晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

与那覇潤 『歴史なき時代に 私たちが失ったもの 取り戻すもの』 その1

2021-07-30 16:46:32 | Weblog

熱海の土砂災害が発生してまもなく1カ月。森林の伐採、土砂の採取や盛土は法的な規制が緩いため、業者に厳しい指導ができない。この分野に関わる業者、産廃業者にも共通するが少しワルなのが多い(僕の主観)。報道はここまで。だが構造的な問題が潜在していることは伝えられない。例えば、大手デベロッパーの事業から発生する土砂の処理を劣悪な契約条件でチョイワル業者に下請けさせるという問題だ。また、どのような工事でどこから発生した土砂だったのかも明らかにする必要がある。

 

『歴史なき時代に 私たちが失ったもの 取り戻すもの』(与那覇潤著 朝日新書 2021年刊) その1 

著者が語る歴史の意義は極めてまっとうだ。曰く、「歴史叙述の意義は『世界の見え方』を変えることにある。」(引用P88)、「現在から過去への問いかけがあって、初めて歴史が始まる。」(P66)、「歴史の存在感を前に、人間が互いに謙虚になり、共感を作り出していく。」(P78)。全く異議なしだ。

しかし、現在の歴史学者たちの活動を一括りにしての批判には少し無理を感じる。曰く、歴史学の現状は、古文書の解読という実証的な研究が中心になっていて、これは歴史学という学問とはいえない。「他者との共通の基盤を養うという使命が忘却されている。」(P7)、「時間というものが線の形をしていなく『いま』だけしかない。」(P26)

著者は現実に生起している具体的な問題にも言及している。「人文学者たちは、安倍政権の自粛要請(2020.春)に世論の反発を恐れて反対できなかった。その代償行動が香港の民主活動家周庭逮捕や学術会議任命拒否問題への抗議だった。」(P47)。僕は歴史学者たちも世論と同様に自粛要請に積極的ではないにせよ命を守るという点で支持していたと思う。全然別の問題を代償行動という括りで繋げることもできない。あの時点で、自由の束縛だなどという理念だけで発言する学者はいないと考える。

さらに、コロナ問題では、「理系の専門家の感染予防策(活動規制)は、特高警察レベル(予防拘禁)。」(P54)、「コロナは数十年に一回起こる、慣れれば忘れ去られる感染症に過ぎない。」(P60)となってくるともう首をかしげざるをえない。これらの言説に大衆が賛意を示すとは思わない。

与那覇氏には体調を崩して大学を辞めなければならなかった事情があり、現在は物書きとして生きていかなければならない情況におかれているようだ。言説一本で生きていくためには、誰も発言していない見解、他者と差異化した言説を生み出さなくてはならないのだろう。上記の大衆の認識とのズレは、どこか無理をしているように思われる。しかし、ぶれずに発し続けてほしいと思う。僕らが全く気付いていないことにハッとさせられることもあるだろうから。

一方、巻末に所収された浜崎洋介、大澤聡、先崎彰容、開沼博氏らとの4本の対談はいずれも面白いものになっている。氏は文章を単独で表すことよりも対談において相手から言葉を引き出すのがとても上手い。相手と真正面から対峙するのではなく少し引き気味な構えが対談者にはとても話しやすいのではないか。そこに氏のやさしさが出ている。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤邦武他編 『世界哲学史3―中世Ⅰ超越と普遍に向けて』 アリストテレスショック

2021-07-21 08:53:15 | Weblog

ずっと疑問に感じていることがある。マイクロプラスティックによる海洋汚染が人間に害をもたらすので、レジ袋やストローをやめようという運動についてだ。分子(モノマー)を重合(反応)させてプラスティック(ポリマー)を作っている(例えば、エチレンが重合するとポリエチレンになる)が、そのプラが海の中で細かく細かくなったとしても、分子レベルにまで小さくなるのだろうか。レジ袋の欠片(プラ)を食べても人間に害はないはずだ。そもそも私たちの生活の中で数十年に渡って使ってきたプラの量は膨大であり、ストローを紙にしたくらいでどれほどの効果があるのか。調べてみたい。

 

『世界哲学史3―中世Ⅰ超越と普遍に向けて』(伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留責任編集 ちくま新書 2020年刊)

 アリストテレスショックについて 

ローマ帝国では4世紀にキリスト教が国家宗教となった。教父アウグスティヌスが新プラトン主義にキリスト教的な解釈を加えた思考が西欧中世の知的世界を覆っていた。

十字軍による交流の結果、12世紀中頃西欧キリスト教圏にイスラム世界からアリストテレスの著作と註解書が入ってきた。イスラムでは10世紀半ばまでに彼の全著作が知られており、アヴェロエスは膨大な註釈を付していた。それまで西欧には、ローマのボエティウスがラテン語に翻訳し註釈を加えた論理学の一部しかなかった。

アリストテレス哲学はキリスト教とは異質であり衝撃をもたらした。「それ自体として完結したものとしての自然」という世界観は、キリスト教の「世界の永続性」とは相容れなかった。また、すべての人間にとって知性認識が生じる場である知性は数的に一つであるとする論理は、信仰の世界と矛盾した。

これに対して、従来のアウグスティヌス的世界観を固持する人々と、アリストテレス哲学を受容し神学との完全な分離を主張する人々の論争が生じた。トマス・アクィナスは、アウグスティヌス的思想、キリスト教、アリストテレス哲学の統合により事態を収めた。全てのものには原因があり、理性に基づいて論理的にその原因を突き詰めていくと、理性を超えた存在、「自存する存在そのもの」としての神に導かれることから、信仰は理性・論理よりも高い次元にあると考えた。

以上を「神学(信仰)と哲学(論理)」と構図的に捉えてみると、当時は「西欧の神学対イスラムの哲学」となり、私たちにイスラム世界の文学、医学、地理、天文学、数学などの進んだ文化力を改めて認識するべきとせまる。また、「信仰と論理」は、現代社会にも通底する課題であり、論理的と思っているこの自分も、場面によって何ものかに祈る、すがるという行為をしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする