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晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

ダリ展

2007-08-30 19:34:29 | Weblog
 北海道立近代美術館で開催されている『ダリ展 想像する多面体』を観てきました。すごい賑わいで、絵の前に人がごったがえしていて、あまりじっくり味わうようなゆとりがありませんでした。



 サルバドール・ダリ、1904年スペイン生まれ、1989年没。

 ダリの画風に対して、キュビズム、シュルレアリスムなどの性格付けがされていますが、素人の私には良くわかりません。

 私の印象では、ダリの絵は、ダリの絵に見えます。ダリとしてのスタイルが確立されていて、誰しも作者がダリとわかります。幾多の芸術家の中で、このような域まで達した画家だけが生き残っていくのでしょう。

 ダリ作品の中に、普通のデッサンもありましたが、抽象化しない絵も基本がきちんとしていて、しっかりと描ける能力があるのだと改めて感じました。(当たり前のことなのでしょうが。)

 ダリの場合、彼の風貌自体が芸術なのです。髭をたくわえた顔は、何てエキセントリックなのでしょう。



 週末は、札幌芸術の森美術館で開催されている、「澁澤龍彦 幻想美術館」に行ってみようと思います。

 
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ミュシャ

2007-08-27 20:34:48 | Weblog
 北海道立釧路芸術館で「アルフォンス・ミュシャ~憧れのパリと祖国モラヴィア~」展を観ました。釧路にあるのは、道立美術館ではなく、芸術館です。

 ミュシャ(1860~1939)は、モラヴィア(現在のチェコ共和国)に生まれ、19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリで活躍した画家です。アール・ヌーヴォーの代表的な作家です。



 柔らかな曲線と淡い色合いを使って、女性を美しく艶かしく描いています。ミュシャは、舞台劇に登場する女優や香水、お酒などの宣伝ポスターを多く手がけています。

 当時の日本でもミュシャらに影響を受けているのであろう、赤玉ワインや大日本麦酒などのポスター画を思い出しました。



 この国が、明治維新の後、富国強兵路線を敷き、日清、日露戦争に明け暮れていあた時期に、遠くヨーロッパでは様々な分野で芸術が花開いていました。この国の文化とヨーロッパの文化の蓄積度の違いを当時に対しても、そして現在にも感じます。

 


 
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太宰治

2007-08-26 10:42:51 | Weblog
 釧路幣舞橋です。名物の海霧(がす)に包まれると一段とメランコリックで文学的になります。



 北海道立文学館の「太宰治の青春 津島修治であったころ」に行きました。生まれ故郷青森での太宰に関係する資料が展示されていました。太宰は、かなり早熟で、大学で上京する前から、仲間と同人誌を発行したり、当時の文人とも交流を持っています。

 私自身は、太宰を全く読んでいませんが、それは、繊細で、女々しいとも思われる太宰のテーマやこだわり(こう決め付けることもできないと思いますが)に興味を持ったことがなかったためです。



 でも、太宰は今、旬なのかも知れません。

 北海道新聞5月31日の「論壇時評」で、担当の大澤真幸は、加藤典洋著「太宰と井伏」(講談社)で、太宰を自殺へと追い込んだ要因は何か?と問い、太宰の小説は二つの声の対立によって構成されている、ことを取り上げています。

 その一つは、戦争の死者からの純白な声(死者の遺志を継いで文学に殉じて欲しいという声)、もう一つは、生者の汚れた声(知識人風の理念の純粋さよりもまずは生きることが肝心だという声)、太宰は、前者の方に偏し自殺した、と。

 この洞察から、加藤は憲法9条論を導く。(「戦後から遠く離れて」(論座))それは、「純白な」9条と「汚れた」現実。そこから、理想を生かすため、ねじれを生きるという結論の達する。



 太宰に関わらず、門外漢の私でも、新たな何かを感じれるかも知れないとこの夏は、今までの行動の枠を少しだけ拡げています。

 フットワークも軽く、頭も体も鍛えたい。

 

 
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夕張破綻の真実

2007-08-21 21:29:16 | Weblog
 マラソンで訪れた夕張は、平和運動公園の中に、野球場、ラグビー場、陸上競技場など人口規模からは、不釣合いなくらい立派な施設が整っていた。

 一方、マラソンコースになった清水沢地区は、かつての炭鉱が閉山したため、廃屋が目立ち、集落は散在、声援を贈っていただいたのに大変失礼な言い方であるが、住んでいる方々は高齢者が多く、どうやって暮らしを立てているのだろうかと思った。また、立派なお寺が多いことも印象に残った。(多くの方が炭鉱事故で亡くなったためか。)



 このところ、夕張はマスコミによる全国的な注目と同情を得ているが、昨年の6月10日北海道新聞が財政破綻の記事を掲載した以降は、夕張市ひとりに責任をかぶせる論調で貫かれていた。



 果たして、そうだったのだろうか。ここでは、「夕張破綻 もう一つのストーリー」(金子勝、鈴木徹、高端正幸 SEKAI 2007.7)を参考にする。



 夕張の財政状況を知っていたのに、国は観光施設の建設に補助金を投入し、道庁は、夕張市の借金(市債)に対して許可を与えてきた。国も道庁も夕張の財政状況をかなり以前から(10年より前から)知っていたのはまちがいない。



 道道札夕線のトンネルを抜ける夕張市街地に入るとき、二股の交差点に突き当たる。そこの正面の案内標識には、石炭の歴史村、めろん城、ユーパロの湯、平和運動公園、郷愁の丘ミュージアム、シネマのバラード、マウントレースイスキー場、ホテルシューパロ・・が並んでいる。よくも作ったものだ。

 これらのほとんどの施設が、民間で採算が取れず、市が引き受けた経過を持っている。「官から民へ」の時代に、「民から官へ」を行なったのだ。



 みずほ銀行(旧第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行)が悪い。

 民間で経営ができなくなったスキー場とホテルを買収する時、道庁は、財政負担が重過ぎるとして市の借金を許可しなかった。市は、いわゆるヤミ起債(借金)をすることになったが、そこに融資したのがみずほ銀行であった。

 なぜ、みずほ銀行が、破綻状態が明らかな夕張市に融資したか。

 その当時、みずほ銀行は、スキー場、ホテルの所有者松下興産に巨額の融資をしており、それは不良債権化していた。それを市が買い取れば、正常債権としてまなされるようになるためである。市の買取資金へ融資を行なったのは、金融庁が「自治体向け融資はリスク・ゼロ」と認めていたからである。

 倒産企業への融資より、破綻自治体への融資の方が銀行にとって都合がいいのである。



 さらに、中田鉄治前々市長、中沢健治衆議院議員(市役所労組出身)なども当時どんな動きをしていたのか、明らかにする必要がある。



 マスコミは、軽薄なイベントで夕張への同情を求めるより、それも時間とともにニュースソースとしての価値も薄れおそらく終ったこととして扱われるであろうが、真実をもう少しきちんと伝えるべきであろう。

 とくに、国や道庁の「知らぬ存ぜぬ」は完全な嘘であることはあきらかなのであるから。

 5kmレースのスターターは、高橋はるみ知事だった。どんな気持ちで夕張にきたのであろうか。





 

 
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夕張で「リリーズ」

2007-08-19 19:42:09 | Weblog
 「リリーズ」がステージで「好きよキャプテン」を唄ってくれました。夕張の再生とともに復活したアイドルですが、声も良く出ていて歌が段々と巧くなっているようです。40歳代後半なのでしょうが、白い衣装も似合っていて、スタイルも良く、とても美人(かわいい)でした。



 がんばろう!夕張マラソンフェスティバルのハーフマラソンを何とか完走しました。否、ハーフプラス3km位でしょうか。



 気温は、25℃位でしたが、さすがに夏の日差しは強く、後半に登り坂が続く地形で、過酷なものがありました。お祭りなので、あまり細かいことは言いませんが、距離表示が全く違っていました。残り5kmの表示が、少し早いような気がしましたが、逆に残り1kmになってから長い長いおそらくプラス3km位はあったと思います。

 ゴールしてから、ランナー達は、口々に距離のことを話していました。私も、想定の最悪タイムより15分ほどオーバーしましたので、まちがいなくそうなのでしょう。

 でも、北海道マラソンの良い練習になったととらえればそれも良かったことにしたいと思います。



 もしかしたら、いらっしゃるのではと思っていたら、案の定、宗男ちゃんが5kmに出場していました。宗男氏は、あの事件以降、キャラ立ちしていて、大衆政治家として何とも言えぬ人気と雰囲気を持つようになりました。

 5kmのスターターは、高橋はるみ知事、宗男氏とは正反対の官僚的な無機質の匂いが漂う人です。夕張に現れても、何も地元へのお土産なんて考えていないのでしょう。用が済んだら直ぐ帰る。

 ハーフのスターターは、藤倉市長でした。スタート前、宗男氏と談笑していました。どちらが、地元から頼りにされているのでしょうか。



 コースは、平和運動公園から、清水沢の方に行って帰って来るのですが、沿道に本当にたくさんの方々が出て、声をかけていただきました。asicsが、参加者に夕張と「連帯」しましょうということで、黄色い靴紐を提供してくれました。また、紐の付いた黄色いハンカチが売っていまして、それらを身に着けて走りました。



 夕張は、元気でしたが、毎週毎週イベントが続いて、市民の皆さんが疲れてしまわないかと少し心配です。(花火大会、大相撲、プロ野球・・・)
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がんばろう!夕張マラソンフェスティバル

2007-08-18 13:25:47 | Weblog
 子どもの頃、毎日のように遊んだ海岸です。波打ち際の岩もまだありました。家からは、40mの崖を降りて行けば、10分です。真夏でも、冷たくて、深くて、泳げない海ですから、海水浴客など誰も来ません。波にさらわれたり、岩場から落ちたり、流氷に乗ったり、危険が一杯ですが、遊びものもゴロゴロころがっていました。

 明日は、「がんばろう!夕張マラソンフェスティバル」ハーフマラソンの部に参加します。このイベントは、今日の夕方から始まる日本テレビ系列の「24時間テレビ・愛は地球を救う」とタイアップしているので、もしかしたら、テレビに映るかも知れません。



 今日は、千葉ロッテマリーンズが札幌ドームに来ているので、観戦に行こうと思っていましたが、何とチケットが土日とも完売でした。ハムファンに囲まれて、周りと喜ぶタイミングが全く違うというのも楽しみなのですが、残念。



 情況論ノート第13回


 1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊、その後のドイツは欧州統合と東西ドイツの統一という二重の統合プロセスを歩んだ。

 コール西独首相は、「ドイツ統一と欧州統合は同じメダルの表と裏の関係」と述べ、西独政府が、東西ドイツの統一を構想する際に、ECそして全欧との関係を強く意識した。
 将来、ドイツを欧州の中でどのように位置づけるかという問題(ドイツ問題)が、ドイツ統一のカギであった。(欧州には、ナチスドイツの再来という恐怖が消えていない。)

 ドイツ問題とは、①ドイツの統一で、人口8,000万人の大国ドイツができることへの隣接国の脅威。②ドイツが、西欧から離れて、ドイツの支配する東欧圏を形成する恐れ。これらをいかにして解決するかであった。

 ドイツ統一への対応のポイントは、欧州の安全保障をどのように再構築するかであった。
 具体的には、①ドイツのNATOへの帰属、②ドイツの東部国境(ポーランドとの)を無変更のままで確定、③ドイツ・マルクの統一通貨への融合を行なった。

 ベルリンの壁崩壊後、1990年2月に入っても、東独から西独への移住者の流れは、1日2,000人規模で続いていた。
 移住防止策として、両ドイツの通貨統合により、東独経済の危機を食い止めなければならなかった。その結果、1990年7月1日両ドイツの通貨統合が、10月3日に国家統合も実施された。

 東西ドイツという分断された国家を統一するという国民的な事象を実現するために、国民的なものを無くした上で、欧州統合を深化させる必要があったのは、皮肉である。

 2002年1月1日、ユーロによる欧州通貨統合が12カ国の参加で完成した。

 「ドイツ統一と欧州統合~ドイツの目指した二重の統合」藤澤利治による



 今、この国は、米国に忠実なポチとして追随しているが、アジアの片隅でこれからもずっと生きていくとした場合、欧州の地域統合に、また、格差社会からの脱却するためには、北欧の社会民主主義に、それぞれ学ぶことが多いと考えます。





 
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釧路へ

2007-08-15 20:28:27 | Weblog
 釧路へ帰ると必ず立ち寄るところがあります。

 末広町のレストラン『泉屋』、ミートスパゲッティが旨いです。焼けた鉄板の上でスパゲティとミートがバチバチ油を飛ばしながら出てきます。少し、落ち着いてから出ないと火傷をします。高校生の頃のように、大盛(普通の店では、超大盛)を食べる元気はありませんが、懐かしの味です。



 『東屋』という蕎麦屋、細く緑がかった麺です。春採湖の湖畔に総本店「竹老園東屋」があって、そこで修行をした職人さんが、暖簾分けをして、市内で支店を出しています。今回は、釧路駅近くの店で、大ざるを食べました。

 釧路ラーメンの『銀水』、最近別の名前の店が釧路ラーメンとして札幌に出てきていますが、元祖は、「銀水」か「ばってん」だと思います。魚だしを使った昔風のあっさりとしたラーメンです。一時、釧路でも札幌ラーメンが勢いを増した時期がありましたが、各地の特色あるラーメンが再評価される中、息を吹き返しました。

 帯広が発祥のお菓子屋さんですが、『六花亭』、春採湖を見下ろす高台に、喫茶店とお店を建てました。ここの売りは、まさに景色です。この場所は、私が通っていた中学校の近くで、よくこの辺りに来ていたのですが、当時はこの景観が売り物になるなんて全く考えもよらなかったものです。(写真は、六花亭から)



 幣舞橋のたもとに、『二幸』というお餅屋さんがあります。そこの、「すあま」も柔らかくて美味しいお菓子です。ビルに囲まれて、かわいそうな位小さなお店兼工場ですが、がんばっています。



 半年ぶりの釧路でしたが、大きく変わったのは、中心街にビジネスホテルの新築が目立つことです。会社の釧路支店が閉鎖され、変わりに短期の出張が増えているため、ホテルの需要が伸びているとのことです。JRのスピードアップと便数の増加で、釧路に常駐する必要が減ったためでしょう。



 釧路の店の特徴をもう一つ、禁煙が全然徹底されていないことです。これは、釧路の人の気質から何となく想像が付きます。稼ぐのに忙しく、そんなこと気にしていられないというものです。有機栽培とか、健康食品なども釧路では振るわないでしょう。

 そんなことを言っていると、「いいふりこき」といわれそうです。
 
 
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『夕凪の街 桜の国』

2007-08-14 19:51:18 | Weblog
 「夏休み」も今日で終わり、あまりに暑いのでランニングで思いっきり汗を噴出させた後、冷房の効いた映画館に逃げ込む。 



 『夕凪の街 桜の国』(佐々部清脚本・監督 こうの史代原作 松竹 2007年作品)

 予め何となくストーリーが予想され、「桜の国」という言葉も、誰かの「美しい国」を連想させるようで、特に期待もなく観てしまった。



 良かったです。多くの方にお薦めします。

 戦後13年が経ったヒロシマが「夕凪の街」です。一人目の主人公、平野皆実(麻生久美子)は、好きな人に自分の被爆の秘密を話した後、突如原爆症を発症してしまいます。

 その後の出来事は、「桜」が満開の東京で起きました。二人目の主人公は、皆実の弟の娘。石川七波(田中麗奈)は、平成19年、父が亡くなった姉(皆実)の50回忌に、広島を訪ねるのに同行して、被爆の事実を知ります。

 原爆症は、いつ発症するかわからない。被爆者は、その身体の恐怖を抱き続けながら生きています。例え、発症しなくても、社会の偏見など心にも深い傷を負っています。それも、被爆した当事者だけではなく、何代も続いていることがわかります。



 人の人生とか、運命とかを考えました。自分自身、もう二度と後戻りの出来ないところまで来ていることが実感させられました。私たちは、様々な悲しみや困難を受け入れながら進むしかないのでしょう。 



 いとも簡単に人を戦場へ行かせることを画策したり、脅威を煽って好戦的な気分で言葉を吐いている政治家にも観て欲しいと思います。もちろん、一人でも多くの人に。どんな反戦映画より戦争が長い時間に亘って人を傷つけるものということがわかります。



 女優麻生久美子が、清純で可憐な演技をしていました。佐々部監督は、既に「結婚しようよ」(全編に吉田拓郎の曲が使われているそうです。)を撮り終えているとのことです。

 ♪八月の光がオレを照らし
 コンクリート・ジャングル 焼け付く暑さが
 オレの心を いらつかせる
 いやせない みたせない なぐさめもない ・・・
 いつも いつも 遠くから見ていた ヒロシマ (吉田拓郎から)
 

 
 
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『釧路から』

2007-08-13 20:14:00 | Weblog
 さいはての駅に下り立ち
 雪あかり
 さびしき町にあゆみ入りにき  石川啄木



 ここで言う「さいはての駅」とは、釧路駅である。私はいつも、この「くしろ」という読みに対して、他の町には無い独特の響きを感じる。それは、「釧」という文字を、釧路という地名以外で、何らかの文章中で使っている例を知らないからである。他の町の地名の文字は、大抵、日常的に使っているのではないだろうか。



 『釧路から~国語教師からのメッセージ』(小田島本有著 釧路新書28 2007年刊)

 著者は、釧路工業高等専門学校の国語の教師であるとともに、啄木を中心に釧路に関わる文学を研究し、また市民が郷土の文学に興味を抱くようにと活発な活動をされている方である。

 啄木が釧路に滞在したのは、わずか76日間のことだが、著者は、その間の啄木の女性をめぐる話題や借金のことなどのエピソードを興味深く紹介している。

 特に、小奴という芸者との関係は、

 小奴といひし女の
 やわらかき
 耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり

 や

 よりそひて
 深夜の雪の中に立つ
 女の右手(めて)のあたたかさかな

 の表現から、私たちが想像するしかないという、著者の啄木への導きは巧い。

 また、啄木が、各地を転転とする間に、今の1.000万円以上の借金を重ねたという事実、また、そんな啄木を支援した同じ岩手出身の国語学者の金田一春彦なども登場する。



 啄木の他にも、釧路からは、「挽歌」の原田康子、詩人の更科源蔵、「北海文学」を発行し続けた鳥居省三などが輩出しており、著者によって紹介されている。



 私は帰郷すると、必ず寄るところがいくつかあるが、北大通の「山下書店」もその一つである。釧路関連の新しい出版物を探すためである。

 釧路新書は、釧路市地域史料室が、2年毎位に出版を続けているのであるが、近年は、「街角の百年~北大通・幣舞橋~」(2001年)、「戦後史ノート(上)」(2002年)、「同(下)」(2004年)などを出版している。

 このような地道な仕事が地域の文化的な力を付けていくのに役立つと共に、新たな文人などを生む出す土壌をつくるのだろう。

 

 
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2008年北京オリンピック

2007-08-10 09:12:29 | Weblog
(1) 麦藁帽子は もう消えた
  田んぼの蛙は もう消えた
  それでも待ってる 夏休み

(2) 姉さん先生 もう居ない
  きれいな先生 もう居ない
  それでも待ってる 夏休み

(3) 絵日記つけてた 夏休み
  花火を買ってた 夏休み
  指折り待ってた 夏休み

(4) 畑のトンボは どこ行った
  あの時逃がして あげたのに
  一人で待ってた 夏休み

(5) スイカを食べてた 夏休み
  水まきしたっけ 夏休み
  ひまわり 夕立 蝉(セミ)の声



 昨日から、6日間の「夏休み」。「晴走雨読」をしようと思っています。

 蝦夷梅雨なのでしょうか、夏の太陽がいません。走り込みには、あまり強い日差しが無いのはいいですが、少し湿度が高いです。

 私は、北海道日本ハムファンではありませんが(なお、千葉ロッテマリーンズを贔屓にしています。)、昨夜は、ダルビッシュの快投と試合後のヒーローインタビューを観に札幌ドームに行ってきました。観客も、いつもは7回くらいになると帰り始める人も多いのですが、昨夜は最後まで皆さん、最後までいらっしゃいました。



 「2008年北京オリンピック」まで後1年ということで、記念イベントが開催されていました。アジアで3回目の開催、驚異的な経済成長を遂げている中国の力を魅せて欲しいものです。



 『そうだったのか!中国』(池上彰著 ホーム社 2007年刊)は、読みやすく楽しい本です。

 池上彰氏は、元NHKで、毎週土曜日の夕方の「週間こどもニュース」にお父さん役として出演していて、その時々の話題、政治・経済などの難しい仕組みも、こどもにもわかるように、否、大人が「なるほど、ああ、そうだったのか」とうなずくような解説してくれました。

 「そうだったのか!」シリーズも、現代史、現代史2、日本現代史、アメリカに続く第5弾になり、いずれも複雑なことを良く整理して表現されており、私のお気に入りの本のひとつです。



 マスコミでは、この国に充満するアジア的な排外主義の気分の中で、中国国内の人権問題などを伝え、オリンピック開催に疑問符(ケチ)を付けているようです。

 確かに、池上氏の著書からも、中国は、これまでの人権上の問題、例えば、1950年代の大躍進政策、1960年代の文化大革命の総括や、チベット、台湾、香港などとの関係などたくさんの課題を抱えています。

 しかし、批判的なそれぞれ国にも、人権問題は存在しています。この国においても、アイヌ民族をはじめ少数民族の問題、差別解放問題、在日朝鮮人関し参政権などの問題・・・、米国においては、人種問題が最大の課題でしょう。

 人権問題とオリンピック開催は、全く別の次元の問題と考えます。

 



 
 
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『ホワイトハウスから徒歩5分』 その7(最終回)

2007-08-06 20:47:38 | Weblog
 街を歩くと、今、アジサイの花が咲いています。丁度、色が変わる時期なのでしょうか。株ごとに微妙に違っています。



 『ホワイトハウスから徒歩5分』 その7(ようやく最終回です。)

 2005年1月 ブッシュ就任式

 2005年2月 ブッシュ欧州歴訪

 2.17 新設の国家情報長官に、就任わずか8ヶ月のネグポンティ初代駐イラク大使を任命。氏は、1970年代後期、ホンジュラス大使などをつとめ、中米政策に深く関わっている。ニカラグアのサンディニスタ革命政権への干渉・破壊にも関与している。

 アメリカは、反サンディニスタ勢力の「コントラ」を支援し、ホンジュラス国境からニカラグアに侵入させ、内戦を本格化させた。

 レーガン政権下の1986年11月、アメリカのイランへの武器売却代金がコントラへ流れていた事実が発覚(イラン・コントラ事件)。

 その時に、アメリカの支援資金洗浄をしていたのが、何とサレム・ビンラディン(オサマの実兄!)だった。



 アメリカでは、進化論を受け入れている人の割合が45%、敬虔なカソリック国ポーランドでさえ、75%、その他の先進国では80%以上、日本では96%。

 今日、アメリカの学校で「進化論」を教えることがタブーになりつつある。人間は、神がお創りになったものだから、猿から人間が進化したなどという「邪論」は、学校で教えてはならないというものである。



 2005年3月 

 アメリカで、メディアに頻出しているチェックポイント社、個人のプライバシー情報を顧客に売買して急成長を遂げた企業が、ブッシュ政権と深いつながりにある。

 ブッシュが辛勝(537票差)した、2000年大統領選フロリダ州で、子会社が、選挙登録人リストから排除すべき94.000人分を選び出し、選挙人名簿から外された。

 その後、その大半が不当に排除されたことが判明している。その多くは、民主党支持のマイノリティであった。



 2005年4月 ベトナム解放30周年記念日(4.30)

 2006.9.5 是枝裕和(映画監督、テレビディレクター)との対談より

 ジャーナリズムの役割は、「正義」の実現というのは、どこは社会的制裁と重なりあっている。社会的制裁は、警察権力や裁判所で加えられるべきものにもかかわらず、ジャーナリストたちが喜んで買って出ている。

 見ている瞬間に、見せられている側が、何を見せられているか、どういうものなのかわからないとダメ。視聴者が、ああ、そういうことだったのかと、後で気がつくのではなぜいけないか。

 見ている側に、ものを考えさせないようにすることを、今のゴールデンタイムでは目指されている。

 2005年5月 金平氏東京へ戻る。



 3段組、380ページ、2週間ほどかけて読んだ。普段のTVニュースや新聞では、読み流してしまう重大な事実、事件と事件の因果関係など、日記という形式の深みの浅い表現ながら、その頃を思い出しながら、あらためて振り返ってみることは、私にとってとても楽しい時間であった。

 比較的現在に近い歴史は、そのまま現在の事象に繋がる要因を含んでおり、そこには、「今、ここ」というものを獲得する大きな手がかりがある。






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『ホワイトハウスから徒歩5分』 その6

2007-08-05 13:51:22 | Weblog
 「ファーブルにまなぶ」展で、写真撮影OKの蛾です。



 『ホワイトハウスから徒歩5分』 その6

 丁度3年前位のできごとです。記憶の不確かさが自覚できます。



 2004年7月 11月の大統領選挙に向けて民主党大会 

 7.10 チャールズ・ジェンキンス氏ジャカルタ到着
 2002年の小泉首相第1回訪朝当時、1978年に拉致されていた曽我ひとみ氏の存在は、日本側拉致被害者リストに載っていなかった。日本政府は、2002年まで事態を放置していた。



 2004年8月 

 8.6 ナショナル・アーカイブス(国立公文書館)の公文書によると、1950年代の日本政府は、ヒロシマ・ナガサキに原爆を投下されたことを、「人道に対する犯罪」ととらえていて、アメリカ政府に言うべきことはきちんと言っていたことがわかる。



 2004年9月
  
 ブッシュの軍歴疑惑に関し、この政権には、パウエル国務長官を例外として、自らは戦場体験が無いのに、他人を戦場に(勇ましい号令とともに)送り込む輩がいる。日本にも、「ひるんではならぬ。」とか言っている同類がいる。



 2004年10月

 10.9 ジャック・デリダ死去
 彼は、9.11直後、「この出来事に対して、盲目的に軍事的な答えだけしかだせないとすると、何も変えることはできないでしょう。」と発言していた。



 2004年11月 ブッシュ再選(残念ながら、2008年まで任期がある。)

 大統領選挙の有権者の最大の関心事は、モラル・バリュー(道徳的価値感)だそうだ。
  
 パウエル辞任、後任の国務長官に死神ライス。彼女は、旧ソ連の専門家で古い安全保障理論の信奉者である。



 2004年12月 12.25東南アジアで津波被害

 ゴジラの第1回作品(1954年)は、反戦・反核という思いを込められたものであった。当時起きた第五福竜丸の「死の灰」事件(3.1ビキニデー)で、日本の漁民が水爆被害にあったことが、ゴジラという日本製怪獣の出自に直接関わっている。

 しかし、米国での公開に当たっては、その「反戦」部分が見事にカットされていた。




 そして、2004年が暮れた。



 外国人横綱朝青龍がバッシングを浴びている。旧態依然たる相撲界の状況に一遍の反省も聞かれない。出来の悪そうな顔をした親方衆だけの運営も限界。

 一番悲しんでいるのは、さる高貴なご一家の相撲ファンであるお嬢さんではないでしょうか。
 


 
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『ホワイトハウスから徒歩5分』 その5

2007-08-04 15:29:58 | Weblog
 土曜日の早朝、日曜日の夜、お客さんの時間に合わせた営業あります。中々、完全休日がありません。

 また、本日は雨天で、走れません。走り込みができず少々あせりを感じています。



 『ホワイトハウスから徒歩5分』 その5 

 2004年4月 日本人3人がイラクで誘拐、人質になりました。

 国家には、自国民保護の大原則があるというのに、「自己責任」などと言い出し、自衛隊派遣という「国策」に従わない奴は助けないという暴論がおこりました。

 某ナンミョーホーレンゲー教政党の幹部は、「損害賠償をするかどうかは別として、政府は事件への対応にかかった費用を国民に明らかにすべきだ。」と発言しました。



 2004.4.15 コリン・L・パウエル国務長官との対談

 彼ら日本人が高邁な思いを胸に、良かれと願い、あえて危険に身を投じたことを私は大変嬉しく思います。日本の皆さんも、そのような
行動をあえて取った日本市民がいたことを大いに誇らしく思うべきである。

 あのパウエルがまともに感じてしまうような錯覚に陥ります。



 4.19 ボブ・ウッドワード記者による「Plann of Attack (攻撃計画)」が出版された。

 その中から、イラク攻撃前にブッシュが事前に「戦争をすべきかどうか」を相談したのは、あの死神ライスとカレン・ヒューズ女史(選挙広報担当)の2人の女性のみであった。

 チェイニー副大統領は、サウジ駐米大使に事前に、攻撃プランを提示して協力を求め、引き換えに、大統領選挙の前に石油価格を引き下げてもらいように持ちかけた。
 
 テネットCIA長官は、「大量破壊兵器の保持は、スラムダンク(バスケット)くらい絶対確実だ」とブッシュに報告している。

 テネットは、その後まもなく辞任することになる。



 2004年5月 アブグレイブ刑務所でイラク人虐待事件が発生

 人間はある種の状況下では、いくらでも残忍になる。他人をまるでモノのように扱い、思う存分にいたぶることができる。
 相手の絶対的無抵抗が保証されていれば、その相手は、人間の尊厳を剥奪された単なるモノになる。



 金平氏のこの言葉には、違和を感じます。氏は、普段の人間は残忍で無いと言う自分を含めた前提で語っています。また、後段の論理は、武装の論理の容易に繋がってしまいます。

 氏のカマトトぶりには時々あきれます。

 2004年6月 レーガン元大統領死去



 

 



 



 
 
コメント
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