晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

パソコンの調子が・・・

2013-10-19 21:00:52 | Weblog

 7年間使っているパソコンの調子が悪くこのブログの更新が出来ないでいました。動作が重くなって機能の低下が著しい状態です。今週末は営業が続き、「走」にも「読」にもまとまった時間がとれませんが、手短に最近感じていることを少し記します。

 既視感という感覚は誰にでも経験があると思います。自分が今いるシーンは以前にも見たことがあり、この先の展開も何となくわかるような感じです。

 それとは少し違うのですが、私が最近感じるのは、どうして今自分がこの場面にいるのだろう、今どうしてこの人(たち)と話をしているのだろうと、ふと思うことがあるのです。論理的には様々な過程を経て今こうしているのだということはわかるのですが、でもなぜ今自分はこういう情況の中にあるのだろうかと思ってしまうのです。特に苦痛でも現実を逃避しようとも思っていないのですが。

 もうひとつは、自分の言葉が中々成長しないなという感覚です。書き言葉も話し言葉もそうです。ボキャブラリーというより、言葉の使い方について質の部分です。脳みその構造がそうなので変わり難いとは思うのですが、他の人とは違った自分流の言葉の表現で、かつ他者に理解してもらえるような表現を身につけたいと思っています。かなり欲張りだと思います。

 朴さんからコメントをいただいておりますが、ご返事については少しお待ち願います。

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共同幻想の不調和

2013-10-08 20:21:45 | Weblog

 

 新島襄と八重がキリスト教を理念として創設した同志社大学、その学食メニュー。カフェのように奇麗で値段が安い!

 

 同じ宗教を信じている信者、結社の綱領に同意した革命政党の党員、同じ思想を持つ○○主義者、それら信者、同志、同朋同士が互いを信頼しているかといえば、全くそんなことはありえない。と、吉本隆明が述べている。

 不思議な構図だと思う。同じ目標や信念を共有していれば、全く異なる考えを持つ人に比べ、阿吽の呼吸で意思疎通ができ、信頼をベースに行動できると考えるのが当然のことだと思う。しかし、歴史を顧みると宗教内部のセクト闘争、革命党の分裂から党派闘争、全体主義国家の崩壊過程など、元を辿ると構成員は同じ考えを共有していたはず。さらに、関係が近いほど齟齬が生じたときの憎悪は激しいものであることを私たちは歴史から学んだ。

 なぜか。宗教、思想・・は共同幻想の次元にある。それがどこまで個人幻想の次元に落とし込まれているかではないか。共同幻想には同意したとしても、それぞれの個人幻想には、差異が残る。例えば、捨てきれぬ権力欲である。

 いじめを無くすため学校で道徳教育を強化しなければならないと言われている。しかし、いじめをしてはいけないという共同幻想をいくら学習しても、ひとりひとりの個人幻想に落とし込まない限り、それは実践を伴わないただの知識に終わってしまう。そんなことで、共同幻想の不調和としてのいじめは無くならないだろう。

 

 

 

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芸術の秋

2013-10-06 17:19:23 | Weblog

 知恩院、京都の大きなお寺です。

 

 若い頃、絵はわからないと思っていた。わからないとは、わかろうともしていなかった自分への言い訳でもあったし、言葉のように読むとそれなりにその意味がわかることとは全く違う世界にあって理解不可能だと思っていた。

 上京したある日、上野で「日展」を見た。何百もの作品を見た後、ひどい疲れに襲われた。一枚一枚の持つ絵の力、絵の放つエネルギーを感じたからだということに気付いた。作者は自分の作品に何事かの思いを込め表現している。それをただ感じる、その感じたままを受け入れること、それを素直に絵をわかったといっていいのだろうということがわかった。

 しかし、具象的な絵や彫刻は、まだわかりやすいが、抽象画、デザイン画となるとまだまだ良くわからない。対象を少し広げると、映画や舞台、歌舞伎、能など言葉を伴うものは比較的理解しやすい。音楽や建築物からも主張を感じることができる。難しいのは、ダンス、舞踏だ。己の肉体を使った表現だがわからないことが多い。その理由は、こちらの側に受容できる構えが無いからだと思う。

 吉本隆明は、言語に2つの機能があるという。指示表出、すなわち言葉の「指し示し」、「伝える」機能である。この機能をストレートに使っている芸術はわかりやすいと思う。言葉のもう一つの機能は、指し示さない、伝えない機能である。それを、自己表出といい、自己の内面における自己との対話としての言語である。自己表出は、芸術全般において、作者が何かを表現しようとする場合必ず用いている機能だと思う。

 吉本のこの言語機能の2面性は、マルクスが「資本論」冒頭の商品論で用いた「商品」の持つ2面性、使用価値と(交換)価値から発想を得ているという。全ての商品の持つ有用性、すなわち使用価値に当たるのが、指示表出、商品に内在し、交換過程において明らかになるのが交換価値、それは自己表出にあたるといえる。

 芸術の秋、日常の風景を見て何かを感じる。今日は、夕焼けがきれいだ。

 

 

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『ヤマトタケル』 シネマ歌舞伎

2013-10-02 20:36:33 | Weblog

 「ヤマトタケル」(シネマ歌舞伎 松竹製作・配給) 

 梅原猛原作、奈河彰輔監修、三代目市川猿之助(現市川猿翁)脚本・演出のスーパー歌舞伎。平成24年新橋演舞場「六月大歌舞伎」公演をそのまま映画として収録。演ずるのは、四代目市川猿之助(襲名披露)、九代目市川中車(俳優の香川照之)(襲名披露)、五代目市川團子(初舞台)

 歌舞伎の世界は血縁関係が濃く家系がものを言う世界だと思うが、中車となった香川照之の母は女優の浜木綿子、父は三代目猿之助(猿翁)。しかし両親の離縁により香川は歌舞伎界とは無縁だった。しかし、香川の長男政明(市川團子)の誕生がきっかけとして、父と和解、歌舞伎界入りを果たす。そのデビュー作がこの平成24年新橋演舞場での「六月大歌舞伎」。四代目猿之助は従弟の二代目市川亀次郎。

 フィナーレでは、病気療養中(アルツハイマー)の父が舞台に上がり、息子の香川、孫の團子と手を取り合って観客に挨拶すると言う感動的なシーンもあった。

 ここまでは、香川の実生活だが、「ヤマトタケル」の物語も、中車(香川)演ずる帝と四代目猿之助演ずる帝の子ヤマトタケルによる親子確執のドラマ。舞台上の父と息子の葛藤劇と実生活がオーバーラップしながら観劇したファンも多かったのではないかと思う。

 スーパー歌舞伎という手法は、父三代目猿之助が歌舞伎界の伝統を打ち破った形式であり、中でも役者が空中を飛ぶなどということは従来の方法からは想像できないような演出なのであろう。ただ、大見得の切り方、早替わり、立ち回りなど随所におけるそれぞれの所作は全て歌舞伎の伝統を引き継いでいる。

 私は、歌舞伎版の「古事記」はどのようなストーリー、そして表現方法になるのだろうかと思って観に行ったのであるが、すっかり興味が芸能ネタの方に変わってしまった。歌舞伎ファンから見れば、何を今さらというようなブログの内容だと思うが、私にとっては新しい世界の入り口に入ったような気分である。なお、上映時間は、9時30分からで幕間が2回、10分ほどの休憩を挟んで、13時50分までの4時間。

 

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