晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『私の昭和史・戦後篇(上・下)』

2008-12-29 14:00:13 | Weblog
 『私の昭和史・戦後篇(上・下)』(中村稔著 青土社 2008年刊)

 上・下巻で800ページを超える大著であるが、3ヶ月くらいかかって寝床で読破。どこで読もうが勝手であるが、何パターンかある読書の場所のひとつが寝床。寝床で読むものは、問題意識のある刺激的なものではなく、ゆったりとした物語などがいい。

 本書は、著者の1945年8月16日から1961年までの自伝である。著者は、詩人で弁護士、否、弁護士で詩人なのだろうか。1927年生まれであるから、親たちと同世代である。残念ながら詩の世界を知らない私は、中村稔なる人を知らない。

 この自伝には、いくつかの物語が並存している。もちろん、その時々の政治的な動きに対する批判、旧制高校時代のエピソード、友人であり「ユリイカ」の編集長伊達得夫との思い出など著者20歳代から30歳代の生き方を廻る真摯な思考の軌跡が書き込まれている。

 本書の特徴として、ひとつだけ今まで見たことの無い目次の表現が面白い。目次を読むだけで、あらすじがわかるようになっている。

 例えば、第1章は、「昭和20年8月16日、私たち一家が父の任地、青森に向かって上野駅を発ったこと、8月末まで青森刑務所の職員倶楽部兼武道場に仮住まいし、9月、弘前の借家に転居したこと、戦後の一高の寮の食糧事情、弘前の生活、9月中旬、一高の寮に戻り、中野徹雄らと再会したが、間もなく弘前に帰省したこと、10月下旬、上京のさい、盛岡で途中下車し、盛岡刑務所で医師をつとめていた兄と会い、小雨ふるなか、北上川のほとりで話しこんだこと、その日の感慨を「陸中の国 盛岡よ」と結んだ4行詩に書いたこと、など。」となる。

 

 
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ドラマシアターども 『来運』

2008-12-28 19:13:07 | Weblog
 江別市にあるドラマシアターどもⅣにて『ランクンナイ~来運~(らいうん)』(安念智康作)公演を観劇する。

 旧江別郵便局の跡を巧く使った劇場スペースは、100人ほどの観客で超満員。吹雪の中、年末の日曜日の午後、良く入ったと思う。

 舞台は、斜里にある来運神社前を再現。動物と人間の共生、地球環境問題、地域崩壊、高齢者遺棄など時事ネタ批評が満載。


 私の感想としては、一言「随分と道徳的な芝居だなあ」という感じ。近年、社会のモラル低下が指摘されているが、まともに倫理を説くとは、それはないでしょと思ってしまう。

 また、演劇論の違いがあるのだろうが、肉体の存在が薄い芝居であった。台詞が過剰で口先だけの芝居になってしまっているため、85分の芝居なのに観ていて大変疲れを覚えた。もう少し、台詞のあいだに間があったり、ギャグを入れて笑わせたり、ミュージカル的な踊りを入れたりすると楽しめる内容になったと思う。

 主張を役者にストレートに語らせるのではなく、作家の思いを少し抽象化して、疑問形で観客に投げかけてほしかった。例えば、「温暖化はいいっしょ?」など常識を超えた言葉で。

 こういう芝居を観ると、この作者は疑問も無く自分が正しいと思っている方なのかなと思ってしまう。それは、現在の私が一番許せないことで、この世に無条件で正しいことなどあるのかと思っているので。

 世の中に流通していることを全部ぶっ壊してほしかった。「創造の前に破壊を!」だから。

 結構、言いたいことを書いていますが、色々と刺激的で楽しめたからです。台詞を少し削いでいくと進化しそうなドラマでした。
 

 
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長い休暇

2008-12-27 19:43:25 | Weblog
 長い休暇をとりました
 休んでいると落ち着かないってのは
 知らうちに病んでるんですね

 子供のように笑えないけれど
 なにも考えず駆けて叫んでそれから跳んで
 なにも考えずなにも考えず
 きれいに笑っていたいんです

   吉田拓郎「暑中見舞い」より

 第1日目、これだっ!と思った2冊を買う。おそらく当たりでしょう。

 昼食は、カルボナーラ。
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『わたしは貝になりたい』 

2008-12-24 20:17:07 | Weblog
 

 雨のクリスマスイブになりました。プレゼントやご馳走から無縁になっていますが、小さな小さなロールケーキで一応のクリスマスとしました。

 今月に入って、めっきりランニングから遠ざかっていますが、何か頭脳も冴えない気がします。ランと頭のキレは比例するように思います。



 『思想体験の交錯』 その2
 「第1章1945-1946 新たな同時代史への出発―日本敗戦と朝鮮解放」より

 まさに、書名のとおりスタートから「交錯」が見られる。日本は敗戦により悲惨な被占領状態を想定していたが、連合国軍(米軍)の日本占領は、非軍事化と民主化、その実現のため天皇制の存続した。鬼畜米英から親米への見事な転向である。
 
 一方、朝鮮は、植民地状況からの解放であったはずであるが、ソ連と対立する朝鮮半島南部での、米軍の姿勢は、敵対的で再植民地化しようとする態度であった。また、排除されるはずの親日派が支配機構に組み込まれていったため、反米意識が醸成された。

 さらに、「交錯」の例では、朝鮮総督府は、敗戦時70~80万人の軍・民間の在朝鮮日本人の帰還を最優先した。

 それに対する朝鮮人の在朝鮮日本人に対する態度は、日本在住朝鮮人(敗戦時240万人、1946年3月87万人が残留)のことを考えると、在朝鮮日本人の生命と財産の保護が必要と考えた。

 こんな事実もある。現在「私は貝になりたい」中居正広演じる理髪店主の元二等兵・清水豊松がBC級戦犯裁判で絞首刑になった映画がヒットしているが、朝鮮人23人、台湾人26人が「日本人として」罪に問われ処刑されている。



 
 生住滅さま、コメントありがとうございます。

 本書を読み進めていく中で、貴兄のコメントに対する答えのようなものが見つかると良いのですが。著者は在日の方で、バイアスのかかった表現がありますが、なるべく事実を中心にまとめてみたいと思います。

 
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『思想体験の交錯』 その1

2008-12-21 17:22:06 | Weblog
 『思想体験の交錯 日本・韓国・在日1945年以後』(尹健次著 岩波書店 2008年刊)                 

 本書は、著者によると在日の視点から見た「日本・韓国・在日の関係史、思想・精神の交錯史」を内容とする。キーワードは、「天皇制と朝鮮」である。

はじめにー思想体験を語るとは
収録詩一覧
第1章1945-1946 新たな同時代史への出発―日本敗戦と朝鮮解放
第2章1947-1954 思想再建の模索―日本と韓国のずれ
第3章1955-1964 冷戦体制化での相互認識の枠組み
第4章1965-1979 国交開始と相互理解の困難
第5章1980-1989 韓国民主化の闘いと相互認識の葛藤
第6章1990-現在まで 脱冷戦時代における脱植民地化の課題
むすびにかえてー記憶とまなざし、そして思想を語ることの意味

 以上の構成からなる500ページの大著である。

 日韓、日朝については、拉致問題を除いてあまり私の今までの関心領域に入っていない。1970年代から80年代の韓国の軍事独裁体制について匿名で伝えた「韓国からの通信」(T.K生著 岩波新書)を読んだ位である。

 なぜ、関心が薄いか。それは、明治以後の朝鮮半島とこの国の歴史的な関わりを見た場合、圧倒的に日本に正義が無いからである。日帝本国人として植民地からの告発に応える何ものも持ち合わせていないからである。

 歴史や事実を学ばなければならないと思っていたが、大変失礼な態度だが、論争の余地も無く、分の無い議論には興味が湧かなかったのである。

 例えば、在日の方から護憲派が批判される。憲法9条を守れと言っているが、在日には参政権すらない。現行憲法の第1条には天皇条項がある。したがって、護憲派の平和主義なんて欠陥だらけで欺瞞だと。

 私は、事実としてはそのとおりと思う。しかし、共に連帯して運動をしようとは思わない。それは、在日の方と私の間にある溝は、生まれ変わらない限り永遠に埋まらないものだからである。

 類似の例として、労働組合運動がある。この国の労組は、基本的に正社員による組合であり、労働力の高値販売同盟である。臨時的な社員からの要求は正当なものと認識しても、実現するには限界を持っている。
 マルクスは、ルンペンプロレタリアートを社会の沈殿物と呼び労働者階級には含めていない。

 格差の重層構造にあって、最下層の要求を実現するには、被抑圧階級にあっても「自己否定」を必要とする。それができるか?こんな思いを持ちながら読み始めた。
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ジュンク堂札幌店開店

2008-12-20 19:13:21 | Weblog
 今日、ついに待望のジュンク堂札幌店がオープンした。150万冊を揃え、新宿店並の品揃えとの触れ込みにつられ早速行ってみる。

 第1印象は、書籍の分類が良い、非常に整理されている。また、書棚と書棚の間隔が広く人と人との交差が容易。というのは、紀伊国屋札幌駅前店は、そこが欠点。書棚の高さを押さえたのはいいが、狭いところに詰め込み過ぎている。このことは、開店間もなくに店員さんに言ったが全く改善の様子は無い。

 次に、連続して書棚が続いて配置されているのが面白い。途中に通路で分断されていない。書棚に、書籍だけでなくミニチュアや模型を配しているのも楽しい試み。

 店員さんたちが経験を積み、自分も通い慣れてどこにどんな本があるかがわかってくると、いい本屋さんになると思う。札幌にまたひとつ楽しいポイントができた。

 でも、アテネ書房もがんばれ!

 
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春へ向かって

2008-12-14 16:55:18 | Weblog
 気持ちの持ち方次第で気分も変わる。この時期、これから北国の冷たく長い冬がやってくると思うと少しつらい、年齢とともにきつい感じになる。

 日没の時刻を調べた。4日から昨日13日までは、16:00ジャスト、今日からは16:01と日が長くなるのである。(日の出は、まだ少しずつ遅くなり31日から1月7日まで7:06になり、その後徐々に早くなる。)

 一歩、一歩、春に着実に向かっている。

 植物は不思議だ。葉っぱも落とし、枯れ木になって身を固めているようで、どこかでしっかりと季節を感じている。花を咲かす時期を逆算して、冬の間に花芽を成長させている。

 厳しい冬を毎年くぐってきている北国の人にとって、これまであまりいい思いも少なかった分、内地の人が今不景気を嘆いているけれど、いつもこんなもんだからそんなに深刻になってもしょうがない感じを持つ。

 そうなんだ。春へ向かって、蓄積すればいいのだ。
 

 
 
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東金市女児遺体事件

2008-12-07 21:47:06 | Weblog
 「まなざしの地獄」 その2 
             
 マスコミでは、昨日から千葉県東金市女児遺体事件の容疑者が捕まったニュースが続いている。気になったのは、事件発生直後にマスコミ各社が容疑者にインタビューを行なっていて、今回の逮捕と同時にその映像を流したことである。

 そこにいくつか問題があると思う。マスコミが自分たちの判断で、怪しいと思う人物にマイクとカメラを向けて取材することは、無制限に許されることなのか。それは、今回の場合、何人を対象として取材していたのか。未だ容疑も固まっていない段階で取材しておいたものを、逮捕後に報道に使用して良いのだろうか。

 カメラを回してマイクを突きつける、その暴力性をどう考えているのか。取材を受けた側の対応次第では、そのシーンを繰り返し報道して、その人物のイメージづくりをマスコミは行なう。その典型的な例は、和歌山カレー事件、秋田連続児童殺人事件である。さらに、和歌山の事件は、冤罪の疑いもあるといわれている。

 今回、容疑者になっている男性以外にも、取材され映像を撮られている市民がいた場合、重大な人権侵害に当たるのではないだろうか。また、容疑者の男性が高等養護学校出身であることも、彼に責任能力が備わっているのか、慎重に判断すべきことである。

 偶然にも、上記のことと関連したニュースも伝えられている。監視カメラ付き清涼飲料水の自動販売機が壊された。また、冤罪事件の元服役囚(弘前大教授夫人殺人事件)が亡くなった。いずれにしても、マスコミの情報洪水で世論が作られ、今後の捜査や裁判が作られた世論の影響を受けてしまう構造が存在している。

 これは、来春から始まる裁判員制度の問題にも繋がることである。
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『ヨーロッパ的普遍主義』 その3

2008-12-06 09:19:44 | Weblog
 秋田の友人から林檎が届きました。彼の暮らす雄勝郡旧稲川町は、「稲庭うどん」で有名です。

 「リンゴ」といえば、拓郎です。

 ひとつのりんごを 君がふたつに切る
 ぼくの方が少し大きく切ってある
 そしてふたりで仲良くかじる
 こんなことはなかった 少し前までは
 薄汚れた喫茶店の バネの壊れた椅子で
 長い話に相槌打って
 そしていつも右と左にわかれて



 秋田と言えば農業県だが、農協系金融機関の中枢、「農林中金」は、米国サブプライムローン破綻関連で、5兆円を超える焦げ付きが生じていることを自ら公表しているが、農家の金を集めてパーにしちゃている。桁違いの額!
 


 『ヨーロッパ的普遍主義 近代世界システムにおける構造的暴力と権力の修辞学』(イマニュエル・ウォーラーステイン著 山下範久訳 明石書店 2008年刊)
その3

 ヨーロッパ的普遍主義の第1番目は、「野蛮」に対する干渉の権利である。(第1章)16世紀のスペインによるアメリカ大陸の征服以降、9.11まで同じ論理で語られる。
 「軍事的努力の成果は、『民主主義』に浴さないひとびとに、『民主主義』をもたらすことであり、したがって、たとえ短期的には戦争状態や支配のもろもろの帰結に苦しむことがあったとしても、長期的には、彼らの益となる。」

 ヨーロッパ的普遍主義の第2番目は、オリエンタリズムの本質主義的個別主義である。(第2章)
 オリエンタリズムとは、「東洋の諸「文明」(「未開」ではない、官僚的世界=帝国の遺産を有する中国、インドなど)が西洋キリスト教文明と同様に豊かで、洗練されており、したがってなんらかの意味で対等であるとしても、それらの東洋の諸「文明」には、小さいが、しかし決定的な欠陥がある。」というものである。 
 
 東洋の諸「文明」には、「近代」に進むことのできない何かがある。「西洋世界の援助があれば、東洋の諸文明の文化的(技術的)可能性の制約を打破できる」。 (雨読:何という驕り!)

 ヨーロッパ的普遍主義の第3番目は、科学的普遍主義である。(第3章)
 「科学と人文学のあいだに認識論的差異を設定することで、普遍的な真理は、科学者によって提示される。」

 「科学的普遍主義を強調することは、能力主義の理論的美徳を確立することである。」「もし世界の特定の地域ないしはシステムの特定の階層が、他の地域ないしは階層よりも、報われていないとしても、それは、万人に開かれているはずの客観的能力が欠けているせいなのだ。」 (雨読:自己責任ということか!)



 
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『風のガーデン』

2008-12-03 19:59:48 | Weblog
 あまりテレビドラマは視ない方だと思うが、現在連載中のドラマでは、『篤姫』『イノセントラブ』そして『風のガーデン』を見ている。

 倉本聡作品では、昔ショーケンが主演だった『前略、おふくろ様』、その裏返し二宮君主演『拝啓、父上様』、それに影響されて神楽坂観光に。寺尾聡の『優しい時間』も良かった。今回の『風のガーデン』も富良野が舞台、ラベンダーではない季節に行ってみたい気分。

 さて、この3部作に共通するのは親子の関係である。父親と男の子の見えない関係、葛藤が描かれている。今、父親の存在が問われていると倉本はメッセージを発する。脱線するが、ソフトバンクのCM,あのカイ君のお父さん役が人気を得ているのも「強い父親」のパロディだからであろう。

 これからのストーリー展開は?中井貴一の病状を緒方拳は知る。そして、再会するであろう。そこで、父子は何を語り合うのであろうか。人間は最期に何を語らなければならないのだろうか。

 そして、このドラマが遺作になった緒方拳の姿からは悲壮感が漂う。劇中でも徐々に元気が無くなっていくように見える。


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