれが業務を続けながらその損失を経理面で処理できるよう態勢を整えることにした。言いかえると8.21午前零時現在の時点で資産、負債を新勘定と旧勘定に分け、新勘定は事業の継続に必要で且つ健全な資産と負債を入れ、旧勘定には将来整理が予測される資産と負債とを入れた。

以下は、戦時補償の打ち切りを受ける企業が金融機関の帳簿の中で資産、負債をどのように分類され、実質預金カットされたかの仕組みである。

旧勘定の資産には、企業への貸付金、それに国債、地方債を除く有価証券、その他の指定資産として不動産、特殊預金、戦時補償請求権、在外資産、繰越欠損、実収入などが入った。それに未払資本金としての株主勘定や未整理貸勘定、こうしたものが旧勘定の資産の合計額であった。

一方の負債の方は、第2封鎖預金、特殊預金、軍事融資積立金、あとは資本金、準備金、積立金、退職手当基金、当期利益の株主勘定、それに未整理借勘定がその合計額であった。

要は、信用性のきわめて低いものは資産、負債共に旧勘定に移し、逆に金融機関の再生に役立つものは、新勘定に移すことにあった。

(損失額の確定)

そして実際の損失の処理や確定に関して政府は新たに「金融機関再建整備法」「企業再建整備法」などの法律を公布して企業の特別損失を金融機関の旧勘定の中で整理、双方で突き合わせする作業を繰り返して損失額を確定した。

更に1948.3にはGHQが、一層金融機関の経営健全化を図るため旧勘定での戦時補償がらみの不良債権などの一括処理を命令した。同時に有価証券の評価の厳格化などを実行して含み損の厳格な計上を要求した。更にGHQは自己資本の4.5%の充実を求め各金融機関に増資を促した。このようにして大手銀行の最終処理は興銀を筆頭として特殊銀行約77億円、5大銀行約90億円合計約167億円の損失額を確定した。

(損失額の処理)

そして確定した損失額は、次の順序で処理された。

①旧勘定の最終評価益及びその他の利益と言われる確定益

②旧勘定の積立金

③資本金の90%。

問題の預金カットにからむものとしては、

④法人預金で1口500万円以上のものの500万円を超える部分の70%

⑤法人預金で1口100万円以上のものの100万円を超える部分の30%、

⑥法人預金で1口10万円以上のものの10万円を超える部分の30%、

⑦法人預金の残高部分と個人預金等その他の整理債務の70%などが確定損失の穴埋めに充当されることになった。

こうして第2預金などを財源としての預金カットや資本金の取崩しや利益の捻出計上でもなお不足した損失に関しては、最終的には政府が交付国債によって処理をした。すべての金融機関は1948.3月末まで最終処理を完了した。この最終処理で第2預金封鎖は287億円あったが、かなりの部分がカットされたのだ。(カット率は約70%)

1946.2.17の突然の預金封鎖の公表、即日実施、1948.7の預金封鎖の廃止まで実に2年半の短期間でのスピード処理は、政策面の評価は悪性インフレの退治と戦時補償の打切りへの早期決断という面では効果があった。戦時中、軍の協力工場として政府に協力した企業は、政府から支払いがなく戦時補償債務扱いとなっていた債権が、今回の「会社経理応急措置法」と「金融機関経理応急措置法」によって旧勘定扱いで一括処理されたので、会社の財務内容自体は好転した。そうした資金の一部に国民が戦時下の耐乏生活の中で細々と貯えた預金が使われたのだ。受け入れがたい思いをした人も多かった。

 

 

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「経済クラッシュ」ノオト その2  預金封鎖 新円切替 財産調査 

2020-06-05 16:20:01 | Weblog

ようやくアベノマスクが届いた。市中にはマスクの箱が山積されているが誰も振り向きもしなくなっている。アへ首相は小さなマスクを付けているが、その意味はあごの空間から息をするためだろうと思う。身体の弱い僕にはよくわかる。

 

「経済クラッシュ」ノオト その2  預金封鎖 新円切替 財産調査 

(P119)「第九章 昭和の預金封鎖」(荒和雄著『預金封鎖』)から当時の国民生活がイメージできる。

1946.2.16夕、政府は経済危機緊急対策を発表 

勅令(国会審議無し)第83号 「金融緊急措置令」では、1946年2月17日現在であらゆる金融機関の預金を封鎖し、その支払いを原則として停止、毎月の生活資金(1世帯当り世帯主300円、世帯員1人当り100円、定期的給与500円)と事業資金に対してのみ、封鎖小切手による支払いまたは現金支払いを認めたものである。

勅令第84号 「日本銀行券預入令」では、10円券以上(後に5円券も)の既発行券の強制通用力を3月3日以降喪失させた。そして、3月7日までに旧券を金融機関に預け入れさせ、封鎖預金と同様の取扱いを受けさせようとした。新券は2月25日以降発行し一定の金額に限って引換えを認められ、「金融緊急措置令」の限度内で3月以降引き出させる現金はすべて新券で支払われるものとした。

勅令第85号 「臨時財産調査令」。この法律は戦時利得の排除、国家財政の再建、国民経済の安定等を目途とする新税の創設及び確保にあった。この財産調査令の狙いは、将来実施を予定される財産税の準備として旧券の強制通用力が消滅する3月3日午前零時における預貯金、有価証券、信託、無尽、生命保険契約などの金銭的財産の申告を4月2日限り金融機関を通じまたは直接税務署に提出する義務を負わせるものであった。

 

預金封鎖による混乱①

1946年2月17日を期しての政府による金融・通貨政策の一大転換政策の発表は、敗戦によって一時虚脱状態に陥った一般市民に更なる衝撃を与えた。生活資金以外は預金を引き出せないという現実は国民に対してきわめて酷な措置であった。従って政府やマスコミがいくら危機克服に協力せよと訴えても、多くの人達はこの事態にどう対応してよいかわからず、茫然自失の状態に陥っていた。

命の次に大事な預金を実質的に凍結、そしてその後約70%の預金を強制的に銀行の不良債権の処理に一方的に使うという措置であった。

預金封鎖による混乱②

新円発行に際しては、10円、100円、200円、1,000円の4種類の旧券は新円切換えの日まで印刷が間に合わず、旧円の紙幣の右上に証紙を貼り新円並みの扱いをして急場を凌いだ。実際に新円が新しい様式で出回ったのは、100円券と10円券が3月1日、5円券が3月8日、1円券が3月20日からだった。高額の紙幣から印刷して早く世の中に出したのは、新券を1日でも早く流通させて一般国民を安心させようとする当局の意図があったと言える。

親子3人で最高月500円の生活では、多くの家庭は、一律に耐乏生活を強いられることになった。悪性インフレの恐ろしさを身を持って体験している国民は、食糧をはじめとする生活必需品の確保に走った。買い漁りは自縄自縛とは思っても、育ち盛りの子供達を抱えた家庭では、一定量の米などの配給だけでは間に合わず、闇米に手を出さないわけにはいかなかった。業者の中には、旧円で払うなら価格を高くして売るなど、便乗値上げに走る者もいた。闇市では新円にプレミアがつき、業者の中にはモノ不足と新円を上手に利用して“新円成金”という資産家になった人間もいた。

更に預金封鎖前後にみられた世相は、都市と農村で所得の格差がはっきりとみられたことだ。生活必需品の不足は、必然的にその価格を引き上げていった。生産者側である農村、漁村では収益が大いに上がる一方、大都市に於ける一般国民の生活は食糧費をはじめとする生計費の異常な増加で更に苦しくなっていった。田舎に親類のある大都市生活者の中には、一家族揃って地方の親類を頼って買い出しに出掛けるものもあった。都市においては、闇市で軍からの隠匿物資などを横流ししてもらった業者たちが運送業者などと共にヤミ成金という新しい資産家層になっていった。そうした人達の遊興によって一部の料理店、キャバレーなどが繁盛し、新円は生産部門や金融機関への預金などに還流されることはなかった。

 

金融非常措置の効果

悪性インフレ防止策としてとられた預金封鎖をはじめとする一連の金融非常措置は、通貨の流通面では一応効果を発揮したようだ。

全国の銀行では預金封鎖前日の2月16日の預金は総額約1,147億円にすぎなかったが、旧円の預け入れ期源の3月2日には約1,344億円に達していた。実に預金は17.2%の増加率をみた。特にモノ不足の中、生産者側の優位な立場にあった農村地域の銀行で残高増が目立っていたと言われている。

また、日本銀行勘定からみた銀行券の動きをみるとその発行高は、2月10日現在590億円であったものが、3月10日には179億円になり約410億円も収縮した。これをみても今回の非常措置は、悪性インフレを抑えるのに一応の効果があがったとみるべきであろう。

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「経済クラッシュ」ノオト その1 荒和雄 『預金封鎖』 

2020-06-04 16:41:14 | Weblog

「雨にぬれて ひとり紫陽花 凛と咲く」 このようにあることは理想だとわかるが、現実の自分はかなり遠いところにいる。そこに向かおうとしてもいない。6月になった。

 

「経済クラッシュ」ノオトその1 荒和雄 『預金封鎖』

コロナ対策のために補正予算を編成、財源は赤字国債。経済の落ち込みで税収減が見込まれる歳入を赤字国債で補てん。この国には、アジア・太平洋戦争の敗戦時に巨額に膨れ上がった債務残高を解消していた歴史があった。

 

『預金封鎖』(荒和雄著 講談社 2003年刊)は、大手金融機関、シンクタンク、政界を舞台とした通俗的な経済小説だが、預金封鎖をはじめとする敗戦時の経済政策については良く調べており、資料的な価値がある。

(P104)「第八章 預金封鎖」より

(朝日新聞1946.2.17) (1面ヨコ書き見出し)預金払出しが制限、新円発行、経済危機突破へ非常措置 (タテ書き)食糧、生活必需品、労務に亘る総合政策、今日から預金封鎖、解除は財産税徴収後、(4面)臨時財産調査要領の記事

(前日ラジオ)大蔵大臣渋沢敬三の声明 「2月26日までに貯金された貯金、預金、信託などは、一家の世帯主が300円、その他の方は一人100円までの払出しを認めるほかは、原則として当分の間、自由な払出しは禁ずる。(預金封鎖)

いままで使用してきた百円以上のお札は3月2日いっぱいですべて無効になる。(新円切替)

そのねらいは、財産課税価格の査定日にそれまで流通している日銀券を旧券として無効にする。たんす預金などすべての現金(貴金属は除く)を強制的に金融機関に預け入れさせ、名寄せにより残高調書を税務署に提出する。税務署が財産税徴収のための財産調査を終了した段階で一定期間を経て自由に新円によって預金の払出しができるという方法。(財産税徴収)

解消する必要がある戦時補償債務は 政府の軍事産業に対する未払金、陸・海軍人に対する復員手当、銀行の戦争保険に対する支払い、軍需産業に対するリストラ資金など約1,000億円、プラス国民が「戦時国債」として購入させられた国債など年度末残高2,000億円。これに対して国民総生産は年度末で745億円。マイナス2,255億円を国民の財産で補うというものである。

1946.2.17に3つの法律「金融緊急措置令」、「日本銀行券預入令」、「臨時財産調査令」を(天皇の緊急)勅令として公布、即日実施。

 

この国は、債務破たんした他国とは違って、国民の資産があるから大丈夫と言われている。その意味が理解できてきた。霞が関の奥でリアルに考えている優秀な官僚がいるのだろう。歴史は繰り返す?まさかの坂というのもあるから。

 

 

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